第31話 残り九十分の引越し
記録を、午前八時三十分へ戻す。
残り九十分は、智の腕時計では九十三分だった。
「増えていません」
私が言う。
「心理的余裕です」
「終了時刻は本当の時計で管理して」
「作業責任者の時計へ同期済みです」
午前八時三十分。
救出優先順位の一番は、最後の利用台帳と記録箱。
二番はメッセージドーム。
三番は、状態確認を通った補修済み毛布。
四番は東窓枠。
窓枠は取り外しに時間がかかる。途中で中止しても、先に記録類を出せる順番にした。
館内の作業員へ指示を出すのは作業責任者だけだ。
智は優先順位表を渡し、変更希望があれば作業責任者へ伝える。明日香は校庭の受取区域と見送り線の人数を確認する。瑚大は番号を音声で読み上げる。道貴さんは、東窓枠の古い留め具位置を図面へ示す。母は業者側の安全確認から外れず、私たちへ直接作業を命じない。
私は、全部の記録を一つへ合わせる。
誰かが何でもするのではなく、できる範囲をつなぐ。
最初に、最後の利用台帳が出た。
透明な防水ケースへ入り、作業員の胸に抱えられている。軽そうに見えたが、生徒は受け取らない。作業員が台車へ置き、安全柵の外の受取区域まで運ぶ。
尚久さんは、移動完了札と封印番号を確かめ、受取時刻まで一つずつ読み上げた。
「午前八時四十二分。現行利用台帳一冊。封印番号、エー七一四」
「確認」
私が書く。
次は、メッセージドームだった。
ガラス本体と木製台座を別々の緩衝箱へ入れてある。書架裏から見つかった本体と、明日香が保管していた台座。
二つがまた離れて運ばれてくる。
「新施設で再会できます」
瑚大が言った。
「物へ感情をつけないで」
明日香が答えた。
「会長はカモメ看板へ敵意をつけています」
「あれは相互関係です」
メッセージドームの箱が受取台へ載る。
結衣が記録写真を撮った。
午前八時五十五分。
補修済み毛布の保管箱が出た。
花柄毛布はすでに新校舎へ移してある。ここにあるのは、黎明館の保管庫に残っていた虎柄、パンダ柄、無地の膝掛けだ。繊維点検を通った物だけを専門業者が密閉箱へ入れ、状態確認後に保存備品か展示資料へ分ける。
「魚柄がありません」
瑚大が一覧を見た。
「魚柄は暴風雪前から新校舎の補助毛布です」
尚久さんが答える。
「避難済みでした」
「よかったです」
「毛布の避難確認で安心する人を初めて見ました」
「友人です」
「備品です」
私と智の声が重なった。
瑚大は少し考えた。
「備品の友人です」
訂正になっていなかった。
午前九時。
東窓枠の取り外しが始まった。
安全技術者は、枠そのものの腐食が少ないことを確認していた。ガラスは新施設の安全基準に合わないため移さない。木製の内枠だけを外し、朝焼け文庫の東側壁へ装飾枠として取り付ける。
道貴さんが校庭から、古い図面を作業責任者へ見せる。
「下側、三か所。上側、二か所。右上だけ、改修時に留め具が交換されています」
「中へ入らなくても分かるんですか」
「交換した人から聞きました」
「誰ですか」
「私です」
「最初から言ってください」
留め具を外すたび、窓枠が少しずつ壁から離れる。
午前九時十六分。
校庭へカモメが一羽降りた。
明日香は、受取区域の配置図を見た。
窓枠を載せる台車は、校庭中央を通って受取台へ来る予定だった。カモメはその経路の真ん中にいる。
「作業停止を要請します」
明日香が言った。
「人の危険はありません」
智が答えた。
「私の危険があります」
「会長は安全柵の外です」
「視界に入ります」
作業員が笑いをこらえながら、台車経路を西側へ変更できるか確認した。
優先順位表には、明日香の鳥回避経路がない。
「不足事項です」
明日香が言う。
「次回の搬出計画へ追加します」
「次回はありません」
「では、今回の変更記録へ」
台車は校庭を大きく迂回することになった。
カモメは誰にも追われないまま、三歩歩いて飛び去った。
「自発的退去です」
明日香が記録した。
「鳥の退去時刻まで書くんですか」
「経路変更理由です」
窓枠は、予定より七分遅れて受取区域へ入った。
木の表面には、朝日と雨の色が重なっていた。
ガラスがないので、向こう側がそのまま見える。
私は枠越しに黎明館を見た。
四角く切り取られた古い建物。
朝焼け文庫へ取り付けたら、同じ朝日は入らない。
でも、枠を見るたび、光がどこから来たかは思い出せる。
午前九時三十五分。
最後の記録箱の搬出が始まった。
床下から見つかった資料を入れた箱とは別に、黎明館の備品目録、修繕記録、過去の図書受入簿がある。個人情報を含まない箱から順に受取区域へ運び、施錠箱は事務室へ直送する。
作業責任者が残り時間を告げた。
「二十五分です」
智は優先順位表へ線を引いた。
「東窓枠、完了。メッセージドーム、完了。毛布箱、完了。記録箱、残り二」
「大型書棚は」
「午前八時十五分までに三台完了。二台は損傷のため館内で解体し、木材として状態確認」
「生徒が運ぶ物は」
「ありません」
明日香が確認する。
「受取区域の人員は」
「十三人。全員、安全柵外」
私は台帳へ書く。
午前九時四十九分。
一箱。
午前九時五十六分。
最後の箱が館外へ出る。
台車が安全柵の内側を進む。
移動完了札が付くまで、誰も動かない。
午前十時ちょうど。
作業員が札を結んだ。
「搬出完了」
拍手が起きかけた。
「受取時刻を先に」
尚久さんが言った。
全員が手を止める。
私は台帳へ書いた。
『二月八日午前十時。最後の記録箱、受取区域へ搬出完了』
尚久さんが確認印を押した。
それから、拍手した。
午前十時五分。
大庭教頭の管理職当番電話が鳴った。
県教育委員会からだった。
教頭は相手の言葉を聞き、同じ内容を復唱する。
「施設改修、予算、運用体制について、翌二月九日付で承認予定。正式文書は明日午前中に送付」
電話を切る。
誰もすぐには声を出さなかった。
明日香は泣く準備をしていたらしく、目元へハンカチを当てたまま止まっている。
瑚大は両手を上げた姿勢で固まった。
智は私を見た。
「受信時刻」
尚久さんが言う。
「先に記録です」
「今ですか」
「今だからです」
泣く前に、全員で午前十時五分と書いた。
そのあと、明日香が泣いた。
瑚大は魚柄毛布の歌を歌おうとして止められた。
智は十七ページの承認後手順を出し、私に三ページへ減らされた。
私は、笑いながら泣いた。
翌二月九日、正式な承認文書が学校へ届いた。
校長は県の承認内容を確認し、朝焼け文庫の校内運用規程を決裁した。
規程には、成人担当者がいない日は開けないこと、生徒は受付と案内に限ること、欠勤や急病、暴風雪、設備異常のときの手順が記された。最後に、理由を聞くより先に温め、続けるために記録するという考え方が残った。
二月十日、黎明館の解体が始まった。
私たちは新校舎の窓から見なかった。
見たい人も、見たくない人もいた。
学校は、安全柵の外に記録用カメラを置き、解体写真を後日希望者だけが見られるようにした。
私は、その日の放課後に一枚だけ見た。
東窓のない壁。
書棚のなくなった床。
あすなろの影だけが、空いた場所へ伸びていた。
二月十二日。
県の登録型校務支援員名簿から、主担当二名と代替要員一名が確定した。
勤務命令と研修日程が出る。
主担当の一人、瀬川さんは、初日の面談で言った。
「午前五時半は早いですね」
「正しいです」
私が答えた。
「それでも応募した理由を聞いても?」
「以前、給食調理員でした。朝が早い仕事には慣れています。それと、私の娘も始発通学でした」
瀬川さんはそこで話を止めた。
こちらも続きを求めなかった。
二月十五日、旧食堂区画の改修が始まる。
廃品が運び出された。
カモメ型大型看板だけは、地域資料室へ移されることになった。
「廃棄ではないんですか」
明日香が聞いた。
「市の祭りで使った記録があるため、保存対象です」
「黎明館より長生きするんですか」
「比較しないでください」
明日香は卒業前最後の要望書として、『鳥類立体物は早朝利用動線から見えない場所へ保管』と書いた。
三月二十二日の完成検査では、二方向の避難路から緊急呼出ボタン、毛布庫の換気、麦茶台の衛生、廊下窓から入口を見渡せることまで順に確かめられた。
東窓枠は、旧食堂の東側壁へ取り付けられた。窓ではなく、壁の中の額縁のようだった。
中には、黎明館から見えた朝焼けの写真と、木製輪へ結ばれた短い札が入った。
『眠れた』
『試験前に泣けた』
『理由を聞かれなかった』
三月二十四日の総合訓練で、智は主担当の欠勤、当日の急病、暴風雪、暖房停止、緊急呼出を一度に起こそうとした。
「訓練は一件ずつです」
瀬川さんに止められた。
「複合事象への対応も必要です」
「最初から全部壊さないでください」
私が言う。
瑚大は音声案内の速度を三段階に調整した。
標準。
ゆっくり。
とてもゆっくり。
とてもゆっくりでは、『毛布』を言い終える前に一人が自分で棚を見つけた。
「選択肢として残します」
「誰向け?」
「朝、まだ頭が起きていない人です」
三月三十一日。
尚久さんの契約最終日。
午前七時十分、縮小受入を閉じたあと、最後の台帳を瀬川さんへ渡した。
「開室判断は成人担当者。生徒へ任せない。物資数は毎日確認。話したくない事情を聞き出さない。異常があれば記録し、隠さない」
「引き継ぎます」
瀬川さんが答えた。
尚久さんは鍵束を持っていなかった。
朝焼け文庫の鍵は警備室にあり、受領と返却を記録する。
「忘れ物はありませんか」
瑚大が聞いた。
「ありません」
「魚返済表は」
「事務長が教育資料として保管しています」
「採用されたんですか」
「不採用例として」
瑚大は少し残念そうだった。
尚久さんは、完成した朝焼け文庫を一周した。
書棚から録音端末、相談衝立、生成りの毛布へ視線を移し、保存袋に入った花柄毛布とメッセージドーム、東窓枠をゆっくり確かめた。最後に、受付の新しい台帳へ触れた。
まだ一行も書かれていない。
「開室初日の台帳は、誰が最初に書きますか」
智が私を見た。
私は首を振った。
「最初に来た人です」
「利用者が開室記録を書くわけではありません」
「開室記録は瀬川さん。最初の利用者が受付端末へ入力して、私が最初の毛布貸出を書く」
「役割分担ができています」
尚久さんが笑った。
「では、その一行を見ずに帰ります」
寂しいと言った人の声だった。
でも、足は止まらなかった。
私たちは西玄関まで見送った。
尚久さんは振り返らず、校門を出た。
空封筒は、まだ私の制服の内ポケットにあった。
四月八日までに書く。
誰かから受け取った言葉ではなく、私が次へ渡したい言葉を。




