第3話 母は解体担当
母は、私を見ても手を振らなかった。
仕事中だから当然だ。そう思った直後、胸の奥にあった小さな期待が、自分でも面倒なくらい傷ついた。
黎明館の窓の向こうで、母は作業員と短く言葉を交わし、測量機を校庭へ据えた。濃紺の作業着。髪は後ろで一つに束ねている。家では、帰宅するとすぐ眼鏡を外し、額を押さえていることが多い。今朝の母は、私が知っている人より背筋が伸びて見えた。
「木崎さんのお母さんですか」
智が隣へ来た。
「県教育施設課。解体の技術資料を担当してる」
「では、質問しても」
「十九個ある顔をしてる」
「二十一個です」
「増やさないで」
母は午前六時半に館内へ入ってきた。
尚久さんが入口で来館記録を差し出す。
「木崎和佳さん。県教育施設課。現地確認ですね」
「はい。天井、東窓、床下の点検口を確認します」
母は仕事の声で答えた。
その目が花柄毛布へ向く。
「まだ残っていたの」
ほんの一瞬、声が柔らかくなった。
「ご存じですか」
尚久さんが尋ねると、母は表情を戻した。
「古い備品一覧で見ただけです」
嘘だと思った。
母は備品一覧を見ただけの人の顔をしていなかった。
「おはよう、奏」
「おはよう」
「この列車で通っていたのね」
「昨日言った」
「そうだった」
会話はそこで終わった。
智が横から半歩出た。
「相良智です。生徒会書記です。黎明館の補強費と解体費の比較、想定耐用年数、天井材の調査範囲、東窓枠の再利用可能性、旧食堂区画への機能移転可能性について」
「一度に言わないでください」
母は私と同じことを言った。
智は少しうれしそうに見えた。
「質問票があります」
「正式な照会は学校を通してください。ただし、公開済み資料の範囲なら説明します」
「では第一問。補強費の概算は」
「相良くん」
私は制服の襟の後ろをつまんだ。
「まだ測ってる途中」
「しかし時間は有限です」
「首も有限だから、大事にして」
智を引き戻すと、母の口元がわずかに動いた。笑いそうになったのだと思う。
私が見ると、すぐに図面へ目を落とした。
現地確認は二時間近く続いた。
母は天井材の亀裂や柱の位置、東窓の腐食を一つずつ写真に収め、数値を書き込んでいった。私たちは邪魔にならないよう、奥の机へ移った。
瑚大は録音図書を聞きながら、時々こちらを見る。
「奏先輩のお母さん、建物を壊す人なんですか」
「正確には、壊していいか調べる人」
「壊さない方へ間違えてくれませんか」
「仕事で間違えるような人じゃない」
言い切ってから、腹が立った。
母を信頼しているような言葉だったからだ。
私は閉じた教科書を開き、読んでいないページをめくった。
七時を過ぎたころ、母が東窓の前へ立った。
朝日がガラスを通り、床へ橙色の帯を作る。あすなろの枝の影が、その上をゆっくり伸びていた。
母は窓枠を調べるふりをして、長い間そこから動かなかった。
横顔が、泣きそうに見えた。
私は立ち上がりかけた。
けれど母はすぐに作業員を呼び、いつもの声で腐食部分を指示した。
見間違いだったことにした。
閉室後、母は校庭で私を待っていた。
「教室へ行く前に、少し話せる?」
「何」
「黎明館は、耐震補強だけで一億円を超える可能性がある。天井材の全面調査も必要。学校が使える予算には限りがある」
「だから壊すの」
「私一人が決めることではないわ」
「でも、壊すための資料を作ってる」
「安全を判断するための資料よ」
「同じじゃない」
母は何か言いかけ、やめた。
私も言いたいことを整理できなかった。
母が冷たいから腹が立つのか。昔この場所を知っているようなのに黙っているから腹が立つのか。家で私の顔を見ないのに、建物の亀裂は何時間でも見るから腹が立つのか。
「今夜、早く帰れる?」
出てきたのは、そんな言葉だった。
「難しいと思う」
「そう」
「奏。あなたがここを使う必要があるなら、早朝の交通事情は資料に」
「私のことを資料にしないで」
母の顔が固まった。
私はそのまま校舎へ向かった。
教室に着く前、後ろから誰かが走ってきた。
「木崎さん」
智だった。手には二十一問の質問票がある。
「お母さんへ提出する正式な経路を教えてください」
「今それ聞く?」
「今でなければ、昼休みでも」
真面目なのか空気が読めないのか、まだ判断がつかなかった。
「生徒会長と教頭を通して」
「分かりました。では、感情面の質問は保留します」
「何それ」
「親子関係について聞くのは、今ではないと判断しました」
「最初から聞かないで」
智はうなずいた。
「黎明館では、理由を聞かないことになっていますから」
その言葉に、足が止まった。
昼休み、私たちは尚久さんから古い利用記録を見せてもらった。
直近十年分の台帳は、年度ごとに箱へ収められている。氏名、入退室時刻、毛布の貸出数、麦茶の使用量。個人的な相談内容は書かれていない。
「記録はかなり細かいですね」
私が言うと、尚久さんは一冊を丁寧に戻した。
「続けるには、人数と物資を数えなければなりません。事情まで数える必要はありませんが」
「全部そろってるんですか」
「直近十年は。ただし、早朝利用が始まった二十六年前から最初の五年間だけ、保存目録に記載があるのに現物がありません」
智の目が光った。
「紛失ですか」
「設置場所の欄が空白です。古い改修工事のとき、目録だけ転記され、現物の場所が引き継がれなかった可能性があります」
用務員の御影道貴さんが、書架の向こうで脚立を畳んでいた。
「最初の司書さんは、隠すのが好きな人だったねえ」
「御影さんは、当時を知っているんですか」
「早朝利用を始めたころ、私はここで働き始めたばかりだった。高校生のときには、この書架を運び入れたよ」
道貴さんは懐かしそうに東窓を見た。
「記録の場所は?」
「知らない。ただ、あの人は、必要なものほど見つける時期を選ぶと言っていた」
「神秘的ですね」
瑚大が感心する。
「単に整理が悪かった可能性もある」
私が言うと、道貴さんは楽しそうに笑った。
放課後、校門を出ようとしたとき、母の部署の車が停まっていた。
運転席へ向かう母を、道貴さんが追いかける。
「若林さん」
母の肩が跳ねた。
道貴さんはすぐに言い直した。
「失礼。木崎さん」
若林。
その名字を、私は知っていた。
母の旧姓だ。
母は何も言わず、車へ乗った。
私は花柄毛布の端にあった青い刺繍を思い出した。
W・W
母は、あの毛布を知っている。
けれど家へ帰っても、母の部屋の明かりは夜遅くまでつかなかった。




