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辺境の月姫は、今日ものんびり人を救う  作者: 八咫


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2.くまさんと、胃が痛い朝




◇◇◇◇◇



世界には二種類の美しさがある。


近づきたくなる美しさと、近づいてはいけない気がする美しさだ。


リヴが思うに、ラルスくんは明らかに後者だった。


――でも、別に近づいちゃいけない理由もないし、別にいいよね?




◇ ◇ ◇




雨だった。


精霊が言った通り、夜のうちから降り始めた雨は、朝になっても止まなかった。山の雨は長い。下手をすると三日は続く。リヴはそれをよく知っているので、昨夜のうちにしっかり薪を室内へ運び込み、屋根の補修もしておいた。小屋はよく乾いていて、雨音だけが静かに満ちている。


問題は、ラルスだった。


リヴは毛布を抱えて、居間の長椅子で眠っているラルスを見た。


――きれいな人だなあ。


昨夜は薄暗くてよく見えなかったが、朝の光の中で見ると、つくづくそう思う。黒い髪が額にかかって、長い睫毛が頬に影を落としている。顔の造りがいい、というより、この世の設計図を作った誰かが、とくべつ丁寧に作ったとしか思えない顔だ。彫刻のようにすっと通った鼻梁、形のいい唇、眠っていても翳りのある眉。


なのに今は口をわずかに開けて、すうすう眠っている。


リヴはくすりと笑って、毛布をそっとかけ直した。


脇腹の傷は昨夜より塞がっている。あと二日もあれば、動いても支障のない程度には治るだろう。それまではなるべく安静にしていてほしいが、昨夜のラルスの様子を見る限り、おとなしくしているタイプではないかもしれない。


「朝ごはん、何にしようかなあ」


リヴはひとりごとを言いながら、台所へ向かった。



◇ ◇ ◇



ラルスが目を覚ましたのは、香ばしい匂いのせいだった。


何かが焼けている。パンか。いや、もう少し甘い匂いがする。


目を開けると、知らない天井があった。一瞬緊張が走って、それから昨夜のことを思い出した。黒霊廟山。銀髪の少女。スープ。


ゆっくりと上体を起こすと、脇腹がじくりと痛んだ。だが昨日よりずっとましだ。あの少女が言っていたとおり、回復は早い。というより異常に早い。ラルスはそれを考えながら、室内を見回した。


小さな小屋だった。台所と居間が一続きになっていて、奥に扉が一つ。寝室だろう。壁に棚が並んでいて、陶器の瓶が整然と並んでいる。薬だろうか。種類が多い。そして天井の梁には、大量の薬草が吊るされている。


窓の外は雨だった。


台所では、リヴが鉄板の上で何かを焼いていた。後ろ姿だけでもわかる銀色の髪。丈の短い草色のエプロンをして、木べらを持っている。小柄な体がちょこちょこと動いている。


「あ、起きた?」


振り返った顔を見て、ラルスは一瞬、目をそらしたくなった。


昨夜は夕暮れの中で、今朝は朝の光の中で、リヴの顔がはっきりと見えた。整っている、という言葉では足りない気がする。淡い紫がかった灰色の瞳は、霧の中の月のように静かに輝いていて、白い肌は朝の光をそのまま吸い込んだようだ。髪は結わずに流したままで、その銀色は光の加減で白にも青にも見えた。


年の頃は十六か七。端正、という言葉はこういう顔のためにある。


――なぜこんな山に一人でいるのか、という疑問が改めて強くなった。


「おはよう。ちょうどよかった、ハチミツ焼きできたとこ」


リヴは皿を持ってきて、ラルスの前の小さなテーブルに置いた。丸く焼けた平たいパンに、蜂蜜が染み込んでいる。湯気が立っている。


「今日は雨だから外には行けないね。ゆっくりしてていいよ」


「……世話になる」


ラルスは素直にそう言った。礼の言葉が素直に出てきたのは、自分でも少し意外だった。


「傷はどう?痛い?」


「動ける程度には回復した。お前の魔法のおかげだ」


「そっかあ、よかった」


リヴは向かいに腰を下ろして、自分の分の焼きパンを手でちぎりながら、のんびりと言った。


「でもまだ無理しちゃだめだよ。ちゃんと治りきる前に動くと、あとで響くから」


「わかった」


素直に頷きながら、ラルスは改めて考えた。この少女の魔法は何者なのか。昨夜から問いが頭を離れない。


「リヴ」


「なに?」


「お前の治癒魔法は、どこで習った?」


リヴは少し考えるような顔をした。


「おばあちゃんに教えてもらったよ。昔から、体が悪い人や怪我した動物とかを治してたんだって。だからわたしも自然に覚えた感じ」


「……自然に」


「うん。難しくないよ?ラルスくんも魔力あるならできるんじゃない?」


ラルスは返事をしなかった。


――瘴気の除去は古代魔法の領域だ。現代の術師が十年かけても習得できないと言われている。それを「難しくない」と言う。


焼きパンを一口食べた。甘い。うまい。胃が温まる。


それとは別に、何かが胃の奥でじわじわと痛み始めた気がした。




◇ ◇ ◇




午前のうちは、雨の音だけが続いた。


リヴは薬の仕込みをしていた。小さな石臼で薬草をすり潰して、何かの液体と混ぜて、陶器の瓶に詰める作業を、飽きもせず繰り返している。ラルスは長椅子に横になりながら、その様子を眺めていた。


「何を作っているんだ?」


「解熱薬。あとで精霊ちゃんたちにふもとまで届けてもらうの」


「精霊が薬を届けるのか」


「うん。風の子たちが得意なんだよ、荷物運び。お礼に木の実とかあげると喜ぶから」


まるでそれが当然のことのように言う。ラルスは視線をさまよわせた。窓の外、雨の中に確かに何かが揺れている気がした。薄い光のようなもの、あるいは空気の歪みのようなもの。


精霊は存在する。それ自体は知識として知っている。だが実際に見えるのは、相応の素質を持つ者だけだと言われている。


「ラルスくんは精霊見える?」


問われて、ラルスはわずかに考えた。


「……輪郭らしきものは、かろうじて」


「えっ、すごい!騎士さんなのに」


無邪気に感嘆するリヴに、ラルスは少し複雑な気持ちになった。


――騎士、と言ったが本当は王子だ。王家の血には霊的な感応力が宿るとされているから、精霊の気配が感じられるのはそれほど不思議ではない。しかしそれを説明するわけにはいかない。


「おばあちゃんはどんな人だったんだ?」


話題を変えるつもりで聞いた。リヴは石臼を動かす手を止めずに、ふんわりと笑った。


「優しい人だったよ。怒ったところ、一回も見たことない。でも、ここがいろいろすごくて」


と、こめかみのあたりを指でとんとんした。


「知ってることがたくさんあって、何でも教えてくれた。魔法のこと、薬のこと、精霊のこと。あと、山の歩き方とか、魔物との付き合い方とか」


「魔物との、付き合い方」


「うん。怖がらせないようにする方法とか、テリトリーの避け方とか。あ、くまさんのテリトリーはちょっと広いから最初は苦労したなあ」


またくまさんだ。


ラルスは静かに深呼吸した。


「リヴ。そのくまさんというのは――」


「黒くて大きくてもふもふでしょ?知ってる知ってる。ここ来るときに会ったでしょ、ラルスくんも」


「あれで傷を負った」


「えーっ!くまさんが?」


リヴが初めて少し驚いた顔をした。


「珍しいな〜。あの子、普段はおとなしいのに」


「……おとなしい」


「いつもはほっといてくれるんだよ。でもラルスくんが瘴気に当てられてたから、もしかして弱ってるとこに反応しちゃったかも。ごめんね、あとで話しとく」


話しとく、という語が、ラルスの頭の中で三回ほど反響した。


――あれと話す気でいる。あの黒禍熊と、この少女は話をする気でいる。


ラルスは長椅子に仰向けになって、天井を見た。木彫りの精霊がこちらを見ている気がした。


胃が、静かに痛んだ。





◇ ◇ ◇




昼を過ぎてしばらくしたころ、雨が少し弱まった。


リヴは縁側に出て、雨脚を眺めながら何かをぼんやりと考えていた。ラルスは傷に障らないよう気をつけながら横に並んで立った。


山の雨は、平地とは色が違う。黒霊廟山の瘴気が水に混じるせいか、雨粒がほんのり青みがかって見える。不気味なはずなのに、リヴの横で見ると、なぜかきれいに見えた。


「ラルスくんはどうしてここに来たの?」


唐突にリヴが聞いた。


ラルスはわずかに間を置いた。


「調査だ。この山から瘴気が漏れ出して、ふもとの村に影響が出ているという報告があった。状況の確認に来た」


嘘ではない。ただし本当のことの半分も話していない。


リヴはふうん、と小さく頷いた。


「それはたぶん、山の北側の封印が少し緩んだせいだと思う」


「……封印?」


「山全体を覆ってるおばあちゃんのお守り。北の端っこが少し古くなってたから、先月直しといたよ」


さらりと言って、リヴは雨の中へ手を伸ばした。雨粒が白い手のひらに落ちて、青みがかった光をほんのりと散らした。


ラルスの思考が、高速で走った。


――封印。山全体を覆う封印。黒霊廟山が「死地」でありながらふもとの村が完全には壊滅していない理由を、王国の術師たちは長年解明できずにいた。自然発生する瘴気の流れが偶然うまく抑えられているのだろうという、根拠の薄い結論しか出ていなかった。


――それが封印だったのか。しかも、先月「直した」と言った。


「お前が、この山全体に封印を張っているのか」


「張ってるというかー、おばあちゃんが元々張ってたやつを維持してる感じ。おばあちゃんがいなくなってから、わたしが引き継いだの」


「それはいつからだ」


「三年前かな」


三年前。それはリヴが十四か五のときだ。


山全体を覆う規模の封印を、十代の少女が三年間維持し続けている。しかも本人はそれを「おばあちゃんのお守り」と呼んでいる。


ラルスは縁側の柱に手をついた。別に体に異常はない。ただ、何かを支えたかった。


「……それを、一人でやっているのか」


「精霊ちゃんたちも手伝ってくれるよ。あと、くまさんもたまに見回りしてくれてる」


くまさんが見回り。


ラルスは今度は柱ではなく、額に手を当てた。


「……そうか」


「なんか顔色悪くない?痛い?」


リヴが心配そうに顔をのぞき込んできた。間近で見ると、やはり途方もなく整った顔をしている。灰紫の瞳が、曇り空の光をそのまま映している。


ラルスは一瞬、目が離せなかった。


「……傷ではない」


「じゃあ何?」


「胃が、少し」


「えっ、胃?それは薬あるよ!ちょっと待って」


リヴが元気よく台所へ戻っていく。


ラルスはひとり縁側に残って、山の雨を眺めた。


――この山は死地ではない。この少女が守っている。そしてその少女は自分が何をしているかを、たぶんよくわかっていない。


それが、妙に怖かった。


守られている側の自覚がない者を、誰が守るのか。


「はい、胃薬!」


小瓶を差し出すリヴの顔は、屈託なく明るい。


ラルスは受け取って、一口飲んだ。後味は不思議なほど爽やかで、じわじわと胃の重さが引いていく。よく効く。効きすぎるくらい効く。


「どう?」


「……効いた」


「よかった〜」


リヴはにっこりした。


その笑顔を見て、ラルスは静かに思った。


――この薬が切れたあとに、また胃が痛くなりそうだ。





◇ ◇ ◇





夕暮れが来て、雨がまた少し強くなった。


夕食の支度をするリヴの背中を見ながら、ラルスは今日一日で知ったことを整理した。


瘴気の除去ができる。傷の治癒が規格外に速い。山全体に封印を張っている。精霊と会話ができる。黒禍熊と顔見知りである。そして本人はそのどれひとつを「大したことだ」と思っていない。


――報告書には何と書けばいい。


いや、それ以前に。


――この少女のことを、王国に知らせてはいけない気がする。


その直感は、騎士としての判断なのか、それとも別の何かなのか、ラルスにはまだわからなかった。


「ラルスくん、今夜はお鍋だよ」


リヴが振り向いて言った。湯気の中で、銀の髪がほわりと揺れている。


「……ありがとう」


我ながら、らしくない返し方だと思った。


リヴはくすりと笑って、また台所に向かった。鍋が煮える音と、雨の音が混ざり合う。


黒霊廟山の夜は、静かに更けていく。


そしてラルスの胃は、薬のおかげで今夜だけは穏やかだった。





こんにちは。八咫です。

人生で初めて小説にチャレンジしています。

誤字脱字なども多々あるかもですが、暖かい目で見守っていただけますと幸いです。


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