第28話 会長の証言
匿名票は、名前を書かなくてよいから書けた。
『母と二人きりの部屋を、夜明け前に出たい日がある』
二月五日の朝、私はその一枚を制服の内ポケットへ入れた。
自分で書いた紙なのに、他人の秘密を持っているように重かった。
午前の生徒総会は、体育館で開かれた。
朝焼け文庫への運営協力と、生徒会則の改正。
生徒補助は受付、案内、記録補助に限る。
成人担当者が確保できない日は、生徒だけで開室しない。
施設が閉鎖された場合、同じ建物の保存だけでなく、必要な機能の代替を審議する。
「生徒会が施設を開く決定をするわけではありません」
明日香が壇上で説明した。
「学校と県教育委員会が安全、予算、人員を判断します。私たちが決めるのは、運営へ協力するか、どこまで協力するかです」
反対質問も出た。
なぜ早朝だけ特別扱いするのか。
利用理由を確認しないなら、遊びで来る人が増えないか。
生徒会が朝食支援まで抱えるのか。
智は予定していた回答を開いた。
文字が小さい。
ページ表示は『十七枚中の一枚目』だった。
「長い」
明日香がマイクを切った。
「まだ一行です」
「十七ページある」
「想定問答です」
「答えは一問ずつ」
体育館に笑いが起きた。
智は一ページ目だけを残した。
「特別扱いではなく、始業前にすでに校内へ到着する生徒の安全確保です。利用理由は求めませんが、氏名、時刻、体調、必要支援、緊急連絡可否は確認します。軽食は生徒会費ではなく、匿名回数券と外部連携を別に設計します」
質問した生徒は、納得したというより、考える顔で座った。
全員を感動させる答えではない。
それでよかった。
採決の結果、運営協力と会則改正は可決された。
体育館の拍手を聞いても、朝焼け文庫が開くわけではない。
午後の公開協議があり、その後に県の承認がある。
午前の可決は、私たちが協力すると決めただけだ。
午後一時、学校運営協議会が視聴覚室で始まった。
保護者代表、地域住民、校長、教職員、市立図書館、福祉関係者。
傍聴席には生徒と卒業生が座り、結衣が記録用の録音機を机へ置いた。
母は委員席にいなかった。
後方の説明者席で、公開済みの安全改修基準へ質問が出た場合だけ答える。推薦、採点、承認、決裁には加わらない。
最初に智が会則改正を説明した。
今度の資料は三ページだった。
「短くしました」
「基準が智だから信用できない」
私が小声で言うと、横にいた瑚大が頷いた。
尚久さんは、年間運用費百四十六万円が何を支えるのかを説明した。毎朝を一人へ背負わせない人員配置、毛布の洗濯、警備と光熱、録音図書の連携。そのどれか一つを削れば、扉は開いても居場所としては続かない。
瑚大は録音端末を操作し、同じ本を文字拡大、要約カード、音声の三つで読めることを示した。
「どれが正しい読み方ですか」
委員の一人が聞いた。
「私が読める方法が、私には正しいです」
瑚大は答えた。
声は少し震えていたが、端末を持つ手は下がらなかった。
次が私だった。
演台へ立つ。
資料には、匿名票の集計がある。
『家にいたくない朝がある』十二件。
『始発の都合』二十一件。
『朝食を取れない』九件。
数字だけなら読める。
私は、内ポケットから一枚を出した。
「これは、匿名意見箱へ入った票です」
傍聴席の空気が変わった。
誰かの家庭事情を読むと思われたのかもしれない。
「書いたのは、私です」
自分の声が、少し遠く聞こえた。
『母と二人きりの部屋を、夜明け前に出たい日がある』
声に出す。
紙へ書いたときより短い文だった。
でも、母が後方にいる場所で読むと、喉が狭くなった。
「母が怖かったわけではありません。転校と引越しのあと、二人とも、何を話せばいいか分からなかった。母は仕事へ逃げて、私は朝早く家を出ることへ逃げました」
母の顔は見なかった。
見たら、母の表情に合わせた言葉へ変えてしまいそうだった。
「黎明館で毛布を借りたとき、理由を聞かれませんでした。それで助かりました。あとから母と話して、今は一緒に朝ごはんを食べる日もあります」
毎日ではない。
焦げた卵焼きも、一回で親子を直す魔法ではない。
「居場所を使った理由が解決したら、もう必要ないとも思いません。次に来る人へ、事情を証明させない席にしたいです。話したい人は話せる。話したくない人は、毛布と麦茶だけ受け取れる。朝焼け文庫を、そのための場所にしたいです」
票を机へ置いた。
拍手は、すぐには起きなかった。
委員たちが資料を見ている。
私は、感動させられなかったのかと思った。
でも、ここは物語を聞く会ではなく、施設を推薦するか判断する場だった。
「利用理由を確認しないことで、安全上の見落としはありませんか」
保護者代表が聞いた。
智が、十七ページの補足資料を開いた。
「今は数字だけ」
私が止めた。
智は一度口を閉じ、必要な一枚だけを出した。
「利用理由は求めません。体調、必要支援、緊急連絡可否は毎回確認します。異常があれば成人担当者が養護教諭、管理職、専門窓口へつなぎます。生徒補助だけで判断しません」
「ありがとうございます」
質問者が頷いた。
私の告白だけでは承認できない。
数字と手順があるから、弱さを言葉にしても、誰かの同情だけに任せずに済む。
母へ、安全改修基準の質問が出た。
「旧食堂の二方向避難路と、相談衝立の配置は両立しますか」
母は説明者席から立った。
「公開図面上、避難有効幅を確保できます。衝立は床へ固定せず、転倒防止脚付きとし、廊下窓から入口付近の視認を妨げない配置を条件とします。最終判断は設置者の技術審査です」
答えると、すぐ座った。
私へ笑いかけもしない。
仕事の場だから。
今は、その距離が冷たいとは思わなかった。
最後に、明日香が演台へ立った。
「私は、生徒会長として黎明館の閉鎖に賛成しました」
最初の一文で、傍聴席が静まった。
「安全点検、人員、予算が整っていなかったからです。その判断は、今も間違いだったとは思っていません」
明日香は机の端へ指を置いた。
「同時に、私は一年生の冬、黎明館を利用していました」
結衣の録音機の表示が動く。
「家の事情は話しません。話さなくても利用できた場所だったからです」
それ以上を、誰も求めなかった。
「私は助けられた側だったのに、安全責任を負う立場になった途端、その事実を隠しました。利用者だったと知られれば、判断が私情だと思われるのが怖かった。閉鎖に賛成した自分も、代わりを残す責任を負います」
窓の外へ、白い影が降りた。
カモメだった。
窓枠へ止まり、首を傾けている。
明日香の指が、机を強くつかんだ。
声が一度止まる。
「会長」
智が小声で呼んだ。
「続けます」
明日香はカモメを見ないまま話し切った。
「建物を失っても、必要だった機能を安全に残す。私は、その推薦を求めます」
最後まで言って一礼する。
演台を降りると、そのまま委員席ではなく机の下へ入った。
「窓から見えません」
「会長の尊厳は見えています」
瑚大が衝立代わりに資料を立てた。
重かった空気に、小さな笑いが戻った。
協議は三十分続いた。
費用。
勤務。
安全。
個人情報。
市立図書館との分担。
最後に、学校運営協議会は朝焼け文庫の設置推薦を可決した。
校長が書類へ署名する。
「本日中に、県教育委員会へ施設改修、予算、運用体制の最終申請を送ります」
拍手が起きた。
今度は私も手を叩いた。
けれど、朝焼け文庫の扉はまだない。
協議会は推薦した。
生徒総会は協力を決めた。
県教育委員会の承認は、まだ届いていない。
会議後、安全技術者から別の通知が渡された。
黎明館の備品救出作業。
二月八日、午前六時から十時。
仮設支保工を確認した上で、館内へ入れるのは専門業者だけ。
生徒は安全柵の外、校庭の受取・記録区域まで。
新施設の承認結果にかかわらず、学校資産として保全できる物を搬出する。
書棚。
録音端末。
台帳。
メッセージドーム。
東窓枠は、当日の状態を見て判断する。
「最後に黎明館へ入ることはできないんですね」
私が聞くと、安全技術者は頷いた。
「入れません。別れは、安全区域からしてください」
自分の弱さを人前へ出すことはできた。
でも、黎明館の中へ戻ることはできない。
二月八日の午前五時四十分。
私たちは、触れられない建物へ別れを言うことになった。




