第32話 欲しいのは毛布と君
四月八日、午前四時二十分。
母の卵焼きは、端だけ少し焦げていた。
「完成検査なら条件付き合格」
私が言うと、母は箸を止めた。
「朝焼け文庫の検査項目に卵焼きはありません」
「利用者の栄養」
「朝食支援は匿名回数券と外部連携。家庭の卵焼きは対象外です」
「仕事の言葉で逃げないで」
「焦げたことは認めます」
二人で食べた。
段ボールはもう食卓の周りにない。
全部を片づけたわけではない。押入れに一箱残っている。私の父から届いた手紙も、まだ返事を書いていない。
それでも、話せないものを箱の外へ出す日は、少しずつ増えた。
母は出勤前に、私の鞄を指した。
「空封筒、入れた?」
「入れた」
「書いた?」
「書いた」
「見せてとは言わない」
「言われても見せない」
「分かっています」
母は笑った。
午前五時十二分。
朝凪駅へ着いた列車から、新しい制服の生徒が降りた。
私は少し離れた車両から降りる。
十月五日の私と同じように、彼女は駅前の時計を見て、地図アプリを開いた。大きな鞄を肩へかけ、海からの風に首をすくめる。
声をかけるか迷った。
迷って、やめた。
道が分からなければ聞ける距離だけ保ち、先に歩く。
学校まで十八分。
あすなろ高校の西玄関へ着いたのは、午前五時三十分だった。
玄関はまだ閉まっている。
新入生は軒下へ立ち、携帯端末を見た。
私は隣へ行った。
「午前五時四十分に開きます」
「何がですか」
「朝焼け文庫。理由は要りません」
十月に智から言われた言葉を、そのまま渡す。
新入生は少し警戒した顔で私を見た。
「図書館ですか」
「図書館と、毛布と、麦茶があります」
「朝の五時四十分に?」
「正しい反応です」
西玄関の内側で、警備員が開錠準備をしている。
午前五時三十九分。
早朝校務支援員の瀬川さんが、朝焼け文庫の鍵を警備室から受け取った。鍵管理簿へ受領時刻と名前を書く。
管理職当番電話の接続。
緊急呼出ボタンの確認。
暖房。
麦茶の温度。
毛布数。
成人担当者が開室判断を行う。
私と智は受付補助として、入口の外で待つ。
瑚大は音声案内端末を三回確認していた。
「標準速度でいい」
「最初の一文だけ、ゆっくりにしました」
明日香は卒業している。
それでも開室写真を受け取るため、校外から連絡用画面へ参加していた。画面の向こうで、大学の入学前課題らしい厚い本を抱えている。
「窓に鳥はいない?」
最初の質問がそれだった。
「いない」
「室内の立体物は」
「カモメ看板は地域資料室」
「開室を許可します」
「あなたに決裁権はない」
智が言った。
「卒業生代表の心理的許可です」
午前五時四十分。
瀬川さんが扉を開けた。
「朝焼け文庫、開室します」
入口端末から、瑚大の声が流れた。
『おはようございます。受付端末へ氏名と入室時刻を入力してください。利用理由は入力しなくて構いません。体調が悪い場合、相談したい場合、緊急連絡が難しい場合は、表示から選んでください。毛布と麦茶は、右側です』
標準より少し遅い。
でも、眠い朝にはちょうどよかった。
新入生が扉の前で止まった。
旧食堂だった部屋には、黎明館と同じ朝日は入らない。
東側壁の木製窓枠には、朝焼けの写真と短い札が収められている。
『眠れた』
『試験前に泣けた』
『理由を聞かれなかった』
あすなろ材の書棚。
静かな席の隣には録音図書席があり、その奥には相談衝立、毛布庫、麦茶台が収まっている。
受付脇には匿名回数券箱があり、現金も名前も要らず、表示を確かめて個包装の食品と交換できる。電子書棚には結衣が編集した証言集が収められていた。公開してよいと本人が決めた言葉だけを残し、匿名の証言は誰のものか分からない形に整えてある。私と明日香が公開協議で話した言葉も、そこに入っていた。
新入生は受付端末へ名前を入れた。
最初の利用者。
瀬川さんが体調確認画面を見て、問題なしを確認する。
私は生成りの毛布を一枚取った。
県の防災倉庫で役目を終え、衛生検査と洗濯を済ませて日常用になった生成りの毛布だ。災害用の備蓄とは別物だという説明を頭の中で並べてから、口には一つだけ出した。
「毛布、使いますか」
新入生は頷いた。
「はい」
「麦茶もあります」
「どうして早く来たか、聞かないんですか」
「聞きません」
「変じゃないですか」
「話したくなったら話せます。今は、寒いかどうかだけで十分です」
毛布を渡す。
彼女は両手で受け取り、窓枠の近くの席へ座った。
十月五日の私と同じ動作だった。
違う毛布。
違う建物。
違う人。
でも、理由を聞かずに温かい物を渡す動作は残った。
私は新しい台帳へ書いた。
『午前五時四十二分。毛布一枚貸出』
最初の一行だった。
「字が少し震えています」
智が覗いた。
「寒いから」
「室温は二十一度です」
「緊張してるから」
「率直ですね」
「あなたにだけは言われたくない」
智の腕時計は、午前五時四十五分を示していた。
本当は五時四十二分。
三分進んだままだった。
「直さないの」
「遅れないためです」
「ひよりさんとの待ち合わせは、もう終わったでしょう」
智は時計へ触れた。
「終わっても、忘れないために進めています」
「それだと、ずっと三分前を見てる」
「三分先です」
「本当の今を間違えないで」
智は私を見た。
何か言いかけたが、入口端末が鳴った。
二人目の利用者だった。
午前六時半。
市立図書館の職員に付き添われ、ひよりさんが入ってきた。
保護者同意済みの中学生見学者。
兄と似た目元で、智より先に腕時計を見た。
「まだ三分進めてるんだ」
「安全管理です」
「兄ちゃんのは、罪悪感管理」
智が黙った。
ひよりさんは私へ頭を下げた。
「木崎奏さんですよね。兄から聞いてます」
「どこまで?」
「長い説明を短くする人」
「正しい」
「誤植の人」
「それは智」
「二人の話として聞きました」
智の耳が赤くなった。
ひよりさんは録音図書席へ座り、瑚大の音声案内を聞いた。
『再生速度は三段階から選べます。標準、ゆっくり、とてもゆっくり』
「とてもゆっくりは誰向け?」
「朝、頭が起きていない人です」
瑚大が答える。
ひよりさんは一番遅い速度を選んだ。
『こ……の……本……を……』
「本を開いた方が早い」
「選択肢があることが大事です」
瑚大は真剣だった。
ひよりさんは笑ったあと、標準速度へ戻した。
午前七時十分。
初日の受入を終了する。
ひよりさんは市立図書館職員と一緒に退室し、自分の中学校へ向かった。
最初の新入生も毛布を返した。
「明日も来ていいですか」
「平日は開きます」
私が答えた。
「理由が同じじゃなくても?」
「同じでなくていいです」
彼女は少し笑い、教室へ向かった。
瀬川さんが閉室記録を書く。
瀬川さんは毛布の数と麦茶の残りを確かめ、体調対応も相談接続も設備異常もなかったと記録した。生徒補助は片づけと記録確認だけを行う。
正式な閉室が終わってから、智が花柄毛布を保存袋ごと持ってきた。
「館内使用に限り、今日から貸出可能です」
「保存備品じゃなかった?」
「年一回の繊維点検、洗浄、保存処置を通しました。日常貸出はしません。記念日や必要な場面に、成人担当者の判断で館内使用できます」
「必要な場面って」
「今日です」
智は保存袋から花柄毛布を出した。
薄い桃色。
小さな青い花。
何度も縫い直した端。
補修布の裏にある「W・W」。
十月五日に私が借りた毛布。
智はそれを私へ渡した。
「今度こそ、誤植ではありません」
入口の壁には、誤植ポスターが額装されている。
『欲しいのは毛布と君』
私はノートから、切り取って保管していた『君』の紙片を出した。
「学校の事故記録を切った人がいます」
「廃棄予定分です」
「保存していたんですね」
「言わないで」
智は一度息を吸った。
「欲しいのは、毛布と君です」
言葉が、朝焼け文庫の静かな席へ落ちた。
誤植ポスターを見たときのような笑いは起きない。
瑚大は空気を読んだのか、録音端末を持って書棚の向こうへ移動した。瀬川さんは閉室後の点検を続け、こちらを見ない。明日香は連絡用画面の向こうで、映像を消した。
「毛布は備品」
私は答えた。
「はい」
「私は生徒運営係」
「はい」
「欲しい物の分類がおかしい」
「言い方を変えます」
智の肩が少し下がった。
「一緒にいてください」
「それも命令みたい」
「では、希望です」
「会則は?」
「個人の交際について規定していません」
「調べたの」
「念のため」
私は笑った。
智は困った顔のまま、笑わなかった。
冗談だけで終わらせたら、また一人で答えを決める人に戻ってしまう。
暴風雪のあとに辞任届を三枚も書き、妹の朝を直せなかったことまで自分の責任にした人だ。皆で決めた役割さえ、最後には一人で背負おうとする。
私は花柄毛布の端を左手で持ち、右手で智の手を取った。
「あなたと一緒に守りたい」
智が顔を上げる。
「この場所だけじゃない。母との朝も、瑚大が読める方法も、明日香が安全だと言える線も、尚久さんが残した記録も。全部を一人では守れない」
「はい」
「だから、勝手にいなくならないで」
「辞任届は書きません」
「生徒会だけの話じゃない」
智は、やっと意味を理解した顔になった。
「分かりました」
「返事が規則みたい」
「うれしいです」
「それなら分かる」
智の手は温かかった。
花柄毛布も温かかった。
どちらか一つではなく、両方を必要としていいのだと思った。
私は手を離し、制服の内ポケットから白い封筒を出した。
透明なメッセージドームは、東窓枠の下に置かれている。
二十六年前の八通と、母の手紙の複製。
空だった封筒には、今朝、家で一文を書いた。
『ここにいていい理由は、あとから一緒に考えよう。』
署名は、木崎奏。
その下へ、小さく『二〇二七年四月八日 朝焼け文庫、生徒運営係』と書いた。
封筒をメッセージドームへ入れる。
次の毛布係が読む日まで、乾燥剤と二重ガラスの中で待つ。
智が開室写真を撮った。
東窓枠。
生成りの毛布。
花柄毛布。
メッセージドーム。
新しい台帳。
私と智の手は、写真を撮る前に離した。
智が尚久さんへ写真を送る。
返信は一分で来た。
『開室おめでとうございます。花柄毛布の貸出記録が未記入です』
私たちは台帳を見た。
新入生への生成り毛布一枚は書いてある。
花柄毛布は書いていない。
「見ていたんですか」
智が画面へ打つ。
返信。
『写真に貸出中の毛布が写っています。記録は物資を守ります』
「退職したのに」
私が言う。
『職員として指示していません。元司書として感想を送っています』
さらに返信が来た。
智と顔を見合わせ、笑った。
私は新しい台帳の二行目へ書く。
『午前七時十八分。花柄毛布一枚、館内使用。利用者、木崎奏』
返却予定欄へ、閉室点検後と記す。
智が確認印を押した。
彼の腕時計は、本当の時刻より三分先を示していた。
「今、何時?」
私が聞く。
智は腕時計ではなく、壁の時計を見た。
「午前七時二十分です」
「正解」
朝焼け文庫には、本物の朝焼けは差さない。
それでも入口の向こうから、新しい一日が来ていた。
理由を言えない人へ、先に毛布を渡す。
言葉にできる日が来たら、一緒に考える。
私は花柄毛布を畳み、次に使う人のため、尚久さんから教わった形で棚へ戻した。
智が返却欄へ、本当の時計で午前七時二十三分と書いた。




