第19話 妹が来た朝
一月十三日、午前五時三十八分。
新校舎西玄関の風除室に、小柄な女子中学生が立っていた。
紺色のコート。白いマフラー。両手で透明な書類袋を抱えている。
智と同じ形の目をしていた。
「相良ひよりです」
本人が先に名乗った。
「兄から個人情報を守られていました」
「必要のない段階では共有しないのが原則です」
智が答える。
「家では私の小学校の作文を、必要もないのに保管してるけど」
「成長記録です」
「『好きな食べ物は白米』しか書いてない作文を?」
「価値観の原点です」
ひよりは私を見た。
「こういう兄です」
「知っています」
初対面なのに、二人の間へ理解が成立した。
市立図書館を通した中学生の見学だった。保護者の同意も、在籍校の連絡先も、万一のときの対応も、智が確かめる前からきちんとそろっていた。
ひよりは黎明館へ入ると、最初に花柄毛布ではなく、西側の壁際にある一人用机を選んだ。
「ここ、外から見えにくい」
「窓から離れていますから」
私は毛布を一枚渡した。
「理由は聞きません。体調が悪くなったら、受付へ」
「兄が作った説明?」
「長かったから私が短くした」
「ありがとうございます」
ひよりは本気で頭を下げた。
智が利用票を差し出す。
「氏名、入室時刻、簡易体調、緊急連絡可否」
「会則第一条から説明しないの」
「見学者へ必要な事項だけです」
「成長したね」
「私は以前から必要事項を選べます」
「不登校だった私へ、生徒会規約を第一条から読んだ人が?」
黎明館の空気が一度止まった。
瑚大が録音端末を外す。
「規約で不登校が直ると思ったんですか」
「思っていません」
智の返事は速かった。
「ただ、選択肢を整理すれば」
「毎晩、整理された」
ひよりは毛布へ口元を埋めた。
「別室登校の規則、保健室利用の規則、フリースクールの資料。兄は全部読んでくれた。聞いてるだけで疲れて、戻るのが一週間ずつ遅れた」
瑚大が静かにうなずいた。
「長い説明には体力が要ります」
「海東くんまで」
「僕は音声を一・五倍速にできますが、人間はできません」
ひよりが笑った。
智も少しだけ笑ったが、腕時計へ触れた。
午前五時四十二分。
壁の時計は五時三十九分。
「どうして三分進めてるの」
私は聞いた。
初日に聞いたとき、智は遅れるより合理的だと言った。
ひよりは、兄の代わりに答えなかった。
自分の毛布を畳み直し、窓の外が青くなるまで待った。
「中学一年の冬、私も朝早く家を出ていました」
声は平らだった。
「父と母が仕事へ出る時間に合わせると、学校へ着くのが七時前。門が開くまで、外で待ってた」
私は、転校初日の西玄関を思い出した。
十月でも寒かった。
一月の朝に、あれを毎日続ける。
「誰かへ言わなかったの」
「言ったら、家の都合を説明しないといけないと思ってた。先生に見つかると、『熱心だね』って言われた。違うって言えなかった」
ひよりは、壁際の机を指でなぞった。
「ある朝、兄がここへ一緒に来るって言った。学校に早く着く高校生が使っている場所を見せるって」
智の手が、腕時計を覆う。
「待ち合わせに、兄は三分遅れた」
「三分だけです」
智が言った。
「三分だけ。私はその三分で帰った」
ひよりは兄を責める調子ではなかった。
「門の前に一人でいるところを、同級生に見られた。何してるのって聞かれた。答えられなくて、そのまま駅まで戻った」
翌日から、学校へ行けなくなった。
半年間。
智は、その朝から腕時計を三分進めた。
「遅れなければ、私が学校へ行けたと思ってる」
「少なくとも、あの日は」
「兄が三分早ければ、別の理由で行けなくなってたかもしれない」
「それは分からない」
「分からないことを、全部自分の責任にしないで」
ひよりは、書類袋から一枚の用紙を出した。
中学生見学枠の提案書だった。
窓口は市立図書館に置き、保護者と在籍校の同意を得る。朝の安全は校内の大人が引き受け、高校生は相談員のまねをしない。地域の相談先を知らせるのも、本人が望んだときだけにする。
「兄が書いたの?」
私が聞く。
「私です」
ひよりは答えた。
「兄の案は、私を助ける人が多すぎた。相談員、担任、養護教諭、図書館司書、地域支援員、生徒会。全員に囲まれたら、私はまた帰る」
「安全のために必要な連携です」
「連携はしていい。でも、全員が私の前に並ばなくていい」
智は提案書を受け取らなかった。
「私は関係者なので、採点から外れます」
「採点を頼んでない」
「意見は」
「聞いてない」
「誤字が一か所」
「それだけ教えて」
兄妹は、そこで初めて同じ側へ座った。
智は赤ペンではなく、鉛筆で一文字だけ直した。
私は口を挟まなかった。
助けることと、本人の紙を奪うことは違う。
ひよりは、自分で市立図書館の担当者へ提案書を渡した。
見学枠を作るかどうかは、これから学校と市立図書館が検討する。
今日一日で制度ができたわけではない。
それでも、智が妹の代わりに書かなかったことは、たぶん一つの決定だった。
閉室時刻になり、ひよりは毛布を返した。
「兄」
「何」
「時計、戻さないの」
智は三分進んだ針を見た。
「今は、これで間に合っているから」
「じゃあ、罪悪感じゃなくて道具として使って」
「努力します」
「努力ではなく設定変更だけど」
ひよりは笑った。
西玄関まで見送る途中、智が私へ言った。
「木崎さん。今日は、説明が長かったですか」
「あなたにしては短い」
「比較対象が私なのは不公平です」
「ひよりさんの基準でも長いと思う」
前を歩いていたひよりが振り返った。
「長いです」
二対一になった。
智は議事録へ異議を残すと言った。
その日の午後、気象台から一週間先の予報が届いた。
急速に発達する低気圧。
雪白県沿岸部では、暴風雪となるおそれ。
学校の安全連絡網へ、警戒情報が登録された。
智の腕時計は三分進んだままだった。
けれど、もう過去へ遅れないためだけの時計には見えなかった。




