1. 死地の朝
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クレーデン王国の辺境に、ひとつの山がある。
地図には名のみ記され、旅人は遠巻きに目を逸らす。
黒霊廟山――人はそれを、死地と呼ぶ。
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春の朝というのは、どうしてこんなに気持ちがいいのだろう。
リヴはぐっと背伸びをして、深く息を吸い込んだ。
山の空気は冷たく、それでいてやわらかい。瘴気の匂いに慣れてしまった鼻には、かえって薬草の青い香りがよく届く。小屋の軒先には昨日摘んだばかりのリラ草が束ねて吊るしてあって、朝露を受けてしっとりと光っていた。
「今日もいい天気だねえ」
誰に言うでもなく、リヴは空を仰いだ。黒霊廟山の頂はどんより霧に包まれているのが常だが、こんな朝だけは稜線がくっきりと見える。遠くで鳥が鳴いた。いや、鳥ではない。羽が三対あって、尾が蛇のように長い、魔物の一種だ。リヴはその声に小さく手を振った。
「おはよー」
返事はなかったが、鳴き声が一度大きくなって、それから遠ざかった。リヴはそれで満足して、腰の籠を手に取った。今日は山の中腹まで下りて、ユイタ草とシラ菊を採ってくるつもりだった。先週から仕込んでいる解熱薬の材料が足りなくなってきているし、熱を下げる軟膏も在庫が心もとない。
といっても、患者がいるわけではない。
リヴがこの山で作った薬は、主にふもとの村人たちのところへ届く。届けるのはリヴ自身ではない。風の精霊や、山をうろつく小さな妖精たちが、気が向いたときに運んでくれる。お礼として置いていかれるのは木の実や果物や、ときどき手紙だ。リヴは文字が読めるが、ふもとの人たちはリヴが文字を書けると知らない。だからいつも手紙には「山のお薬ありがとう。助かりました」と書いてある。
それで十分だった。
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中腹まで下りると、瘴気が少し濃くなった。
霧のような黒い靄が、地面に薄く漂っている。クレーデン王国の騎士たちが「一歩踏み込んだだけで息ができなくなる」と言って恐れる、あれだ。リヴにはよくわからないが、おばあちゃんが言うには、体の中に魔力が少ない人間は、この瘴気を吸うと蝕まれていくらしい。
「ふーん」
と、三歳のときに聞いた話を今さら思い出しながら、リヴはしゃがみ込んだ。足元に群生しているシラ菊の白い花を、丁寧に根元から摘んでいく。引きちぎってはいけない。葉に傷をつけると薬効が落ちる。おばあちゃんから教わったことだ。
おばあちゃん、か。
リヴはゆっくりと瞬きをした。三年前に逝った祖母のことは、今もよく思い出す。悲しいというより、温かい記憶だった。最後まで穏やかに笑っていた人だった。
「リヴ、お前はここで暮らしなさい」
祖母はそう言い残した。理由は教えてくれなかったけれど、リヴにはそれで十分だった。
籠にシラ菊が八割ほど溜まったとき、足元の瘴気が急に揺らいだ。
リヴは首を傾げた。瘴気は風もないのに揺れることがある。大きな魔物が近くにいるときか、もしくは――。
「……ひと?」
木立の向こうから、何かが落ちてくる音がした。枝を折りながら、斜面を転がってくる。リヴは籠を置いて、音のほうへ駆け寄った。
斜面の根元に、人が倒れていた。
◇◇◇◇◇◇
黒い髪。鎧の残骸のようなものをまとっている。リヴが近づくと、男だとわかった。年はリヴとそう変わらないか、少し上くらいだろうか。顔は土と血で汚れていて、わかりにくい。右の脇腹に深い傷があって、じくじくと血が滲んでいた。
リヴはしゃがんで、男の顔をのぞき込んだ。
息はある。でも浅い。瘴気にやられているのか、それとも傷のせいか。あるいは両方か。
「うーん」
リヴは少し考えた。人間をこの山で見るのは初めてではない。たまに迷い込んでくる冒険者や、腕に覚えのある傭兵が、試しに踏み込んでくることがある。でも大抵は入り口で引き返すか、瘴気にやられてその場で倒れる。こんなに奥まで来た人は初めてだ。
「しょうがないなあ」
リヴはつぶやいて、男の肩に手を置いた。
まず瘴気を取り除く。それから傷を診る。それだけのことだ。
リヴの手のひらに、ほんのりと光が集まった。青白い、月の色をした光だ。それが男の体をすっと包んで、黒い靄が音もなく消えていく。まるで朝露が陽光に溶けるように、きれいに、跡形もなく。
男が小さく呻いた。
「よしよし、もうちょっとだよ」
次に傷口だ。リヴは籠から小さな陶器の瓶を取り出した。昨日仕込んだばかりの、止血と消毒を兼ねた薬だ。傷口を軽く洗って、薬を塗り込む。傷は思ったより深かったが、臓腑には達していない。これならなんとかなる。
もう一度、手を当てた。
今度の光はさっきより温かい色をしていた。傷口がじわじわと塞がっていく。完全に治るには少し時間がかかるが、とりあえず命の危険はなくなった。
リヴは腰を上げて、男を見下ろした。
うっすらと顔の血を拭ってみると、整った顔立ちが現れた。眉が凛として、口元が少し険しい。眠っていても隙のない顔だ。とはいえ今は土埃まみれで、意識を失っているのでよく寝ているように見えるが。
「ひとりで来たのかなあ。無謀だなあ」
リヴはのんびりとつぶやきながら、籠を手に取った。この重さの人間を山の上まで運ぶのは大変だが、ここに置いていくわけにもいかない。暗くなったら、もっと危ない魔物が出てくる。
「しっかりつかまってよ?」
誰も聞いていないのに、リヴはそう声をかけた。そしてごく自然な様子で、気絶している青年の腕を肩に担いで、立ち上がった。
◇◇◇◇◇◇
ラルスが目を覚ましたとき、見慣れない天井があった。
木の、粗削りな天井だ。梁の節に小さな木彫りの人形が飾ってある。精霊のような形をしている。
ラルスはゆっくりと体を起こそうとして、脇腹に鈍い痛みを感じた。動きが止まる。
「あ、起きた?よかった〜」
声がして、視界の端に影が映った。
少女だった。
銀色の髪が、夕暮れの光の中でほのかに光っていた。紫がかった灰色の瞳が、ラルスをのぞき込んでいる。年は十六か七か。顔立ちは整っているが、まったく緊張感のない表情をしている。口元にはゆるりとした微笑み。手には木のカップがある。
「お茶、飲む?ちょっと苦いけど、体にいいよ」
ラルスはまず状況を確認しようとした。ここはどこか。自分はなぜ生きているのか。脇腹の傷は、確か魔物の爪によるものだった。かなり深かった。瘴気も相当量吸い込んだはずだ。なのに今は、痛みはあっても、体は動く。呼吸も普通だ。
「……お前が、治したのか」
少女はカップをラルスの手元に置いてから、ころんと笑った。
「うん。まだ完全じゃないけど、死にはしないから大丈夫だよ〜」
大丈夫、という言葉の軽さに、ラルスは一瞬言葉を失った。
瘴気の除去は、古代魔法の一種だ。現代の魔法使いには再現できない、とっくに失われた技術だと聞いていた。それを、この少女は当然のようにやってのけた。傷の治癒にしても、あの深さの傷が一晩で動けるまでになるなど、普通の回復魔法では不可能だ。
「お前は……何者だ」
少女は首を傾げた。銀の髪がさらりと流れた。
「リヴ。ただのリヴだよ。ここに住んでるだけ」
ただの、という言葉が、ラルスの胸の中で妙な引っかかりを残した。
窓の外を見ると、夕暮れの空があった。黒霊廟山の空は、ふもとから見るよりずっと広い。濃い橙色の中に、早くも月が一つ、うっすらと輪郭を見せ始めていた。
ラルスは口を開きかけて、止めた。
自分の名を名乗るべきか。いや、今は状況の把握が先だ。この少女が何者で、何を知っていて、何を知らないのか。それを測ってからでも遅くはない。
「……俺は、ラルスだ。一介の騎士だ」
リヴはにこっと笑った。
「ラルスくんね。よろしく。ところで、もしかしてお腹空いてる?ちょうど夕ご飯できたところなんだよ〜」
ラルスは返事をする前に、腹が鳴った。
深刻な考察も、王子としての分別も、すべてを飛び越えて、音が鳴った。
リヴはくすくすと笑った。その笑い声は、黒霊廟山の夕暮れに、不思議なほど自然に溶け込んだ。
◇◇◇◇◇◇
食事は素朴だった。野草のスープと、固めに焼いたパン、それから木の実をすり潰して蜂蜜で和えたものが添えてあった。
ラルスは一口飲んで、目を細めた。
うまい。薬草の癖があるが、それがかえって香りになっている。体の芯まで温まる味だ。
向かいでリヴが、スープを吹き冷ましながらのんびり飲んでいる。
「聞いてもいいか」
ラルスは口を開いた。
「お前、この山に一人で住んでいるのか」
「うん。おばあちゃんが死んでからは、ひとりだよ」
あっさりと答えが返ってきた。
「怖くはないのか。ここは――」
「死地でしょ?知ってるよ、ふもとの人がそう呼んでるって」
リヴはカップを両手で包んで、ふふっと笑った。
「でも全然怖くないよ。くまさんたちも精霊ちゃんたちも、みんな優しいし」
くまさん。
ラルスは静かに聞き返した。
「……くまさん?」
「うん。あの黒いもふもふの大きいやつ。昨日も入り口あたりでうろうろしてたけど、目が合ったらちゃんとどいてくれたから、いいこだなあって」
ラルスは脳裏に、昨日見た魔物を思い出した。黒い巨体、鈎爪、赤い複眼。「災厄級の魔物・黒禍熊」。クレーデン王国の騎士団が十人がかりで挑んで、半壊した記録が残っている。
くまさん。
ラルスは黙ってスープを一口飲んだ。
何かを言おうとして、何も言えなかった。
窓の外、夜の帳が下りてきた黒霊廟山で、何かが遠く鳴いた。リヴは耳をすませて、
「あ、精霊ちゃんが『明日は雨かも』って言ってる」
と、のんびりつぶやいた。
ラルスは天井の木彫りの人形を見上げた。精霊の形をしている、あの人形だ。よく見れば、今さっきよりわずかに傾きが変わっている気がした。まるで、頷いたように。
――この少女は、いったい何者なのだろう。
そう思ったとき、リヴが静かに言った。
「ラルスくん、しばらくここにいてもいいよ。傷、まだ治りかけだから」
それから少し間を置いて、
「ここ、危ないから早く帰りたいって思うかもしれないけど。わたし的にはぜんぜん危なくないと思うんだけどなあ」
と、首を傾げた。
ラルスは答えの代わりに、スープを飲み干した。
――帰る、か。
帰る理由は山ほどある。王子という身分、使命、部下たちへの責任。けれど今この瞬間、黒霊廟山のこの小さな小屋の中で、銀髪の少女が当たり前のように夕食を並べているのを見て、ラルスはひとつだけ確かなことを思った。
この少女を、一人にしておいてはいけない気がする。
理由は、うまく言葉にならなかった。ただ、そう思った。
外で月が昇り、黒霊廟山がその光を静かに受け止めていた。
こんにちは。八咫です。
人生で初めて小説にチャレンジしています。
誤字脱字なども多々あるかもですが、暖かい目で見守っていただけますと幸いです。




