第6話 会長は鳥を見ない
天井板は、写真で見るより大きかった。
黎明館の閲覧席の横へ落ちた白い板。端が砕け、床に粉が散っている。撮影日は二年前の一月。早朝利用の時間帯ではなく、冬休み中の点検日と記されていた。
「けが人はいませんでした」
明日香は言った。
「この一枚は軽い化粧板です。それでも頭へ当たれば、無傷では済みません」
「今は直してある?」
「落下部分は撤去しました。ただ、同じ施工時期の天井材が残っています。全面調査には足場が必要です」
私は写真の場所を思い出した。東窓に近い展示棚。その前を、毎朝何人も通っている。
もう一つの資料は、尚久さんと道貴さんの早朝勤務表だった。
正式な勤務開始は八時十五分。黎明館を開けるのは五時四十分。尚久さんは自分の勤務をずらせる日もあるが、会議や放課後の業務があれば長くなる。道貴さんも除雪のある日は、開館前から校内を回っている。
「二人が進んでやっているから、問題にされてきませんでした」
「でも、善意は勤務命令にならない」
「そうです。休む権利も、代わりの人を用意する責任も、曖昧なままです」
明日香は赤い付箋のついた欄を指した。
「斎木さんが急病で休み、御影さんが除雪へ出たら、誰が開けますか」
「開けない」
「それを、利用者へ誰が伝えますか」
「今は決まっていない」
「救急車を呼ぶほどではないけれど、一人で教室へ行かせられない生徒がいたら」
「尚久さんの判断に頼ってる」
「その尚久さんは三月末で契約が終わります」
聞いていたはずなのに、あらためて言われると胸へ落ちた。
私たちは、尚久さんがいる朝を基準に考えている。けれど、残そうとしているのは四月以降の場所だ。
「だから閉める?」
「だから、今のまま続けることには賛成できません」
「代わりを作る前に閉めたら、作るための調査もできない」
「その期間に事故が起きたらどうしますか」
明日香の声が少し強くなった。
私は写真へ目を戻した。
正しい答えが一つなら簡単だった。危険な建物を閉めることも、朝の居場所を失わせないことも、どちらも正しい。
正しいことが二つあるとき、人は片方を悪者にしたくなる。母を壊す側だと思ったように、明日香を閉める側だと思えば、私は自分の怒りを整理できる。
けれど、目の前の写真は、明日香が怖がっているものを説明していた。
「この写真、誰が撮ったんですか」
「私です」
「二年前なら、鳥羽会長は一年生」
「図書委員でした。冬休みの蔵書点検へ出ていました」
「そのとき黎明館を使ってた?」
明日香の視線がわずかに動いた。
「点検へ参加していました」
「質問を変えても答えは同じ?」
「今は安全の話をしています」
それ以上は聞かなかった。
生徒会室のスピーカーが突然鳴った。
『こちら、放送委員会です。本日の環境週間のお知らせです』
明るい声の後、効果音らしいカモメの鳴き声が流れた。
海辺の町を表現したかったのだと思う。
明日香が消えた。
目の前の椅子が空になり、机の下から紙が擦れる音がした。
私は数秒、何も言わなかった。
『カモメのように広い視野で、校内の美化を』
もう一度、甲高い鳴き声が響く。
「放送、終わりました」
机の下へ向かって伝える。
「私は資料を探しています」
「机の下で?」
「落としました」
「何を」
「会長としての尊厳を」
少し間があり、明日香が顔を出した。
「見ましたか」
「天井板の写真を見ていました」
「そういうことにしてください」
明日香は制服の裾を整え、何事もなかったように椅子へ戻った。耳だけが赤い。
「鳥が苦手なんですね」
「校章のカモメは平面なので問題ありません」
「立体だと?」
「議事に関係ありません」
「鳴き声だけでも机の下へ入った」
「木崎さん」
「口外しません」
私は資料を閉じた。
「その代わり、閉鎖資料に代替案がない理由を教えてください」
「取引ですか」
「鳥の秘密とは関係なく聞いています」
明日香は私をしばらく見た後、視線を落とした。
「予算を申請するには、必要人数、目的、責任者、年間費用が要ります。今までの利用記録は、人数と毛布の枚数が中心です。必要な機能が整理されていない」
「なら、整理した資料を出す」
「教員を早朝担当へ回す案なら通りません。授業と部活動がある人へ、五時台の勤務を上乗せできないからです」
「別の勤務時間にするか、校務支援員を使う」
「費用は」
「調べる」
「緊急時の連絡は」
「保健室や管理職へつながる呼出を置く」
「建物は」
「黎明館以外も探す」
最後の言葉を口にしたとき、少しだけ苦しかった。
黎明館を残したいと思い始めている。東窓の朝焼けも、花柄毛布も、誰も理由を聞かない空気も。
けれど、必要なのは建物そのものではないと智は言った。
私は、その意味を試されている。
「それなら、一次資料を出してください」
明日香は机のカレンダーをこちらへ向けた。
「十一月十三日、金曜日の午後五時まで。十一月二十七日の臨時生徒総会へ議題を載せるには、その日までに教頭と生徒会へ提出してください」
「一か月ちょっと」
「十分だとは言いません。閉鎖方針の発表が遅かった点は、学校側の責任です」
明日香は認めるところを曖昧にしなかった。
「ただし、資料がそろっても、生徒総会だけで施設を開けられるわけではありません。総会で生徒会回答を撤回し、継続要請を決める。その後、校長が安全運用を判断します」
「二段階」
「最低でも」
「智が喜びそう」
「相良くんには、段階が多いほど元気になる性質があります」
「知ってます」
私は立ち上がった。
「鳥羽会長」
「何ですか」
「あなたは、黎明館がなくなっても平気なんですか」
明日香はすぐには答えなかった。
代わりに机の一番下の引き出しを開けた。
中には、丸い木製の台座が入っていた。掌より少し大きく、縁には四つの金具。中央に白い紙片の粉のようなものが残っている。
「前年の天井点検で、展示棚から外しました。液体の入っていないガラス飾りの土台だと思います。本体は見つかっていません」
「どうして生徒会室に」
「用途不明の旧館備品として、落下を避けるために保管箱へ移しました。返す場所が分からなくなったままです」
明日香の指が、台座の縁を一度なぞった。
「平気かどうかと、安全に使えるかどうかは別です」
私は台座の裏を見た。
小さく何かが刻まれていたが、埃で読めない。
「本体、黎明館に残っているかもしれない」
「探すなら、斎木さんと御影さんの許可を取ってください。天井に触れない範囲だけです」
私は台座を両手で持った。
明日香は、手放すまで少し時間がかかった。




