第26話 百七十四万円の穴
百七十四万円は、紙の上では七文字だった。
実際に埋めようとすると、私たちが持っていないものばかり必要になった。
「募金箱を置きましょう」
一月二十八日の放課後、智が最初に言った。
「置けません」
事務長が答えた。
「公立学校が、使途と会計処理を決めず自由に現金を集めることはできません」
「卒業生へ寄付を」
「学校指定の寄付制度を通し、設置者の確認が必要です。二月二日の申請期限には間に合いません」
「命名権は」
「旧食堂の壁へ企業名を入れないでください」
「毛布一枚ごとに」
「広告を縫いつけないでください」
智の派手な案が、一つずつ事務長の赤ペンで消えた。
瑚大が私の隣で、紙へ魚を描いていた。
「現金が駄目なら、魚で払います」
「もっと駄目だと思う」
「父の船から毎月、鮭を二匹。年間二十四匹。相場が上がれば早く返せます」
「学校の暖房業者は鮭払いに対応してない」
「洗濯事業所なら」
「聞かないで」
瑚大は魚の横へ、返済予定表を作った。
春の鰊から冬の鱈まで、季節ごとの返済魚が几帳面に並び、魚価が変わった場合の備考欄まで用意されている。
「季節分散でリスクを下げました」
智が表を真剣に見た。
「現金換算すれば」
「相良先輩まで乗らないで」
笑いが起きたあと、智は赤線だらけの企画書を伏せた。
「一度で埋める案は、ないということですね」
声が少し低かった。
生徒会クーデターのとき、智は会則の条文を一つ見つけ、閉鎖回答を覆した。
誤植ポスター一枚で、誰も見なかった早朝利用へ人を集めた。
大きな穴には、大きな策が必要だと思っていたのかもしれない。
大庭教頭が、十一月からの事前相談一覧を机へ置いた。
「一つの策で埋める必要はありません」
一番上に、市立図書館の名前があった。
朝焼け文庫で使う録音図書端末と電子書棚は、市立図書館の学校連携費から貸与できる可能性がある。学校が購入する費用を減らせる。
次は、県の早期登校支援枠。
遠距離通学や家庭事情で、始業前に校内へ到着する生徒の安全確保に使える予算だった。旧食堂の緊急呼出設備と可動式衝立の一部が対象になる。
「でも、どちらも条件付きです」
教頭が言う。
「市立図書館は、週二回の読書相談枠と利用統計の共有。個人名や利用理由は渡さない。県の支援枠は、早朝責任者と緊急連絡手順が確定すること」
「人員配置は、添付資料の二十七番です」
瑚大が言った。
「今の言い方だと、人が書類の付録みたいだね」
「逆でした。二十七番の資料が、人員配置です」
彼は申請書の束を持ち直した。
「言い直しても、少しだけ人が紙に負けています」
「では、人を先に探します」
次は毛布だった。
県が今年度、防災倉庫の毛布を新しい難燃品へ更新する。古い毛布は除却予定だが、災害用としての役目を終えた後、衛生検査に合格した物だけを一般備品へ所管替えできる。
「現行の災害備蓄量は減りません」
事務長が念を押す。
「新しい防災毛布を所定数納入し、古い毛布を除却した後の話です。朝焼け文庫が災害備蓄を使うのではありません」
花柄毛布の代わりになる、日常貸出用の生成りの毛布。
捨てられる予定だった物が、役割を変える。
建物を失い、機能を移す私たちと似ていた。
洗濯費も見直した。
これまでの見積もりは、一般の事業者が毎週集配する料金だった。市内の福祉事業所には、学校用品の洗濯と補修を請け負う設備があり、決まった曜日に市立図書館の配送車へ載せられる。
仕事を安く押しつけるのではない。
自治体の既存契約に沿った単価で委託し、洗浄温度、乾燥、破れの点検、返却記録を仕様書へ書く。
「魚で払えますか」
瑚大が事務長へ聞いた。
「現金です」
「残念です」
「魚は家庭で食べてください」
魚返済表には、赤い『不可』の判が押された。
でも、その横で数字は少しずつ変わった。
録音図書端末の購入費が消える。
緊急呼出と衝立の一部へ県枠を充てる。
毛布購入費を、衛生検査と洗濯費へ置き換える。
洗濯の年間単価を固定する。
市立図書館から借りる機器で六十八万円分、県の支援枠で八十万円分、毛布を買わずに済むことで二十六万円分。三つを重ねると、不足していた百七十四万円に届いた。
「穴が埋まりました」
智が言った。
「条件付きです」
事務長がすぐ訂正する。
「各担当部署の正式審査を通ること。県の施設改修承認が出ること。毛布が衛生検査に合格すること」
「それでも、申請書には書けます」
年間運用費も、百七十八万円から百四十六万円へ下がった。
不足していた三十二万円は、外部洗濯委託と図書館配送の共同化で削減できる。
二枚の表に、初めて同じ金額が並んだ。
初期費用、三百二十万円。
年間費、百四十六万円。
私は、金額の横へ財源名を書き込んだ。
一つが切れても、全部が止まらないように、線を分ける。
「毛布一枚を渡すまでに、何枚の書類が要るんでしょう」
私が言うと、尚久さんが青いファイルを持ち上げた。
「渡すときは一秒です。渡し続けるために書類があります」
智は、赤線で消された募金案を裏返した。
「一手で勝つより、小さい制度を重ねる方が強い場合もある」
「やっと普通のことを言った」
「今までも普通でした」
「誤植ポスターを三百枚刷る人が?」
「あれは印刷設定上の事故です」
私はノートに挟んだ『君』の紙片を思い出したが、口には出さなかった。
二月二日の午後四時。
正式申請書は、期限の一時間前に校長室へ提出された。
初期改修費の穴は埋まった。
年間費も収まった。
設備表も、避難経路も、毛布の衛生手順もある。
大庭教頭は全ページを確認し、最後の欄で赤ペンを止めた。
「早朝責任者氏名」
空白だった。
尚久さんの契約は三月三十一日まで。
四月八日から朝焼け文庫を開ける大人が、まだいない。
「ここが決まらなければ、承認できません」
百七十四万円の穴より大きい、人一人分の空欄が残っていた。




