第7話 透明なスノードーム
液体のないスノードームは、雪が降らない。
代わりに、白い紙片が舞うらしい。
「らしい、というのは?」
私が聞くと、道貴さんは書架の隙間へ細い棒を差し込みながら答えた。
「二十六年前の司書さんが、割れにくい展示品を考えていた。水を入れなければ、凍らないし、本を濡らさない。白い紙を細かく切って雪にする、と言っていたよ」
「見たことはあるんですか」
「完成したところはね。ただ、どこへ置いたかは忘れた」
「神秘的ではなく、普通に忘れてますね」
瑚大が言った。
「長く生きると、忘れたことにも雰囲気が出るんだよ」
道貴さんは笑った。
土曜日の午前。黎明館は一般利用のない時間帯だった。尚久さんが学校へ届けを出し、私、智、瑚大、明日香、道貴さんの五人で、展示棚と書架の周囲だけを調べている。
天井材へ触れない。
脚立は道貴さんだけが使う。
重い書架は動かさない。
智が安全上の注意を紙へまとめ、入口に貼った。
「十四項目あります」
「長い」
「事故を防ぐ文章は、短さより網羅性です」
「『走らない』『勝手に登らない』『天井に触らない』で大半が済む」
「残り十一項目が」
「今は探して」
明日香から借りた木製台座は、カウンターの上に置いてある。埃を落とすと、底の刻印が読めた。
『東窓・あすなろ・朝日』
その横には、小さな鍵穴があった。
「御影さんの鍵と合いますか」
智が尋ねる。
道貴さんは首から下げていた真鍮の小鍵を取り出した。
「これは、最初の司書さんから預かったものだ。『東窓とあすなろと朝日を忘れなければ、いつか使う』と言われた」
「台座の鍵では」
差してみたが、入らなかった。
「違うねえ」
「鍵の対象が別にある」
智の声が少し弾んだ。
「相良くん、謎解き遊びではありません」
明日香が釘を刺す。
「分かっています。学校備品の所在確認です」
「顔が楽しそうです」
「所在確認は重要です」
私たちは展示棚の裏、古い辞書の箱、カウンター下の収納を順番に調べた。
最初に見つかったのは、昭和の図書貸出カードだった。次に、いつのものか分からない乾電池。瑚大が「古代の充電器」と呼んだので、尚久さんが正しい分別箱へ入れた。
一時間たっても、ガラスの本体は見つからなかった。
「台座だけ残して、本体は割れたのでは」
明日香が言う。
「割れた記録はありません」
尚久さんは古い備品台帳を確認した。
「メッセージドーム一式。除却記録なし。ただし、平成二十年代の棚替えで場所の記載が途切れています」
「スノードームではなく、メッセージドーム」
私が言うと、道貴さんがうなずいた。
「手紙を入れるものだったからね」
「手紙?」
「次に朝を守る人へ、当時の利用者が一通ずつ書いた。私は中身を見ていない」
明日香の顔が変わった。
「個人の手紙なら、勝手に開けられません」
「封筒に、開封できる人を書いていたはずだよ」
道貴さんは東窓を見た。
昼前の光では、あすなろの影は窓枠の下へ短く落ちている。
「朝の光で見た方がいいのかな」
「今日はもう朝ではありません」
智が腕時計を見た。三分進んだ時計でも十一時を過ぎている。
「明日まで待つ?」
「日曜は校内へ入れません」
「月曜の開室中に、安全な範囲で続けるしかないですね」
そのとき、書架の奥から小さな音がした。
道貴さんが差し込んだ棒の先に、何か硬いものが当たっている。
「棚の裏ではなく、壁との隙間だ」
懐中電灯を向けると、丸い透明な縁が見えた。
大きな書架を動かすことはできない。道貴さんが長い挟み具を使い、少しずつ手前へ引いた。
透明な半球が、埃にまみれて転がり出てきた。
「本体」
明日香が、誰より先に膝をついた。
ガラスではなく、厚い透明樹脂だった。表面に細かな傷はあるが、ひびはない。中には白い紙片と、小さな封筒が重なっている。
台座へ合わせると、四つの固定具がぴたりとはまった。
「完成です」
瑚大が両手で持ち上げた。
「待って。まだ中身の確認が」
私が言い終わる前に、瑚大が一度振った。
白い紙片が勢いよく舞い上がる。
「雪です」
「吹雪になってる」
封筒も一緒に回転し、台座の隙間へ一通が挟まった。
「振らないでと言う前に振る人がいるとは」
智が安全注意の紙へ何かを書き足そうとする。
「十五項目目を増やさない」
「『未知の展示物を振らない』は必要です」
私たちはカウンターへ新聞紙を敷き、台座の裏にある小さなねじを外した。
中の紙は乾いていた。液体がないため、封筒の糊も文字も残っている。
八通。
どの封筒にも、同じ言葉が書かれていた。
『次の毛布係は開封可』
明日香が一通ずつ確認する。
「宛先が役割名なら、現在その役割を引き継ごうとしている人が読める、という解釈はできます。ただし、個人名や相談内容があれば外部へ出さないこと」
「会長も毛布係ですか」
瑚大が聞いた。
「違います」
「洗濯周期を知っています」
「海東くん」
「では、次の毛布係候補です」
明日香は否定しなかった。
最初の封筒を開いた。
便箋には、丸みのある字で一行だけ書かれていた。
『寒い理由を言えない人から、先に温めてください。』
その下に、日付も名前もない。
黎明館の中が静かになった。
窓の外では運動部の声が聞こえる。ここだけ、二十六年前の朝とつながったようだった。
「理由を聞かない規則は、これが始まりなのかもしれません」
尚久さんが言った。
「でも、理由を聞かないだけでは安全を守れない」
私は利用票を思い出した。
「この手紙を書いた人も、今のやり方を全部正しいとは言ってない」
「一行だけでそこまで分かりますか」
智が聞く。
「次の人へ書いてる。引き継ぐ人が、考え直す余地を残してる」
二通目の封筒を開く。
『東窓に、あすなろの影が届く朝。鍵は、光が示すところへ。』
全員の視線が東窓へ向いた。
「鍵はあります」
智が真鍮の小鍵を見る。
「でも、今の影では場所が分かりません」
「朝日が低い季節の、開室時間でしょうね」
尚久さんが言った。
残り六通は、封筒の表へ短い題が書かれていた。
『聞かないことと、見ないこと』
『数えるもの』
『静かな席』
『英雄を作らない』
『壊れたら、直す』
最後の一通には題がなかった。
封を切る前、薄い便箋の端に朝顔の透かしが見えた。
私はその模様を知っていた。
母が今も手紙を書くときに使う、駅前の青蘭堂という文具店の便箋。子どものころ、誕生日に父へ送る手紙を書かされたことがある。
「どうしました」
智が尋ねる。
「同じ便箋を、母が使ってる」
私は封筒を開いた。
便箋は二つ折りになっている。文面を読む前に、末尾だけが見えた。
『W・W』
花柄毛布の刺繍と同じ文字。
指先が止まった。
「今日は、ここまでにしませんか」
尚久さんが言った。
「急いで読む必要はありません。手紙は二十六年待っています」
私は便箋を戻した。
母の旧姓は、若林和佳。
若林和佳の頭文字。
偶然だと切り捨てるには、朝顔の透かしまで同じだった。
月曜の午前五時四十分。
私たちは二通目を窓辺へ置き、床に伸びるあすなろの影を待つことになった。
その朝、影が示す先に何があるのか。
そして母が、次の毛布係へ何を書いたのか。
私はどちらを先に知りたいのか、自分でも分からなかった。




