第23話 忘れられない手紙
母は、花柄毛布の布札を見ても、すぐには何も言わなかった。
一月二十二日の夜。
職員住宅の食卓には、引越しの段ボールがまだ二箱残っている。その間へ、透明なメッセージドームと、保存袋に入れた布札を置いた。
メッセージドームは、尚久さんの許可を得て持ち出したものではない。
母へ確認するため、尚久さん、生徒会長、教頭、私の四人で学校の管理室に集まっていた。
母が学校へ来る形にした。
手紙は学校の管理資料であり、私信かもしれない。勝手に家へ持ち帰らない。
「若林和佳」
大庭教頭が布札を読む。
「木崎さんの旧姓で間違いありませんか」
「はい」
母は答えた。
声は仕事のときと同じだった。
「二〇〇〇年十二月、あすなろ高校二年生。家庭科室で、この毛布を修繕しました」
私と同じ十七歳。
同じ花柄毛布を膝へかけ、同じ朝の図書館にいた。
「W・Wは」
「若林和佳の頭文字。旧姓と名の頭文字です」
「どうして今まで言わなかったの」
質問が、教頭のいる前で出た。
母は私を見た。
「黎明館の解体資料を作る担当だったから。個人の思い出を、技術判断へ混ぜたくなかった」
「だから何もなかったことにしたの」
「何もなかったことにはしていない」
「私には言わなかった」
「言えば、保存したい気持ちがあると疑われる。審査から外れた後も、あなたが私の過去を理由に使うかもしれないと思った」
「私を信用してなかったんだ」
言ってから、自分も母を信用していなかったと気づいた。
解体担当だから、黎明館を嫌っている。
仕事を優先するから、寒い子のことを忘れた。
私は母の説明を聞く前に、答えを決めていた。
大庭教頭が透明なドームを確認した。
「八通目の封筒には、『次の毛布係は開封可』と明記されています。若林さん本人が差出人と認め、開封へ同意するなら、学校資料として皆で確認できます」
母は封筒を見た。
朝顔の透かしが、蛍光灯の下で薄く浮かぶ。
「開けてください」
「お母さんが」
「今の毛布係が開ける手紙です」
私は保存手袋をつけた。
封筒の糊は乾いていたが、密閉袋の中で形を保っている。
透明なメッセージドームは、名前こそスノードームでも液体を使わない。二重ガラスの内側に乾燥剤を入れ、封筒はさらに防湿袋へ納められていた。
便箋を開く。
丸い字だった。
『大人になった私へ。寒い子を、理由を聞いてから助ける人にならないで。』
その一文の下に、『若林和佳』と書かれていた。
私は読み終えても、便箋を置けなかった。
母は、手紙から目を離さない。
「これを書いた日のこと、覚えてる?」
「忘れたことはありません」
題名どおりの答えだった。
母は高校二年の冬、祖母の介護で家の空気が張りつめる朝が続いていた。
誰かが悪かったわけではない。
家族全員が疲れ、家にいるほど互いへ気を遣った。
母は毎朝、必要以上に早く家を出た。
黎明館で花柄毛布を借り、東窓の朝日が差すまで眠った。
当時の司書は、家の事情を聞かなかった。
毛布が破れたとき、母は家庭科室で補修した。自分が使ったことを知られたくなくて、表ではなく当て布の裏へ名前を書いた。
「手紙は、次の毛布係へ残す企画で書きました。大人になれば、助ける側になると思っていた」
「なったじゃない」
「なれていません」
母の声が、そこで初めて仕事の声ではなくなった。
「解体担当として安全基準を守ることと、あなたへ何を言えばいいか分からないことを、同じ箱へ入れていました。仕事だから黙る。忙しいから朝食を別にする。引越し直後だから会話は落ち着いてから。理由を並べて、あなたが朝早く家を出ることを聞かなかった」
「私も言わなかった」
「言わない子へ、言うまで待っていました」
手紙には、理由を聞いてから助ける人になるなと書いたのに。
母は、自分の字を指で追った。
「十七歳の私の方が、今の私より分かっています」
「そこまで言わなくていい」
私は便箋を保存袋へ戻した。
母を責めきれなかった。
同じ癖が、自分にもある。
頼みたいことを言わず、相手が気づかなければ、理解が足りないと決める。
正しさへ逃げる。
「明日」
言葉が喉へ引っかかった。
「明日の朝、家で一緒に朝ごはんを食べたい」
母が瞬きをした。
大庭教頭が、静かに書類を閉じる。
明日香は窓の外を見た。鳥はいなかった。
「何時」
母が聞く。
「五時」
「早すぎない?」
「いつも五時前には出る」
「知っています」
「知ってても、一緒には食べてなかった」
「そうね」
母は少し考えた。
「卵焼きでいい?」
「焦がさなければ」
「技術職員へ調理精度を求めないで」
「施設の完成検査より簡単だと思う」
「卵は図面どおりに固まりません」
明日香が吹き出した。
大庭教頭まで咳払いで笑いを隠した。
母は赤くなった目元をこすり、メッセージドームを持ち上げた。
「液体を使っていない。二重ガラス、防湿袋、乾燥剤。便箋にも黴はない」
「今そこを確認するの」
「保存方法だけは合格です」
泣きながら言うので、私も笑った。
感動しているのか、呆れているのか、自分でも分からなかった。
翌朝、母は卵焼きを少し焦がした。
私は食卓の段ボールを一箱だけ片づけ、二人分の皿を並べた。
会話は長く続かなかった。
でも、沈黙の種類が前日までと違った。
食べ終えたあと、母が仕事用の筒から大きな図面を出した。
「公開済みの校内配置図。審査資料ではなく、誰でも閲覧できるものです」
「急に仕事へ戻るね」
「朝の席を作る話だから」
図面の一角を指す。
新校舎一階、旧食堂区画。
今は倉庫代わりに使われている部屋だった。
「暖房と給排水が残ってる。二方向の避難路もある。警備室から廊下を確認できる」
「使えるの」
「そのままでは使えない。改修費も運用費もいる。県と校長の承認も必要」
母は図面を私の前へ置いた。
「建物は壊す。でも、朝の席は作れる」
花柄毛布を残すことと、黎明館を残すことは、同じではない。
私は図面の旧食堂区画を見た。
東向きの窓はない。
朝焼けもない。
けれど、寒い子が理由を話さず入れる扉は、作れるかもしれなかった。




