第24話 建物をあきらめる日
黎明館保存署名の用紙は、千百八十六人分あった。
一月二十四日の放課後、生徒会室の長机いっぱいに束が並んでいた。
『黎明館の存続を求めます』
署名を始めたとき、私たちは建物を残すつもりだった。
旧食堂へ機能を移すなら、この署名をそのまま使うことはできない。
「提出を止めます」
私が言うと、保存活動へ参加していた二年生が立ち上がった。
「ここまで集めたのに?」
「目的が変わったから」
「黎明館を残すって言ったから署名した人もいる。機能移転に変えるなら、裏切りでしょ」
「そうです」
言葉を濁さなかった。
「同じ署名を別の案へ使う方が、署名した人を裏切ります。提出はしません」
「じゃあ、今まで何だったの」
責める声には理由があった。
放課後を使って教室を回り、駅前で説明し、卒業生へ連絡した。黎明館そのものを残したい人もいた。
その時間を、なかったことにはできない。
「無駄ではありません」
智が答えかけた。
私は手で止めた。
今は、私が言う場面だった。
「建物を残せなかったという意味では、結果につながりませんでした」
室内が静かになる。
「でも、署名を集めたから、早朝利用が誰にも知られていない善意ではなく、学校が答えるべき問題になった。実証運用も、代替室も作れた。全部が無駄だったとは言いません。でも、黎明館を残す約束は守れません」
「諦めるの?」
「建物は諦めます」
口にすると、胸の奥が痛んだ。
それでも続けた。
「一月二十日に天井板が落ちた。調査と補強には高額な費用がかかる。補強しても、早朝勤務の責任者や欠勤時の代替、緊急連絡の問題は残る。私は、朝焼けの窓も、花柄毛布も、あの匂いも好きです。でも、残したい一番目は建物ではありません」
多目的室の白い蛍光灯を思い出す。
録音図書がない。
衝立がない。
それでも、朝に扉を開ける場所があるだけで、来られた人がいた。
「残したいのは、寒い朝に安全に座れる席です。理由を言わなくても毛布を借りられることです。静かな席と録音図書と、困ったときに成人へつながる仕組みです」
「黎明館じゃなくてもいいってこと?」
「よくはないです」
私は答えた。
「なくなって平気ではありません。両方残せないから、選びます」
全員に好かれる言い方はできなかった。
署名を提出しないことで怒る人もいる。
機能移転に賛成しても、黎明館が解体される日に悲しむ人もいる。
どちらも間違いではない。
「署名用紙は、目的外に使わず、生徒会の個人情報取扱手順に従って返却または廃棄します」
智が説明した。
「希望者には、新しい機能移転案への意見書を別に案内します。前の署名を自動で賛成へ数えません」
「長いけど、必要」
私が言うと、智は少しだけ胸を張った。
明日香が、方針変更を知らせる看板を持ってきた。
『黎明館保存活動から、早朝機能移転案へ』
白い板に黒い文字。
ところが、暖房の前へ立てた瞬間、裏から赤い文字が透けた。
『欲しいのは毛布と君』
誤植ポスターの裏面を再利用していた。
「紙資源の有効活用です」
智が言う。
「方針変更の説明より、告白が強い」
「告白ではありません」
「まだ保管してたの」
「事故記録です」
保存活動の生徒が、最初に笑った。
「じゃあ、建物は諦めても、君は諦めないんだ」
「文脈が違います」
智の耳が赤くなった。
私のノートには、あのポスターから切り取った『君』の紙片がまだ挟まっている。
言わなかった。
今は、別の決断をする場面だった。
一月二十五日、臨時施設検討会が開かれた。
会議には校長や教頭のほか、朝の受入に関わる職員、生徒会、利用者代表が集まった。母は採否を決める席から外れ、すでに公開されている図面についてだけ説明した。
私は旧食堂区画の図面を大型画面へ映した。
「黎明館の保存要請を取り下げ、早朝利用の機能を旧食堂区画へ移す案へ変更します」
校長が確認する。
「生徒側が決められるのは、要望と運営協力です。施設改修、予算、安全責任は学校と県教育委員会が判断します」
「分かっています」
「旧食堂案を正式に検討することへ異議は」
改修中の騒音や早朝警備を心配する声が上がった。将来また食堂として使う可能性や、毎年かかる費用も無視できない。どの反対も、黎明館を壊したいから出たものではなかった。
会議は一時間四十分続いた。
最後に、黎明館の保存ではなく、旧食堂への機能移転を正式方針とすることが決まった。
新施設案の提出期限は二月二日。
十一月から事務室と事前相談していた下書きを、正式書式へ直す。
事務長が費用表を配った。
「初期改修費、三百二十万円」
暖房と内装を直し、二方向へ逃げられる通路を確保する。緊急呼出し、毛布庫、電源、相談用の衝立まで含めた額だった。
「年間運用費、百七十八万円」
こちらは、朝を開ける責任者の人件費や警備、光熱、毛布の洗濯、消耗品、録音図書の連携に毎年必要となる。
「別の費用です」
事務長が二枚の表を離して置いた。
「改修費を集めても、翌年から開け続けるお金がなければ閉じます。年間費だけあっても、部屋を直せなければ始まりません」
智が二枚を見比べた。
「期限まで八日です」
「正確には、今日を含めて九日」
「私の時計では」
「日数は三分進めても増えない」
明日香が言った。
会議後、道貴さんが旧食堂の図面へ鉛筆で線を引いた。
「黎明館の東窓枠は、この壁へ入るかもしれません」
「持ち出せるんですか」
「安全技術者が許可し、専門業者が外せれば。生徒は入りません」
次に、あすなろ材の大型書棚を指す。
「書棚も、傷んでいない部分は使えます」
建物全部は残らない。
窓枠一本。
書棚数台。
毛布一枚。
台帳と手紙。
残せるものを選ぶことは、失うものを数えることでもあった。
私は費用表の余白へ、新しい名称を書いた。
『朝焼け文庫』
旧食堂に朝日は差さない。
それでも、朝焼けを見た場所の役割を引き継ぐ名前なら使える。
二月二日までに、部屋と費用と人を、一つの案へまとめなければならない。




