第8話 朝焼けの聞き取り
月曜の朝、あすなろの影は書架の下へ伸びた。
東窓から差した光が、床板の上をゆっくり進み、古い大型書架の脚へ重なる。
「ここです」
智がしゃがみ込んだ。
「重い書架は動かさない」
私は、彼が安全注意の一項目目を自分で破る前に止めた。
「分かっています。位置だけ記録します」
智は床板へ小さな紙テープを貼り、時刻を書いた。
真鍮の鍵が何を開けるかは、まだ分からない。書架の下には、指一本入る隙間しかない。床板に鍵穴も見えなかった。
「大型書架を動かせるのは、専門業者が入るときだけです」
尚久さんが言った。
「今は手紙の内容と、必要な機能の調査を優先しましょう」
母の手紙は開いたまま、まだ読んでいない。
封筒は鍵付きの引き出しへ保管した。私が読むのをためらったというより、今読めば、母へ答えを聞きに行ってしまいそうだった。
母が黎明館を知っていたこと。
花柄毛布を知っていたこと。
それでも解体資料を作っていること。
先に、今ここを使っている人の話を聞こうと思った。
十一月十三日までに、一次資料を出さなければならない。
私たちは二十三人の利用者へ、一人ずつ短い聞き取りを始めた。
家庭事情は聞かない。
なぜ早く来るかを説明したくない人には、説明させない。
質問は三つだけにした。
黎明館で使っているもの。
なくなると困るもの。
代わりの場所に必要なもの。
最初の相手は、毎朝窓際で数学の課題をしている三年生だった。
「暖房と机」
「静けさは?」
「欲しい。でも無音でなくていい。麦茶を注ぐ音とか、紙をめくる音は平気」
「人がいる気配は必要?」
「必要。話しかけられない方がいいけど、一人ではない方がいい」
私は、その答えをほとんどそのまま書いた。
二人目は、始発列車で通う一年生。
「充電です。家を出るとき四十パーセントでも、寒いと減ります」
「暖かい席は」
「必要です。でもストーブの真横は眠くなるので困ります」
「注文が細かい」
「なくなると困るので真剣です」
三人目は、家業の弁当店の車で来る二年生だった。
「衝立」
「寝るため?」
「二十分だけ。顔を見られたくない日があるから」
「体調不良のときは、誰かを呼べた方がいい?」
「呼びたい。でも、教員室まで行って説明するのは無理かもしれない」
「ボタンや内線なら」
「押すだけならできる」
要望欄へ、『大人が常駐しなくても助けを呼べる方法』と書いた。
「大人が常駐しなくていい、ではないですよ」
智が横から訂正する。
「担当者が一時的に別の場所へ動いても、すぐ連絡できる方法です」
「分かってる」
「文章は誤読されないことが重要です」
「今の説明を全部書くと、用紙が埋まる」
「注釈を」
「要約します」
四人目は瑚大だった。
「録音図書。文字を大きくできる端末。短くまとめたカード。それから魚柄毛布」
「最後は必要機能ではない」
「柄で集中力が変わります」
「本当に?」
「虎柄は登場人物が強そうに聞こえます」
「前にも聞いた」
「再現性があります」
瑚大は真顔で言った。
「あと、読めないと思われない場所が必要です」
私は鉛筆を止めた。
「どういう意味」
「教室で教科書を音声で聞くと、読めないのかって聞かれます。読めないところもあります。でも、聞けば分かるところもある。黎明館では、斎木さんが方法を変えればいいと言ってくれたので」
「その言葉、資料へ載せていい?」
「名前を出さなければ」
「録音してもいい?」
瑚大は少し考えた。
「次は、自分で説明してみたいです」
私は、用紙へ書きかけた要約を消した。
「じゃあ、あなたの言葉で話して」
聞き取りは一週間続いた。
集まったのは、暖かい席や充電、静けさ、録音図書、顔を隠して眠れる衝立を求める声だった。具合が悪いとき、事情を何度も説明せず助けを呼べること。早く来た理由を聞かれず、それでも一人で放っておかれないこと。二十三人の答えは重なるところがありながら、少しずつ違っていた。
智は結果を自動集計する表を作った。
「完成しました」
土曜の午後、生徒会室でノートパソコンをこちらへ向ける。
画面には、色鮮やかな棒が並んでいた。
一位、魚柄。
二位、花柄。
三位、反省中のパンダ。
四位、威厳ある虎。
「何の集計?」
「毛布柄別の利用回数です」
「必要機能は」
「別シートの参照範囲がずれています」
「一番どうでもいいところだけ完璧」
「柄はどうでもよくありません」
瑚大が魚柄一位の画面を写真に撮った。
「店に貼ります」
「何の宣伝になるの」
「魚は朝に強い」
智は数式を直し始めた。私は記号の並ぶ画面を閉じ、聞き取り用紙を机へ広げた。
「数えられる答えだけにしない方がいい」
「必要人数と費用を示すには、件数が要ります」
「件数は出す。でも、『人がいる気配は必要だけど、話しかけられない方がいい』は、静かな席一件では足りない」
智は手を止めた。
「引用を入れますか」
「本人が許可したものだけ」
「では、数字の横へ短い証言を」
「それがいい」
私は自分の用紙を最後に書いた。
黎明館で使っているものには、花柄毛布と静かな席、麦茶と書いた。なくなると困るものは、朝、誰にも説明しなくていい時間。代わりの場所に必要なものは、帰りたくない朝に始業までいられること。
書いた後で、しばらく見つめた。
「木崎さん、それを資料へ入れますか」
智が尋ねた。
「匿名なら」
「あなた自身の証言だと、明かさなくていいんですか」
「今は」
言いかけて、最初に作った利用票を思い出した。
今は話したくない。
それは、永遠に話さないという意味ではない。
「一次資料では匿名にする。必要になったら、自分で言う」
「分かりました」
智はそれ以上聞かなかった。
翌週、私たちは聞き取り結果を持って、教頭と県教育施設課の公開説明へ出た。
母は会議室の端に座っていた。娘が関わっていると分かった時点で、審査や採点からは外れたと最初に説明した。
「私は、公開済みの図面、安全基準、概算費用だけを説明します」
仕事の声だった。
私たちは二十三人の利用、必要機能、現状の勤務体制を示した。
智の表は、今度は毛布柄ではなく、暖かい席、静かな席、充電、録音図書、衝立、緊急呼出の順に正しく集計されている。端には、小さく魚柄人気一位の表も残っていた。
「消してないの」
「参考資料です」
「何の」
「親しみやすさの」
教頭が眼鏡の奥で笑いをこらえたように見えた。
説明が終わると、母は資料を閉じた。
「必要性は分かりました」
私は背筋を伸ばした。
「それでも、黎明館は残せません」
会議室の空気が止まる。
瑚大が膝の上で手を握った。智はすぐに反論せず、母の次の言葉を待っている。
「耐震補強だけでなく、天井材、電気設備、避難経路の全面改修が必要です。継続利用に一億二千万円前後かかる可能性があります。学校の居場所支援として認められる規模ではありません」
「じゃあ、調べた意味はなかった?」
私の声が少し尖った。
「建物を残す資料にはなりません」
母は答えた。
「機能を残す資料にはなります」
机の上へ、一枚の図面を置く。
新校舎一階。今は倉庫に使われている旧食堂区画が、赤い線で囲まれていた。
「木崎さん」
智が小声で言った。
「お母さんは、移すことを否定していません」
分かっていた。
それでも私は、東窓の朝焼けと、書架の下へ伸びるあすなろの影を思った。
場所を守ることと、そこにあったものを守ることは、同じではない。
私たちは次に、その違いを決めなければならなかった。




