第21話 毛布の避難路
監視端末の映像が戻ったとき、黎明館の閲覧室には白いものが散っていた。
雪ではない。
天井板だった。
東側の窓際から大型書架の手前まで、砕けた板と断熱材が落ちている。いつも瑚大が録音図書を聞いていた席にも、細い金属片が斜めに突き刺さっていた。
「録画を止めないでください」
尚久さんが警備員へ言った。
声は平らだった。手元では、赤い緊急ファイルの頁を一枚ずつ確認している。
「室内は無人。暖房、照明ともに停止済み。最終巡回は午前四時四十分。閉室判断は四時五十分。立入者なし」
智が時刻を復唱し、記録表へ書く。
「人的被害、なし」
最後の一行だけ、ペン先が紙の上で止まった。
多目的室には二十三人がいた。
毛布を肩まで引き上げた人。濡れた靴下を替えている人。保護者へ到着を知らせている人。麦茶の紙コップを両手で包んでいる人。
誰も、黎明館にはいなかった。
それは偶然ではなかった。
閉室規程を決め、連絡先を集め、赤い毛布を導線にし、役割を分けたからだった。
分かっているのに、私は画面の中の花柄毛布を探した。
いつもの椅子にも、カウンターにもない。
「花柄は昨日から管理室です」
尚久さんが私の視線に気づいた。
「年次繊維点検へ出すため、暴風雪の前日に移しました」
「そうでした」
自分で点検予定表を確認したのに、落ちた天井を見た瞬間、全部忘れていた。
午前六時二十三分、新校舎西側の外灯が一列消えた。
停電区画が広がったらしい。
風除室の向こうでは、フェンスへ結んだ赤い毛布が暗闇の中で揺れている。反射材を縫い付けた防災用だから、車のライトが当たるたびに細い銀色の線が浮かんだ。
全員はもう中にいる。
それでも、道貴さんと警備員は西門の閉鎖確認をしなければならない。保護者の迎えが来るまで、外へ出る可能性もある。
「赤い毛布の結び目が一つ外れています」
監視画面を見ていた私が言うと、道貴さんが防寒具の襟を上げた。
「私が直します」
「一人では出ないでください」
尚久さんが赤いファイルを指す。
警備員と二人で、風除室から外へ出る。腰には安全ロープ。無線を開いたまま、フェンス沿いを進む。
私は内側から、赤い毛布の位置を読み上げた。
「一本目、異常なし。二本目、下側が外れています。三本目は雪で半分隠れています」
道貴さんが二本目を結び直す。
警備員が三本目の雪を払う。
私たち生徒は外へ出ない。成人担当者の代わりにもならない。
けれど、内側から見えることを伝える役ならできる。
「全部見えました。戻ってください」
風に声を持っていかれそうになり、無線へ顔を近づけた。
二人が戻るまで、智は秒単位で記録を取っていた。
「そこまで必要?」
「停電時の屋外確認に何分かかったかは、次の手順に必要です」
「今は何分」
「二分四十七秒」
「相良先輩の時計は三分進んでいます」
瑚大が言った。
「経過時間には影響しません」
「では二分四十七秒です」
瑚大は納得し、利用者名簿を持ち直した。
「念のため、もう一度確認します」
彼は二十三人の名前を読み始めた。
今度は、漁港の競りで魚を並べるときの節が混じっていた。
「佐藤さん、いますか。金田さん、いますか。小松さん、凍っていませんか」
「最後だけ質問が違う」
「体調確認です」
「います」
「います」
「凍ってません」
一人ずつ返事が返る。
低い天井の多目的室に、二十三人の声が重なった。
最後の名前まで呼ばれたとき、誰かが拍手した。
笑いが広がった。
その直後、監視端末の録画が自動再生された。
午前六時十九分五十八秒。
誰もいない黎明館で、天井板が一枚落ちる。
二秒後、もう一枚。
瑚大が名簿を握ったまま黙った。
笑いの残りが、室内から消えた。
「もし、いつもどおり開けていたら」
誰かが言いかけた。
「今日は開けない手順でした」
明日香が答えた。
強い声ではなかった。
「仮定で誰かを責めない。決めた手順が働いた。それを記録します」
明日香は保護者連絡表へ戻った。
手が少し震えていた。
私は監視映像から目を離し、利用票の束をそろえた。
守れた。
同時に、なくした。
二つを一つの言葉にすると、どちらかが消える気がした。
午前七時十分を過ぎても、通常授業の開始は見合わせられた。鉄道も道路も止まり、生徒たちは多目的室と隣の教室で待機することになった。
県教育施設課、安全技術者、消防、学校管理職が画面越しに状況を確認した。
母は施設課の担当者として画面に入ったが、私と目が合っても何も言わなかった。
技術者は録画と過去の点検資料を見て、結論を出した。
『黎明館は即日立入禁止。現地確認は安全措置後、専門業者のみ。一般利用の再開は認められません』
一般利用の再開は認められない。
閉鎖日は三月三十一日ではなく、今日になった。
「毛布はどうなりますか」
私の隣で、一年生が聞いた。
建物ではなく、毛布のことを聞いた。
尚久さんは少し考え、青いファイルの空欄へ書いた。
「明日から、この多目的室を校長指定の代替室にします。午前五時四十分から七時十分。毛布、麦茶、入退室記録だけ。成人担当者が確保できる日に限ります」
「録音図書は」
瑚大が聞く。
「端末は黎明館内です。安全確認が終わるまで出せません」
「静かな席は」
「この部屋には仕切りがありません」
「相談用の衝立は」
「同じです」
多目的室には、机と椅子と暖房がある。
雨風は防げる。
最低限の受入は続けられる。
でも、理由を聞かれず一人で座れる壁際の席も、録音図書も、眠る人を隠す衝立もない。
居場所は、床面積だけでは作れなかった。
翌朝、暴風雪は弱まった。
西玄関前には、解いた赤い毛布が乾燥棚へ並んでいた。
多目的室の入口に、白い紙が貼られる。
『仮設早朝受入室』
瑚大が読んだ。
「名前が病院みたいです」
「仮の場所だから」
「朝焼けがありません」
東向きの窓はなく、蛍光灯の光だけが机へ落ちていた。
尚久さんは、毛布を二十三枚数えて棚へ入れた。
私は一番端の机へ、小さな札を置いた。
『静かに過ごす席』
仕切りはない。
声も聞こえる。
それでも、一つ残すと決めた言葉だけは置けた。
午前八時、大庭教頭が新しい通知を持ってきた。
「県と学校の協議結果です。黎明館は立入禁止を継続。解体開始は、二月十日へ前倒しします」
三週間後。
私たちは建物へ戻れないまま、別れの日を知らされた。




