第25話 旧食堂、午前六時
午前六時の旧食堂は、食堂というより、学校が捨てる決心を先延ばしにした物の集会所だった。
脚の一本だけ短い丸椅子。
文化祭で使った海賊船の舵。
壊れた譜面台が十二本。
何の競技で使うのか分からない、巨大な輪。
「廃品ではありません。用途未確定の学校資産です」
智が言った。
「壊れた譜面台にも用途があるの」
「廃棄の決裁が終わるまで、用途が消滅したとは断定できません」
「座ると傾く椅子は」
「姿勢改善への注意喚起」
「捨てて」
明日香が即答した。
一月二十六日。
校長の許可を得て、私たちは旧食堂区画の現況調査に来ていた。黎明館と違い、ここは新校舎の一階にある。警備員が新校舎を開ける時間に合わせ、午前六時から七時まで。大庭教頭、事務長、用務員、警備員が同席し、生徒は寸法を測り、必要設備を記録するだけだ。
安全判断も、廃品を動かす許可も、大人が出す。
「暖房は動きます」
用務員が壁の操作盤を確認した。
しばらくすると、天井の吹出口から温い風が出た。埃の匂いが混じっている。
「清掃とフィルター交換は必要。給排水は麦茶台へ使える。ただし、古い食器洗浄機は撤去です」
「復活させて朝食を」
智が言いかけた。
「増やさない」
私と明日香の声が重なった。
早朝受入に必要なのは、食堂の復活ではない。
理由を聞かれずに座れ、必要なら毛布を借りられること。録音図書を聞く席と、人目を避けて相談できる衝立があること。麦茶を飲めて、具合が悪くなればすぐ大人を呼べること。
それだけは削れない。
足すほど便利になる。
足すほど費用と管理が増える。
「欲しいものを全部書く時間は終わり」
私は方眼紙の中央へ、部屋の長方形を描いた。
「ないと朝の席にならないものだけ残す」
瑚大が、仮設受入室で使っている札を並べた。
『静かに過ごす席』
『録音図書』
『相談できます』
『毛布返却』
「言葉はあります。部屋の中で、言葉どおりに過ごせる場所がありません」
彼は旧食堂の奥を見た。
壁際には、割れた展示ケースと、選挙啓発用の着ぐるみの頭が積まれていた。笑顔の県鳥が、横倒しになってこちらを見ている。
明日香は一歩下がった。
「鳥ではありません。着ぐるみです」
智が説明する。
「鳥を模した物体です」
「生物ではありません」
「目があります」
「塗料です」
「見ています」
「反射です」
言い合っている間に、道貴さんが別の廃品へ掛かっていた布を外した。
黄色いくちばし。
青い翼。
『港まつりへようこそ』と腹へ書かれた、カモメ型の大型看板が現れた。
明日香は無言で調査区域の外へ出た。
「生徒会長、避難が速いです」
瑚大が記録した。
「避難経路の実証です」
廊下から声だけが返った。
笑いながらも、私は図面に二本の矢印を引いた。
東側の廊下出口。
西側の中庭出口。
二方向の避難路は確保できる。
廊下側の窓からは警備室前が見え、警備室からも入口付近を確認できる。壁で完全に閉じる相談室は作れないが、可動式の衝立なら視線を遮りながら異常を見落としにくい。
「黎明館より管理しやすいですね」
智が言った。
私は返事をしなかった。
正しい。
新校舎の方が暖房設備も避難路も警備も整っている。
正しいからこそ、黎明館を惜しむ気持ちが、わがままに見えそうになる。
旧食堂の窓は北向きで、午前六時になっても空の色が薄く見えるだけだった。
東窓から差した朝日。
あすなろの影。
古い木と紙の匂い。
ここにはない。
「木崎さん」
智がメジャーの端を持ったまま、私を呼んだ。
「東側の壁、二メートル四十七センチです」
「それが何」
「黎明館の東窓枠と同じです」
道貴さんが図面を重ねた。
「正確には、取り付け下地を含めて二メートル四十五センチ。余裕が二センチある」
「入るんですか」
「安全技術者と専門業者が、腐食と強度を確認してからです。外せても、飾り窓になるかもしれない。採光は北側だから、同じ朝日は入りません」
同じにはならない。
でも、全部が同じでなくてもいい。
私は方眼紙へ、東窓枠の候補位置を描いた。
次に、毛布庫を暖房吹出口から離す。
録音図書席は電源の近く。
相談衝立は警備室側の廊下窓から入口が見える範囲。
麦茶台は給排水の横。
緊急呼出ボタンは受付からも静かな席からも行ける中央壁。
廃品で埋まった部屋が、少しずつ使い方を持ち始める。
「名称欄が空白です」
智が申請書を指した。
「前に書いた」
「正式書類には、正式に確認した名称が必要です」
私は皆を見た。
明日香は廊下から戻り、カモメ看板へ背を向けている。
瑚大は『録音図書』の札を、予定位置へ置いた。
尚久さんは来年度にはいない。それでも、毛布庫の棚板寸法を測っている。
「朝焼け文庫」
私が言うと、明日香が頷いた。
「朝日は入らないけど」
「入らないから、名前に残します」
「反対意見は」
智が聞く。
道貴さんがカモメ看板を見た。
「鳥焼け文庫でなければ」
「絶対に反対です」
名称は決まった。
調査終了後、事務長が費用表を壁へ貼った。
壁には二枚の費用表が並んだ。改修に必要な三百二十万円と、開室後一年を支える百七十八万円。似た数字でも、片方は部屋を作る金で、もう片方は朝を続ける金だった。
「現時点で確保できる見込みは、初期費用が百四十六万円。年間費が百四十六万円です」
智が差額を暗算した。
「初期改修費は、百七十四万円不足。年間運用費は、三十二万円不足です」
廃品を片づければ部屋は空く。
お金と人の空白は、片づけるだけでは埋まらない。
午前七時前、私たちは仮設早朝受入室へ戻った。
利用者へ毛布を渡し、返却数を記録する。
今朝も扉は開いている。
でも、朝焼け文庫の申請書には、百七十四万円の穴が開いていた。




