第4話 利用理由は書かなくていい
利用記録の「理由」欄は、全部空白だった。
尚久さんが見せてくれた一週間分の用紙には、名前と入室時刻だけが並んでいる。理由欄には横線も、丸印も、走り書きもない。
「書かせていないんですか」
「書きたくない人が多いので」
「事故が起きたら困りませんか」
「困ります」
「体調が悪いのか、家に帰れないのか、列車の都合なのかも分からない」
「分からなくても毛布は渡せます」
尚久さんは穏やかに答えた。
「でも、助けを呼ぶ必要があるときまで分からないのは危ないです」
私が言うと、尚久さんは少しだけ目を細めた。
「そのとおりです」
反論されると思っていたので、力が抜けた。
「ずっと困っていました。事情を聞かないことと、安全を確認しないことを、同じにしてはいけない。ただ、聞き方を間違えると、来られなくなる生徒もいる」
智が隣で会則集を開いた。
「個人情報保護の観点から、収集目的と保管期間を」
「相良くん、今は用紙を作る話」
「用紙を作るには保管規程が」
「一つずつ」
私は白紙を机へ置いた。
最初に『利用理由』と書き、線を引いて消した。
「名前は必要?」
「事故時の確認には必要です」
「入った時刻と、帰る時刻」
「必要です」
「体調は、元気、少し不調、保健室へ行きたい」
「選択式なら答えやすいですね」
「助けてほしいことは、毛布、静かな席、録音図書、充電、話を聞いてほしい、今は話したくない」
瑚大が教科書から顔を上げた。
「静穏さんは、どの先生ですか」
「誰」
「ここに書いてある、静穏」
私が仮に書いた『静穏席』を指している。
「人名じゃない。静かな席」
「最初からそう書いてください。静穏先生を呼ぶのかと思いました」
智が真剣にうなずいた。
「平易な表現は重要です。難解語は利用障壁になります」
「あなたが言うと説得力がある」
「なぜですか」
「説明が長いから」
用紙は何度も書き直した。
最終的に、名前、入室時刻、体調、必要なもの、緊急時に連絡してよい相手だけを記す形になった。家庭の事情や、早く来る理由を書く欄は作らなかった。
相談したい場合は、自分で別の札を箱へ入れる。話したくない場合は、そのままでいい。
「これなら、理由を聞かずに安全を確認できます」
尚久さんは完成した用紙を見た。
「正式な運用へ使うなら、校長と養護教諭の確認が必要です。ただ、試しに一週間、任意で使ってみましょう」
「個人情報は」
智が口を開く。
「鍵付きの引き出しで尚久さんが管理。期間終了後は集計だけ残して原票を廃棄」
私が先に言うと、智は静かに口を閉じた。
「私の説明が奪われました」
「要約しただけ」
「では、要約係を正式に」
「しない」
その朝から、新しい利用票を机の端へ置いた。
最初は誰も手を伸ばさなかった。
理由を書かなくていいと説明しても、紙があるだけで監視されると感じる人はいる。私もそうだった。
自分の名前を書き、体調の『元気』へ丸をつける。必要なものは『毛布』『静かな席』。連絡は『不要』。
私は一番上に用紙を置いた。
それを見て、瑚大が次に書いた。
「必要なもの、魚柄毛布と録音図書」
「毛布の柄までは管理しない」
「重要です。虎柄だと登場人物が全員強そうに聞こえます」
「聞こえない」
一人、また一人と用紙を書いた。
空欄があっても、尚久さんは何も言わない。体調不良へ丸があれば、小声で保健室へ行くかだけ確認する。話したくないへ印があれば、衝立のある席へ案内する。
秘密を守ることと、放っておくことは違う。
その違いを、私は紙一枚で初めて理解した。
昼休み、生徒会室へ試用結果を持っていった。
明日香は用紙を一枚ずつ確認し、名前欄を指した。
「緊急時以外、生徒会は原票を見ない。この一文を追加してください」
「会長も見ない?」
「見ません。人数の集計だけ受け取ります」
「利用理由が分からなくても?」
「必要性を証明するために、家庭事情を提出させるのは違うと思います」
私は明日香を見た。
閉鎖を支持する人なのに、そこは迷わなかった。
「鳥羽会長は、黎明館を使ったことがあるんですか」
聞いた瞬間、明日香の指が止まった。
「なぜそう思うの」
「洗濯周期を知ってる。毛布の保管場所も」
「会長として確認しただけです」
「そう」
追及はしなかった。
理由を聞かないことを、私たちは練習している途中だった。
夕方、任意相談用の無記名箱を開けた。
中には三枚の紙があった。
一枚目は、充電器を増やしてほしい。
二枚目は、録音図書のイヤホンを新しくしてほしい。
三枚目には、丁寧な字でこう書かれていた。
『家へ帰りたくない。話はまだしたくない』
紙を持つ智の手が、わずかに強くなった。
「誰が書いたか探しますか」
瑚大が小声で尋ねる。
「探さない」
私は答えた。
「でも、次に来たとき助けを求められるようにする」
尚久さんは箱を閉じ、鍵をかけた。
「一人の善意だけで回す形は、春までに終えなければなりません」
「閉めるってこと?」
「続けるなら、私がいなくても続く形にするということです」
窓の外では、日が沈みかけていた。
朝焼けのときには長く伸びていたあすなろの影が、今は書架の下へ消えている。
翌朝、私は利用票の一番上へ自分の名前を書いた。
必要なものの欄で、少し迷う。
毛布。
静かな席。
そして『今は話したくない』へ、小さく丸をつけた。




