第30話 あすなろの影と真鍮の鍵
真鍮の鍵は、鍵穴へ入る前に三回記録された。
午前八時二十九分、道貴さんから作業責任者へ受渡し。
午前八時三十分、作業責任者が鍵の外観を撮影。
午前八時三十一分、校長が電話で、学校資産の可能性がある物を作業員立会いで確認することを許可。
「鍵を回すまでが長いです」
瑚大が言った。
「長く残っていた物ほど、急いで開けない方がいい」
私は返した。
「魚なら鮮度が落ちます」
「箱は魚ではない」
「その可能性は、開けるまでゼロではありません」
箱の中から二十六年前の魚が出たら、別の意味で大発見になる。
作業員が東窓下の床板を外した。
正方形の継ぎ目は、床下設備の点検口だった。中へカメラを入れ、天井側と周囲の支持材を確認する。天井材の落下箇所から離れ、内部は乾いている。作業責任者が安全技術者へ映像を送り、確認を待つ。
私たちは校庭の記録台から、館内モニターを見た。
床下へ人は入らない。
長い柄の照明と小型カメラが、暗い区画を照らす。
奥に、金属の缶があった。
缶は床へ直接置かれず、あすなろ材の低い台に載っている。その上へ、同じ木で作られた小箱が固定されていた。
「箱が二重です」
瑚大が言う。
「外側が防湿缶。内側が木箱」
尚久さんが答えた。
「魚を発酵させる構造に似ています」
「似ていません」
作業員が把持具で防湿缶を引き出した。
外面に腐食は少ない。封印布は乾いている。缶ごと透明な回収容器へ入れ、館外へ運ぶ。
移動完了札が付くまで、誰も近づかなかった。
受取区域へ出たあと、校長、大庭教頭、尚久さん、作業責任者が立ち会う。私は記録係として、安全柵の外側に置かれた長机から時刻を書く。
道貴さんは鍵を返してもらい、作業責任者の前で木箱の鍵穴へ差し込んだ。
少しだけ回らない。
「違う鍵ですか」
智が聞く。
「二十六年、磨いていません」
「磨くべきでは」
「形が変わるほど磨いてはいけません」
道貴さんは布で表面の埃だけを落とし、もう一度差し込んだ。
今度は、乾いた音がした。
鍵が回る。
木箱の蓋は、すぐには開かなかった。
周囲の状態を撮影し、封印の文字を読む。
『創立記念資料。早朝利用開始記録。次の運用責任者が、校長立会いのもと開封可』
当時の校長印が押されていた。
「私が預かったのは、開ける権利ではなかったんですね」
道貴さんが言った。
「開ける条件を次へ渡す役でした」
校長が頷き、開封を許可した。
蓋が上がる。
最初に見えたのは、防湿紙に包まれた薄い冊子だった。
尚久さんが保存手袋で取り出す。
『早朝図書室・試行運用規程』
次に、年度ごとの匿名集計表。
利用人数。
到着時刻。
毛布貸出数。
麦茶の使用量。
録音資料の利用回数。
名前も、家庭事情も書かれていない。
「欠けていた五年間です」
尚久さんが言った。
黎明館の台帳では、早朝利用開始当初の記録だけが抜けていた。
箱の中には、なぜ抜けたかを説明する紙もあった。
個人名入りの利用原票は、当時の文書保存規程に従い、保存期限終了後に廃棄した。
匿名集計と運用規程だけを、創立記念資料として残すことを校長が許可した。
保存目録には資料名を記載したが、後年の改修時に台帳を転記した際、設置場所の欄が空白のままになった。
そのため、資料が存在する記録だけが残り、どこにあるか分からなくなった。
「秘密にしていたわけではない」
私が言う。
「記録の場所が、記録から落ちたんですね」
智が目録の写しを見た。
「空欄一つで、二十六年」
「だから空欄を残してはいけません」
「人員欄は埋めました」
「今の話は責めていない」
智は少しだけ安心した。
規程の一ページ目を、道貴さんが読んだ。
『早朝に登校した生徒へ、事情の申告を利用条件として求めない。寒さ、疲労、空腹、静かな場所の必要を、本人が説明できない場合がある。理由を聞く前に温める』
風が紙を揺らさないよう、透明板で押さえる。
次の条文。
『続けるため、利用人数、到着時刻、物資、開室責任者を記録する。支える者一名の善意へ負担を集中させない』
私は、十月から積み上げた表を思い出した。
利用人数。
列車時刻。
毛布の洗濯費。
成人担当者。
私たちは新しい考えを発明したつもりでいた。
でも、二十六年前の司書も、理由を聞かないことと、続けるために記録することを、同じ規程へ書いていた。
「朝焼け文庫の申請書と似ています」
瑚大が言った。
「似ているけど、同じではない」
明日香が答える。
「今は緊急呼出、代替要員、個人情報の手順、暴風雪時の閉室がある。当時に必要だった仕組みを、そのまま今へ持ってくるわけではない」
「更新版ですか」
「そう。思い出の複製ではなく、今の安全に合わせた更新」
校長は規程を見ても、県教育委員会へ連絡を急がせなかった。
「この資料は、承認を求めるための切り札にはしません」
智が少しだけ残念そうな顔をした。
「理由を聞いても?」
「安全と予算の審査は、すでに提出した資料で受けるべきです。二十六年前の規程があっても、現在の設備が安全になるわけではありません」
「正しいです」
智はすぐ頷いた。
「少しだけ、劇的な追加資料になると思いました」
「規程は劇的でなくていい」
私が言った。
「もう選んだ方針に、前から続いていた意味をくれるだけで十分」
箱の中には、当時の写真もあった。
黎明館へ大型書棚を運び込む高校生たち。
端に、髪の黒い男子生徒が写っている。書棚を支えながら、廊下の角を見ていない。
「御影さんです」
結衣が写真と本人を見比べた。
「断定は」
「裏に名前があります」
写真の裏には、参加者名が書かれていた。
『御影道貴』
その横に、『書棚一台、側板軽微損傷』。
「記録が正確です」
瑚大が言った。
道貴さんは写真を見て、静かに頷いた。
「人は過去を正確に記録できないことがあります」
「さっきより説得力がないです」
笑いが起きた。
道貴さんも笑った。
けれど、写真を受け取る手は少し震えていた。
「当時の司書は、私に鍵を預けました。場所を教えなかったのは、私が勝手に開けないためだったのでしょう」
「長かったですね」
「はい」
「役目は終わりましたか」
私が聞くと、道貴さんは真鍮鍵を見た。
「鍵を守る役は終わりました。言葉を使う役は、皆さんに移りました」
瑚大が小型録音機を出した。
「古い字体は読みにくい人がいます。音声資料にしていいですか」
校長と尚久さんが、著作権と保存資料の扱いを確認する。学校が作成した規程で、公開可能な範囲に個人情報はない。正式な複製手続きをした上で、朝焼け文庫の音声資料へ加えることになった。
道貴さんが一文ずつ読む。
瑚大は安全区域の外で録音し、聞き取りにくい箇所を確認する。
「『責任者』を、もう一度お願いします」
「せきにんしゃ」
「魚の『赤身』に聞こえました」
「責任者です」
「朝から魚へ寄りますね」
「私の耳が家業仕様です」
録音をやり直した。
箱の資料は、記録箱へ移す前に目録を作った。
母の「W・W」の手紙も、本人の同意書と由来を添えて、メッセージドームの保存資料へ加える。原本は防湿袋へ戻し、公開用には複製を使う。
母は作業員側の安全確認から戻り、自分の十七歳の字を見た。
「ここへ入れるんだね」
「嫌なら入れなくていい」
「入れてください。書いた私が、次へ渡すための手紙です」
母は同意書へ署名した。
箱の底に、もう一つだけ残っていた。
白い封筒。
宛名は『次の毛布係へ』。
封はされていない。
中は空だった。
「何も書いてありません」
瑚大が光へ透かした。
「書き忘れでは」
智が言う。
「空欄を二十六年残した可能性があります」
「さっき空欄を残すなと言った人が」
明日香が智を見る。
尚久さんは、封筒の保存状態を確認した。
「これは、次の人が書くために残したのでしょう」
全員の目が私へ向いた。
「どうして私」
「現在の生徒運営係です」
「まだ正式開室してない」
「候補です」
「書く内容が決まってない」
「それで空封筒なのでは」
私は封筒を受け取った。
薄い紙だった。
二十六年前から、誰かの言葉を待っていた。
制服の内ポケットへ入れる。
箱の確認を続ける間にも、館内の別班は搬出を止めていなかった。
私の台帳の別ページには、午前八時三十分の記録がある。
『救出作業終了まで九十分。主要書棚と録音端末は搬出済み。東窓枠、記録箱、最後の台帳、メッセージドーム、保管庫の補修済み毛布を優先する』
箱の言葉を読む時間と、物を運び出す時間は、同時に進んでいた。
「次の人へ渡すなら、今ある物を先に出します」
私は優先順位表のページを開いた。
空封筒へ書く言葉は、まだ空白のままだった。




