表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
欲しいのは毛布と君――朝焼け図書館の生徒会クーデター  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/7

第3話 母は解体担当

 母は、私を見ても手を振らなかった。


 仕事中だから当然だ。そう思った直後、胸の奥にあった小さな期待が、自分でも面倒なくらい傷ついた。


 黎明館の窓の向こうで、母は作業員と短く言葉を交わし、測量機を校庭へ据えた。濃紺の作業着。髪は後ろで一つに束ねている。家では、帰宅するとすぐ眼鏡を外し、額を押さえていることが多い。今朝の母は、私が知っている人より背筋が伸びて見えた。


 「木崎さんのお母さんですか」


 智が隣へ来た。


 「県教育施設課。解体の技術資料を担当してる」


 「では、質問しても」


 「十九個ある顔をしてる」


 「二十一個です」


 「増やさないで」


 母は午前六時半に館内へ入ってきた。


 尚久さんが入口で来館記録を差し出す。


 「木崎和佳さん。県教育施設課。現地確認ですね」


 「はい。天井、東窓、床下の点検口を確認します」


 母は仕事の声で答えた。


 その目が花柄毛布へ向く。


 「まだ残っていたの」


 ほんの一瞬、声が柔らかくなった。


 「ご存じですか」


 尚久さんが尋ねると、母は表情を戻した。


 「古い備品一覧で見ただけです」


 嘘だと思った。


 母は備品一覧を見ただけの人の顔をしていなかった。


 「おはよう、奏」


 「おはよう」


 「この列車で通っていたのね」


 「昨日言った」


 「そうだった」


 会話はそこで終わった。


 智が横から半歩出た。


 「相良智です。生徒会書記です。黎明館の補強費と解体費の比較、想定耐用年数、天井材の調査範囲、東窓枠の再利用可能性、旧食堂区画への機能移転可能性について」


 「一度に言わないでください」


 母は私と同じことを言った。


 智は少しうれしそうに見えた。


 「質問票があります」


 「正式な照会は学校を通してください。ただし、公開済み資料の範囲なら説明します」


 「では第一問。補強費の概算は」


 「相良くん」


 私は制服の襟の後ろをつまんだ。


 「まだ測ってる途中」


 「しかし時間は有限です」


 「首も有限だから、大事にして」


 智を引き戻すと、母の口元がわずかに動いた。笑いそうになったのだと思う。


 私が見ると、すぐに図面へ目を落とした。


 現地確認は二時間近く続いた。


 母は天井材の亀裂や柱の位置、東窓の腐食を一つずつ写真に収め、数値を書き込んでいった。私たちは邪魔にならないよう、奥の机へ移った。


 瑚大は録音図書を聞きながら、時々こちらを見る。


 「奏先輩のお母さん、建物を壊す人なんですか」


 「正確には、壊していいか調べる人」


 「壊さない方へ間違えてくれませんか」


 「仕事で間違えるような人じゃない」


 言い切ってから、腹が立った。


 母を信頼しているような言葉だったからだ。


 私は閉じた教科書を開き、読んでいないページをめくった。


 七時を過ぎたころ、母が東窓の前へ立った。


 朝日がガラスを通り、床へ橙色の帯を作る。あすなろの枝の影が、その上をゆっくり伸びていた。


 母は窓枠を調べるふりをして、長い間そこから動かなかった。


 横顔が、泣きそうに見えた。


 私は立ち上がりかけた。


 けれど母はすぐに作業員を呼び、いつもの声で腐食部分を指示した。


 見間違いだったことにした。


 閉室後、母は校庭で私を待っていた。


 「教室へ行く前に、少し話せる?」


 「何」


 「黎明館は、耐震補強だけで一億円を超える可能性がある。天井材の全面調査も必要。学校が使える予算には限りがある」


 「だから壊すの」


 「私一人が決めることではないわ」


 「でも、壊すための資料を作ってる」


 「安全を判断するための資料よ」


 「同じじゃない」


 母は何か言いかけ、やめた。


 私も言いたいことを整理できなかった。


 母が冷たいから腹が立つのか。昔この場所を知っているようなのに黙っているから腹が立つのか。家で私の顔を見ないのに、建物の亀裂は何時間でも見るから腹が立つのか。


 「今夜、早く帰れる?」


 出てきたのは、そんな言葉だった。


 「難しいと思う」


 「そう」


 「奏。あなたがここを使う必要があるなら、早朝の交通事情は資料に」


 「私のことを資料にしないで」


 母の顔が固まった。


 私はそのまま校舎へ向かった。


 教室に着く前、後ろから誰かが走ってきた。


 「木崎さん」


 智だった。手には二十一問の質問票がある。


 「お母さんへ提出する正式な経路を教えてください」


 「今それ聞く?」


 「今でなければ、昼休みでも」


 真面目なのか空気が読めないのか、まだ判断がつかなかった。


 「生徒会長と教頭を通して」


 「分かりました。では、感情面の質問は保留します」


 「何それ」


 「親子関係について聞くのは、今ではないと判断しました」


 「最初から聞かないで」


 智はうなずいた。


 「黎明館では、理由を聞かないことになっていますから」


 その言葉に、足が止まった。


 昼休み、私たちは尚久さんから古い利用記録を見せてもらった。


 直近十年分の台帳は、年度ごとに箱へ収められている。氏名、入退室時刻、毛布の貸出数、麦茶の使用量。個人的な相談内容は書かれていない。


 「記録はかなり細かいですね」


 私が言うと、尚久さんは一冊を丁寧に戻した。


 「続けるには、人数と物資を数えなければなりません。事情まで数える必要はありませんが」


 「全部そろってるんですか」


 「直近十年は。ただし、早朝利用が始まった二十六年前から最初の五年間だけ、保存目録に記載があるのに現物がありません」


 智の目が光った。


 「紛失ですか」


 「設置場所の欄が空白です。古い改修工事のとき、目録だけ転記され、現物の場所が引き継がれなかった可能性があります」


 用務員の御影道貴さんが、書架の向こうで脚立を畳んでいた。


 「最初の司書さんは、隠すのが好きな人だったねえ」


 「御影さんは、当時を知っているんですか」


 「早朝利用を始めたころ、私はここで働き始めたばかりだった。高校生のときには、この書架を運び入れたよ」


 道貴さんは懐かしそうに東窓を見た。


 「記録の場所は?」


 「知らない。ただ、あの人は、必要なものほど見つける時期を選ぶと言っていた」


 「神秘的ですね」


 瑚大が感心する。


 「単に整理が悪かった可能性もある」


 私が言うと、道貴さんは楽しそうに笑った。


 放課後、校門を出ようとしたとき、母の部署の車が停まっていた。


 運転席へ向かう母を、道貴さんが追いかける。


 「若林さん」


 母の肩が跳ねた。


 道貴さんはすぐに言い直した。


 「失礼。木崎さん」


 若林。


 その名字を、私は知っていた。


 母の旧姓だ。


 母は何も言わず、車へ乗った。


 私は花柄毛布の端にあった青い刺繍を思い出した。


 W・W


 母は、あの毛布を知っている。


 けれど家へ帰っても、母の部屋の明かりは夜遅くまでつかなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ