第22話 勝ったのに、なくなる
智の辞任届は、三枚あった。
一枚目に役職名と氏名。
二枚目に辞任理由。
三枚目に再発防止策。
「辞任届に再発防止策は要りません」
明日香は三枚をそろえ、智へ返した。
「ですが、利用継続を主張した私には」
「あなたが暴風雪を起こしたの?」
「気象現象の責任ではありません。旧館利用を延長した判断への」
「長い」
私は三枚目を押さえた。
一月二十二日。
暴風雪の翌々朝、多目的室での縮小受入が始まっていた。
机は十二台。椅子は四十脚。暖房は効く。麦茶もある。
けれど、蛍光灯を消すと部屋全体が暗くなり、つけると眠りたい人には明るすぎた。録音図書の端末は黎明館の中。相談衝立も、壁際の一人席もない。
私は新しい議事録へ、二つの見出しを書いた。
『守れたもの』
『失ったもの』
守れたものには、二十三人の安全、保護者連絡、入退室記録、毛布、麦茶。
失ったものには、録音図書、静かな席、相談衝立、朝日、黎明館。
智は、私のノートを見た。
「事故は起きませんでした」
「天井板は落ちた」
「人的被害はありません」
「建物は使えなくなった」
「運用は機能しました」
「機能しなかった部分もある」
私は二つの見出しの間へ線を引かなかった。
「成功か失敗か、一つに決めなくていい。成功したところと、足りなかったところを分ける」
「私の責任も分けるという意味ですか」
「私も賛成した。明日香先輩は条件を作った。斎木さんは現場を回した。先生たちは承認した。全員で決めた」
「責任者が曖昧になります」
「責任の所在と、罪悪感の独占は別」
智は返事をしなかった。
三分進んだ腕時計の竜頭へ触れる。
その癖を見た瞬間、ひよりさんから預かった言葉を思い出した。
「全部を自分で直す話にしないで、って言われたでしょ」
「妹の発言を交渉材料に使うのは」
「本人から、兄がまた三枚以上書いたら言っていいと許可をもらった」
「条件が具体的すぎます」
私はスマートフォンを見せた。
『三枚になったら止めてください。二枚でも長いですが。 ひより』
智は辞任届の枚数を確認した。
「家族内の監視が強化されています」
「支援です」
「監視と支援の境界を議題に」
「四枚目を書いたら没収します」
明日香が辞任届を生徒会室の鍵付き箱へ入れた。
「受理しません。保留でもありません。本人へ返却します。ただし今は、自分で持つと四枚目を足すので預かります」
「それは返却では」
「後日」
智は納得していなかった。
けれど、辞任届を取り戻そうとはしなかった。
昼休み、県の安全技術者から正式な報告が届いた。
落下したのは、東側閲覧室の天井板二枚と下地材の一部。
建物全体が直ちに倒壊する状態ではないが、局所劣化の範囲を安全に調査するには、仮設支保工と専門業者が必要。一般利用は再開できない。
解体開始は二月十日。
備品救出の可否は、後日判断する。
通知の最後に、『避難運用により人的被害を防止した』と書かれていた。
校内新聞も、私たちを褒めた。
『毛布導線、二十三人を救う』
大きな見出しの下に、赤い毛布の写真がある。
「二十三人は遭難していません」
智が結衣へ訂正を求めた。
「見出しは短く強く」
「事実は正確に」
「では、『毛布導線、二十三人を安全な新校舎へ誘導』」
「長いですが正確です」
「あなたに長いと言われたくない」
結衣は見出しを直した。
私は記事の末尾に、『黎明館は即日立入禁止』とあるのを見た。
勝ったはずだった。
十一月の総会で回答を撤回させ、条件付き実証運用を認めてもらった。
暴風雪では全員を守った。
それでも、黎明館はなくなる。
勝敗で数えようとすると、何も残らなかった。
放課後、尚久さんに呼ばれて新校舎の管理室へ行った。
作業台の上に、花柄毛布が広げられている。
暴風雪前日の年次点検で黎明館から移されていたため、天井板の落下には巻き込まれなかった。
繊維検査を担当した業者が、毛布の端を慎重に持ち上げる。
「二十六年前の毛織りです。補修は丁寧ですが、日常貸出を続けるには表面の摩耗が進んでいます」
「廃棄ですか」
瑚大が聞いた。
「洗浄、虫害処理、裏当て補修をすれば、館内展示や引継ぎ時の限定使用はできます。膝掛けとして毎日使うのは終わりです」
花柄毛布も、今までと同じ形では残らない。
私は、ほつれた端へ触れないよう手を浮かせた。
「最後まで使ったから、壊したんでしょうか」
尚久さんが首を振る。
「使わずにしまっていても、繊維は古くなります。毎年点検し、直し、限界が来たら役割を変える。それが管理です」
「人より先に仕組みを直す」
瑚大が、第五通の手紙を思い出した。
「毛布より先に人を直してはいけない、という意味でもあります」
智が小さく言った。
辞任届のことだと分かった。
業者が補修記録を確認するため、裏地の縫い目を少しだけ開いた。
何度も当て布を重ねた内側から、白い布札が出てくる。
洗濯に耐える繊維用インクで、細い文字が書かれていた。
『若林和佳・二〇〇〇年十二月修繕』
私は、最初の一行を二度読んだ。
若林。
母の旧姓。
和佳。
母の名前。
「木崎さん」
智が私を呼んだ。
「分かってる」
声が思ったより速く出た。
花柄毛布の端には、『W・W』の刺繍がある。
メッセージドームに残った八通目にも、同じ頭文字がある。
私は管理室の鍵付き棚を見た。
朝顔の透かしが入った、まだ開けていない封筒。
忘れられない手紙を書いたのは、母なのかもしれなかった。




