第9話 読めないのではなく、読み方が違う
瑚大の実演会は、本人の希望で午前六時十分から始まった。
「六時より前だと、声が魚市場に負けます」
「ここに魚市場はない」
「気持ちの問題です」
黎明館の一角へ、文字を大きく映せる端末、録音図書用の小型スピーカー、要約カードを並べる。尚久さんは普段より机の間隔を広くし、通路にコードが出ないよう床へカバーをかけた。
見学者は利用者十一人と、図書委員二人、教員三人。
明日香は生徒会の記録担当として後ろに立っている。動画撮影は、顔を映さない、氏名を出さない、公開前に瑚大本人が確認する、という条件で許可された。
「説明文、これでいい?」
私は昨夜まとめた紙を瑚大へ渡した。
『文字が多いと行を見失う生徒が、音声や短い要約、拡大表示を使って内容をつかむ――』
瑚大は二行読んで、紙を裏返した。
「僕の話なのに、僕が出てきません」
「出てる。困難がある生徒」
「それは僕の遠い親戚みたいです」
隣で智がうなずいた。
「客観性はあります」
「遠い親戚に?」
「説明文にです」
私は紙を取り戻した。
「じゃあ、自分で言って」
「最初から、そのつもりです」
「なら昨夜の二時間を返して」
「要約する練習になりました」
瑚大は悪びれず、前へ出た。
端末に表示したのは、国語の授業で扱う古い小説だった。画面の文字を一段階大きくし、行間を広げる。
「僕は、小さい文字がたくさん並ぶと、最初の行を見つけても途中で違う行へ移ります」
瑚大は指で画面を追った。
「読めないところもあります。でも、内容が分からないとは限りません。音で聞くと分かることがあります。短く分けると分かることもあります」
スピーカーから、落ち着いた朗読音声が流れた。
一段落で止め、瑚大は要約カードを一枚めくる。
「ここでは、主人公が知らない場所へ行きます。たぶん不安です。でも景色を細かく見ているので、怖いだけではありません」
教員の一人が前のめりになった。
「その要約は誰が作ったの」
「斎木さんと僕です。最初は斎木さんが作りました。今は僕が作って、間違っていたら直してもらいます」
「自分で作ると、答えを先に見てしまわない?」
「答えではなく、道順です」
瑚大は、胸の前で手を動かした。
「僕は道が一本だと迷います。音、文字、短いカードの三本あると、戻れます」
昨日まで私の紙にあった言葉より、ずっと分かりやすかった。
私は記録紙の上に鉛筆を置いた。
説明を整えすぎると、本人が何をしているのか見えなくなる。
瑚大は次の一節へ進んだ。
「では、同じところを僕が読みます」
嫌な予感がした。
瑚大は息を吸った。
「さあ来た、朝霧の向こうから主人公が一人! 見知らぬ停車場へ到着、荷物は一つ、心配事は推定三つ!」
魚市場の競りだった。
窓際で毛布に包まり、半分眠っていた三年生が跳ね起きた。
「何が競り落とされた?」
「主人公の不安です」
「高そう」
「今なら要約カード三枚付きです」
見学者が笑った。
瑚大は調子に乗り、登場人物が現れるたびに「新鮮な友人候補」「本日入荷の謎めいた老人」と声を張った。尚久さんが二度、音量を下げるよう手で示したが、三度目には本人も笑っていた。
実演が終わると、眠っていた三年生が瑚大へ言った。
「普通の朗読より目が覚めた」
「普通ではない方法も使えます」
瑚大は答えた。
それは笑いを取るためだけの言葉ではなかった。
撮影した動画を確認する。顔は映っていない。端末の画面、カードをめくる手、瑚大の声だけ。
校内の公開ページへ載せる前、私は紹介文を一行に削った。
『読めないのではなく、読み方が違う。瑚大が、自分に合う三つの道を説明します。』
「近いです」
瑚大が言った。
「遠い親戚ではない?」
「近所です」
「本人にはなってない」
「本人は動画にいます」
それならいいと思った。
動画は昼休みに公開された。
再生回数は放課後までに二百を超えた。魚市場の朗読だけを切り抜きたいという声もあったが、瑚大は断った。
「笑うところだけだと、方法が三つあることが消えます」
彼は、自分がどう見られるかを自分で決めようとしていた。
午後五時前、校内ページのコメント欄に一件の匿名投稿が付いた。
『朝から特別扱いを増やして、結局、誰が面倒を見るんですか。教員へ早朝担当を押しつける話ではありませんか。』
智が画面を読み、眉間へ指を当てた。
「利用者への批判と、勤務体制への懸念が混ざっています」
「消す?」
私は聞いた。
「規約違反ではありません。答えるべきです」
瑚大はしばらく黙った後、言った。
「僕が特別だからではなく、方法が必要だから使っています。でも、朝に働く人が困るなら、それも方法を考えないといけません」
反論より先に、相手の困り事を見つけていた。
私は投稿の下へ、公開説明会で勤務体制を扱うと返信した。
送信すると、明日香が安全確認表を机へ置いた。
「勤務体制の前に、施設側の確認を終わらせます。明日の朝、私も黎明館へ行きます」
「鳥羽会長が?」
「反対するなら、見てから反対します」
その言い方は、前より少しだけ柔らかかった。
ただし翌朝、明日香が最初に確認することになったのは、天井でも避難経路でもなかった。
東窓の外に、一羽の鳩がいた。




