第29話 最後の朝焼け図書館
午前五時四十分、生成りの毛布は新校舎一階の多目的室に二十二枚並んだ。
花柄毛布だけは、透明な保存袋に入れられ、受付の後ろに立ててある。日常貸出は終わっている。けれど、今日だけは黎明館から見える位置へ置きたいと、尚久さんが学校の許可を取った。
二月八日。
黎明館から備品を救出できる、最初で最後の朝だった。
「開室します」
尚久さんが宣言した。
三月三十一日までは、実証運用で組み替えた早朝勤務を担当する。警備員が西玄関を開け、大庭教頭が管理職当番電話を持つ。生徒は受付と案内だけ。
役割を声に出して確認してから、扉を開ける。
最初に入ってきた二年生は、受付台の横に置かれた紙札を見て足を止めた。
『黎明館へ残したい言葉があれば、一枚だけ。名前は書かなくて構いません』
「一枚だけなんですか」
彼女が聞いた。
「短い方が、毛布へ結びやすいので」
私が答えると、智が横から付け足した。
「一人一枚に制限することで、全員分の保管容量と読み取り可能性を確保します」
「朝から長い」
「まだ二十三文字です」
「数えないで」
彼女は笑い、毛布を受け取って窓際へ座った。
多目的室の窓から、黎明館は校庭越しに見えた。
建物の周囲には黄色い安全柵が二重に置かれ、専門業者の車両が三台停まっている。屋根付き渡り廊下の途中には白い線が引かれ、その先へ生徒は進めない。
黎明館の東窓は暗かった。
十月五日、初めて入った朝には、あの窓からあすなろの影が床へ伸びていた。今日は館内に誰もいない。暖房もついていない。花柄毛布を貸す人も、麦茶を置く人もいない。
それでも、窓は朝を待っていた。
午前六時。
作業責任者が、屋根付き渡り廊下の見送り線まで来た。
「仮設支保工、天井材、床、搬出経路を確認しました。館内へ入るのは登録済み作業員六名だけです。生徒と教職員は安全柵の外。受取区域へ出た備品には、こちらが移動完了の札を付けます。それまでは触れないでください」
「重量物は」
明日香が聞く。
「すべて台車と車両で運びます。皆さんは照合と記録だけです」
「鳥が搬出経路へ入った場合は」
「人の安全を優先し、作業を止めます」
「鳥を追い払う担当は」
「設けません」
明日香は真剣に頷いた。
「正しい判断です」
作業責任者は、何が正しかったのか分からない顔で館へ戻った。
最初に運び出されたのは、小型の録音端末だった。
透明ケースに入れられ、一台ずつ番号札が付いている。瑚大は受取区域の外から番号を読み上げ、私が一覧へ印をつける。
「録音端末一番」
「確認」
「二番」
「確認」
「三番」
「確認」
「四番」
「画面に魚のシールがあります」
「備品番号を読んで」
「私の目印です」
「勝手に貼ったの?」
「剥がせる素材です。返却時に尚久さんへ申告しました」
尚久さんが台帳を見た。
「申告欄に『鯖』とだけ書かれています」
「鯖です」
「備品管理としては、もう少し説明してください」
瑚大は音声メモへ録音した。
『端末四番。背面右下に、剥離可能な鯖型識別シールあり』
「これで伝わります」
「伝わるけど、鯖である必要はない」
皆が笑った。
笑いながらも、瑚大は端末から目を離さなかった。
黎明館で初めて、自分に合う読み方を見つけた機械だった。
次に、台帳の箱が出た。
尚久さんが箱の封印番号を読み、受取記録へ署名する。個人名を含む現行の利用記録は、施錠できる金属箱へ入れられている。校庭で開かず、そのまま事務室へ運ぶ。
「一冊ずつ見なくていいんですか」
保存活動に参加していた一年生が聞いた。
「今は内容より、箱の番号と封印が合っていることを確認します」
私が答えた。
「大事だから、ここで見たいです」
「大事だから、ここでは開けない」
風のある校庭で個人情報を広げない。
黎明館を守りたいと思ったころの私は、残したい物へ触れることばかり考えていた。今は、触れないことも守り方だと分かる。
午前六時四十分。
利用者が一人ずつ、借りていた毛布を仮設返却台へ置き始めた。
返却台は安全柵の外、黎明館から見える場所にある。洗濯前の毛布へ直接紙を結ぶことはできないため、番号札のついた木製輪へ、短い言葉を書いた札を結ぶ。輪はあとで消毒し、記録写真と一緒に朝焼け文庫へ飾る。
『眠れた』
『試験前に泣けた』
『理由を聞かれなかった』
『魚の匂いがしても追い出されなかった』
最後の札を書いたのは瑚大だった。
「実際に魚の匂いがしていたの?」
「家業です」
「毛布へ移ってない?」
「衛生確認は受けています」
尚久さんが、すぐに洗濯記録を開いた。
「十二月十四日、上着から鰤の匂い。毛布への付着なし」
「記録されてる」
「物資を守るためです」
笑い声が起きた。
札が増えるほど、木製輪は重くなった。
午前七時十分。
縮小受入を閉室する。
利用者たちは教室へ向かう前に、屋根付き渡り廊下の見送り線へ並んだ。今日は月曜日だった。午前八時二十五分から授業がある。別れの歌を終えた利用者は教室へ移り、搬出記録へ残るのは、校長の許可と保護者の同意を得た生徒会、新聞部、利用者代表だけだった。授業を離れる時間は担任と教科担当が把握し、学習内容は後日補う。
魚柄毛布は、黎明館から前日に救出した物ではない。暴風雪より前から新校舎の補助毛布として保管されていた一枚だ。瑚大は洗濯済みのそれを保存袋越しに見て、紙を一枚取り出した。
「別れの歌を作りました」
「いつ」
「今朝、端末番号を待っている間です」
「作業中に?」
「音声確認もしていました」
瑚大は胸を張った。
「題名は『魚柄毛布は海へ帰らない』です」
「学校備品だからね」
歌詞は四行だった。
魚柄毛布は海へ帰らない。
洗濯袋へ帰っていく。
朝日が来たら棚へ戻る。
次に寒い人を待っている。
「二行目で現実へ戻されます」
智が言った。
「洗濯は大切です」
「曲は?」
「今から決めます」
瑚大が最初の音を外した。
結衣が笑いながら録音機を向ける。明日香は歌わないと言っていたのに、二行目から入った。智は音程を規則で直そうとして、三行目だけ全員より遅れた。
私は最後まで歌った。
上手ではなかった。
建物との別れに似合う歌でもなかった。
でも、誰か一人が立派な言葉を読むより、私たちらしかった。
歌い終わるころ、雲の切れ間から朝日が差した。
黎明館の東窓が、短い間だけ橙色になる。
館内では作業員が大型書棚の固定具を外していた。遠くから、人の影がゆっくり動くのが見える。
私は白い線の手前に立った。
「ありがとう」
声は、風に持っていかれた。
建物へ届いたかは分からない。
それでも、言わないままよりよかった。
午前七時四十五分、最初の大型書棚が搬出された。
あすなろ材の濃い色。傷のついた側板。高校三年生だった道貴さんが、地域実習で運び入れた書棚だ。
台車が受取区域へ入ると、保存派だった生徒たちが布を持った。
移動完了札を作業員が付けるまで、誰も触れない。
札が付いたあと、尚久さんの指示で乾いた布だけを使い、表面の埃を払う。薬剤は使わない。木の状態は専門業者が後で確認する。
「ここ、傷があります」
一年生が側板を指した。
「二十六年前からあります」
道貴さんが言った。
「搬入した高校生が、廊下の角へぶつけました」
「誰ですか」
「覚えていません」
「御影さんでは」
「人は過去を正確に記録できないことがあります」
「台帳には?」
「その日の作業記録に、『男子生徒一名、書棚を角へ接触』とあります」
「御影さんですね」
「個人名がないので断定できません」
道貴さんは神秘的な顔で逃げた。
午前八時十五分。
作業員が二台目の大型書棚を外し始めた。
東窓の前にあった、背の高い棚だ。
固定金具を切る音が、閉じた窓を通してかすかに聞こえる。棚が台車へ載せられ、ゆっくり横へ動いた。
その向こうに、今まで隠れていた床が現れる。
午前八時二十五分。
智が腕時計を見た。
「八時二十八分」
「本当は八時二十五分」
私が言ったとき、朝日が雲から出た。
校庭のあすなろから伸びた影が、黎明館の東窓を通り、書棚のなくなった床へ届く。
窓ガラス越しでも、枝の形が見えた。
影の先だけ、床板の色が違う。
正方形の継ぎ目。
「御影さん」
私は呼んだ。
道貴さんは、白い線の手前まで来た。
私が指した床を見て、胸元へ手を当てる。
作業用の小さな袋から、真鍮の鍵を出した。
二十六年間、対象物も位置も分からないまま保管してきた鍵だった。
「当時の司書から、言われたことがあります」
道貴さんは鍵を掌へ置いた。
「引き継ぐ朝、東窓の影が鍵穴を示す、と」
「どうして今まで言わなかったんですか」
智が聞く。
「影が示す場所を知りませんでした。書棚があり、床も見えなかった。推測で床を開けることはできません」
「今日が開封条件だった」
「建物から物を引き継ぐ朝です」
道貴さんは安全柵を越えなかった。
作業責任者を呼び、鍵の保管経緯を説明する。鍵の受渡し時刻、受取者、目的を、尚久さんが臨時台帳へ記録した。
真鍮鍵は、道貴さんの手から作業責任者の手へ渡った。
私は白い線のこちら側から、それを見た。
触れられない建物へ別れを言い、安全区域を越えないまま、最後の謎へたどり着いた。
作業責任者が館内へ戻る。
床の正方形へ、作業員二人が近づく。
私の制服の内ポケットには、まだ何も書いていない便箋が一枚あった。
次の毛布係へ渡す言葉を、私はまだ決められていなかった。




