第17話 司書がいない春
実証運用開始を翌日に控えた十一月三十日の朝、黎明館のカウンターには、毛布より先にファイルが積まれていた。
青、黄、緑、赤。
背表紙には、それぞれ『開室』『閉室』『緊急』『引継ぎ』と書かれている。
「色で分けたんですね」
私は花柄毛布を膝へかけながら言った。
「暗い時間でも取り違えにくいようにしました」
尚久さんは、青いファイルへ午前五時三十分からの手順を差し込んだ。
「まず警備員と鍵を確かめます。それから室温と天井、非常口、暖房器具を見て、最後に利用票と麦茶と毛布をそろえる。どこか一つでもおかしければ、その朝は開けません」
「一冊で済みませんか」
智が聞いた。
「一冊にすると、緊急時に目次から探すことになります」
「検索性の問題ですね」
「相良くんは、停電中でも目次を読むつもりですか」
智は黙って赤いファイルを手前へ寄せた。
十二月一日から三月三十一日までの実証運用。
昨日まで、その終わりはただの期限だった。尚久さんの契約も同じ日に終わると知ってから、日付の見え方が変わった。
黎明館が残ったとしても、尚久さんはいない。
その事実を口にすると、本当にいなくなる気がして、私は朝から一度も言えずにいた。
「斎木さん」
「はい」
「四月から、誰が麦茶を作るんですか」
最初に出たのがそれだった。
もっと別れらしい質問があるはずなのに、口から出たのは麦茶だった。
「良い質問です」
尚久さんは笑わなかった。
「麦茶は誰でも作れます。ただし、誰が作るか決まっていない麦茶は、たいてい誰か一人が作り続けます」
緑のファイルを開く。
頁をめくると、仕事ごとに担当者と代わりの人、そして中止する条件が書かれていた。鍵を開け、室内の安全を確かめ、具合の悪い人を養護教諭へつなぐところまでは、必ず校内の大人が担う。録音図書の扱いなら市立図書館へ画面越しに相談できるが、転んだ人へ手を伸ばす役まで遠くの司書へ預けることはできない。
「市立図書館の人が朝から来るんですか」
瑚大が録音端末を止めた。
「毎日は来ません。機器の相談や選書は遠隔で支援してもらえます。転んだ人を起こすのは、画面の向こうの司書にはできません」
「音声で『立ってください』とは言えます」
「それで立てない人を助ける話です」
「なるほど。人間には手があります」
「海東くんにもあります」
瑚大は両手を見た。初めて支給されたような顔をしていた。
智は業務一覧を上から下まで読み、すぐに質問を始めた。
「欠勤連絡の最終時刻は。警備員が先に体調不良になった場合は。管理職へつながらない場合は。暖房だけ故障した場合の閉室基準は」
「順番に書きます」
「質問は三十二件あります」
「順番に減らしてください」
明日香が入ってきた。
手には実証運用の腕章が四本ある。窓辺に鳥がいないことを確認してから、腕章を机へ置いた。
「生徒ができるのは、毛布の返却確認、人数集計、録音図書の案内、机の整頓。鍵、暖房、安全点検、緊急連絡は成人担当者です」
「分かっています」
智が答える。
「分かっている人ほど、忙しいと越境します」
明日香は智の前から赤いファイルを取り上げ、尚久さんの側へ戻した。
「これは大人の仕事。あなたは議事録」
「議事録も大人になれば書けます」
「今は生徒でしょ」
短いやり取りだった。
けれど、明日香が止めたのは智の作業ではなく、智が全部を持とうとする癖だった。
私は、緑のファイルの空欄へ目を戻した。
「残してほしい知識って、何ですか」
尚久さんがペンを止める。
「全部です、では困ります」
「そうですね」
「毛布を何枚出すか。麦茶を何時に作るか。録音図書が止まったら誰へ聞くか。眠っている人を何時に起こすか。話したくない人へ何を聞かないか。斎木さんが今、頭の中で決めていることを教えてください」
別れを止めることはできない。
なら、いなくなる人の手をつかんで、ここに縛るのではなく、その手がしてきたことを受け取る。
尚久さんは、少しだけ目を細めた。
「木崎さん。今の質問を、引継ぎファイルの最初に入れてもいいですか」
「私の名前は入れないでください」
「理由は」
「支える人を英雄にしないためです」
自分で言ってから、透明なメッセージドームを見た。
カウンター奥の鍵付き棚に置かれた、液体のないスノードーム。中には、まだ開けていない封筒が六通ある。
最初の手紙には、寒い理由を言えない人から先に温めること。
二通目には、東窓へあすなろの影が届く朝。
実証運用が始まった今日、尚久さんは三通目以降も読む時期だと言った。
「誰が開けますか」
瑚大が聞く。
「封筒には『次の毛布係は開封可』とあります」
尚久さんが答える。
「今の毛布係は四人です」
「会長もいます」
明日香が言った。
「会長は毛布係ですか」
「安全表を直した時点で、かなり毛布係です」
「では五人です」
瑚大は多数決の準備を始めたが、誰も反対しなかった。
三通目を、私が開いた。
『鍵は未来へ渡す人が持つ。』
短い一文だった。
道貴さんが、作業手袋の上から胸ポケットへ触れた。そこには、二十六年前の司書から渡された真鍮の小鍵がある。
「私は、未来へ渡す人なんでしょうか」
「渡すまでは」
尚久さんが言った。
「誰に渡すかは、鍵が決めるんじゃありません」
道貴さんはうなずいたが、鍵が何を開けるのかは、やはり知らなかった。
四通目を智が読む。
『数えるのは人数と物。事情ではない。』
五通目を明日香が読む。
『壊れたら、人より先に仕組みを直す。』
六通目を瑚大が読む。
『声を出せない人のため、静かな席を一つ残す。』
瑚大は、いつもの競り口調にしなかった。
七通目を尚久さんが読む。
『支える人を英雄にして、一人へ背負わせない。』
開けた手紙は、一枚ずつ透明袋へ入れた。
智は四つの文を、そのまま写さなかった。
人数と物だけを数え、事情までは記録しない。事故が起きたときは、誰かを責める前に手順を直す。静かに過ごせる席を必ず一つ残し、朝を開ける大人は一人に背負わせない。
昔の短い言葉を、今ここで動く約束へ訳していった。
「手紙を書いた人、制度設計が好きだったんですね」
智が言った。
「相良くんほどではありません」
私は答えた。
「なぜ比較対象が私なんですか」
「手紙の人は一通が一行で終わってるから」
瑚大が納得した顔でうなずいた。
「相良先輩なら、封筒に入らないですね」
「折れば入ります」
「先輩をですか」
「文章をです」
笑いが起きたところで、尚久さんが緑のファイルを持ち上げた。
「では、今日はここまでにします」
「まだ書棚整理が残っています」
智が言う。
「このファイルを入れる場所を作りましょう」
尚久さんは、カウンター脇の小さな書棚へ分厚いファイルを立てた。
棚板が、乾いた音を立てた。
一秒遅れて、片側が外れた。
青、黄、緑、赤のファイルが、きれいに斜めへ滑り落ちる。
尚久さんは無言で全部を受け止めた。
「引継ぎが重すぎます」
私は言った。
「物理的にも確認できました」
尚久さんは壊れた棚板を測り、台帳へ書き込んだ。
『引継ぎ用書棚修繕費』
その文字を見て、私は笑った。
笑いながら、春の空欄を見た。
司書がいない春をなくすことはできない。
でも、司書がいなくなった瞬間に、ここでしてきたことまで消える春にはしない。
八通目の封筒だけが、メッセージドームに残っていた。
朝顔の透かしが入った便箋。
末尾には、まだ見ていない「W・W」の文字があるはずだった。
その手紙を開く前に、瑚大のスマートフォンが鳴った。
「父からです」
画面を見た瑚大が、嬉しそうに顔を上げる。
「明日の朝、魚を二十三人分持っていっていいか、だそうです」
尚久さんが、壊れた棚板より深刻な顔をした。




