第15話 会長の毛布
明日香は、反省中のパンダを裏返した。
「こちら側の方が、首に当たる布が厚いです」
言ってから、動きが止まった。
私はパンダ毛布を見た。
表には、片耳が折れ、両目が少し下がった顔がある。反省しているように見えるので、瑚大が勝手に名前を付けた。
裏側には何度も補修した跡があり、たしかに首元だけ布が二重になっている。
「詳しいね」
「備品状態を確認しただけです」
「触る前から裏返した」
「観察力です」
「鳥には使えない観察力?」
「鳥の話は今していません」
明日香は毛布を棚へ戻そうとした。
尚久さんが、貸出台帳を閉じる。
「鳥羽さん。話すかどうかは、あなたが決めてください」
明日香の手が止まった。
朝の利用者は、まだ数人残っていた。彼女は室内を見渡し、書架の間の小さな机を指した。
「閉室後にします」
七時十分、最後の利用者が教室へ向かった。
明日香はパンダ毛布を抱え、窓から離れた席へ座った。私と智、尚久さんだけが残る。瑚大は「秘密の話なら聞きません」と言いながら、扉の外で靴紐を三分結び直していた。
「一年生の冬、私はこれを使っていました」
明日香は毛布の折れた耳を指でなぞった。
「ほぼ毎朝です」
智が息を止めたのが分かった。
「知らなかった」
「あなたがここを使い始める前です」
「どうして」
聞いた後、智はすぐ言い直した。
「話したくなければ、答えなくていい」
「その言葉をここで覚えました」
明日香は、東窓ではなく机の木目を見ていた。
「家で、怒鳴り声が続く時期がありました。誰が何を言ったかは話しません。朝になるまで待つより、始発前の家を出て、歩いて学校へ来る方が楽でした」
朝凪駅からではなく、家から歩いていたのだろう。
「黎明館で、七時まで眠りました。理由は聞かれませんでした。起こされたこともありません。パンダだけ渡されました」
「なぜパンダだったんですか」
扉の外から瑚大の声がした。
明日香がそちらを見る。
「聞かないと言ったのでは」
「毛布の選定理由だけです」
「入ってきていい」
瑚大は扉を開けた。
尚久さんが答える。
「当時の司書が、鳥羽さんの顔に似ていると言いました」
「どの部分が」
「反省しているところです」
「私は反省していませんでした」
「毛布が代わりにしてくれたのかもしれません」
明日香は一度だけ笑った。
すぐに、毛布を膝へ置く。
「私はこの場所に助けられました」
その言葉を、彼女は誇らしさではなく、重さとして出した。
「だから、事故で誰かがけがをする場所にはしたくありません。助けられた私が賛成すれば、必要性の証明にはなるでしょう。でも、過去を出して安全確認を省くことはできない」
「誰も省こうとしてない」
私は言った。
「最初は、省こうとしました」
明日香は智を見た。
「会長を通さず始めた。責任者の代替も、避難確認もなかった」
智は黙ってうなずく。
「私が反対したのは、恩を忘れたからではありません。恩があるから、同じように困っている人を、善意だけの場所へ預けたくなかった」
私は、無記名箱へ入れた自分の票を思い出した。
必要だと言えば、反対する資格を失うわけではない。
助けられた人が、その場所を無条件に守る義務もない。
「会長の過去を、公開討論で使う?」
私は聞いた。
「今は使いません」
明日香は答えた。
「私が話したことで、議論が感動へ逃げるのは困ります。必要性も費用も安全も、私一人の話がなくても成立させてください」
「分かった」
「ただし、必要になったときは、私自身が決めます」
尚久さんが、パンダ毛布の貸出欄へ日付を書いた。
「今日は借りますか」
「会議中の保温用です」
「理由は不要です」
「知っています」
明日香は毛布を肩まで引き上げた。
東窓の外へ、小さな影が降りた。
鳩だった。
明日香の目が見開かれる。
「窓は閉まってる」
私が言うより早く、彼女はパンダを頭までかぶった。
「鳥羽会長が消えました」
瑚大が言う。
「会長職は毛布の中から継続します」
くぐもった声が返ってきた。
鳩は窓枠を二歩歩き、ガラスをくちばしで一度たたいた。
毛布の中から、低い悲鳴がした。
さっきまでの感動が、鳩の一撃で全部パンダに吸い込まれた。
智が段ボールを立て、窓を隠す。
「退去しました」
「本当に?」
「視界からは」
「存在も確認してください」
「それは難しいです」
明日香は毛布から目だけ出した。
「安全確認に鳥類の存在確認を追加します」
「全校の鳥を数えるの?」
「瑚大くんが交渉します」
「僕は会長不在を伝える係です」
笑いながらも、誰も明日香の話を軽く扱わなかった。
放課後、生徒会室で臨時総会の動議案を確認した。
智の文案は、『早朝利用終了へ異議なしとした執行部回答の再審議を求める』となっていた。
明日香は読んで、首を振る。
「弱いです」
「どこが」
「再審議のお願いに見えます。執行部はすでに、利用者への聞き取りをせず回答を出しました。手続きの誤りを記録へ残すなら、不信任動議にしてください」
智が眼鏡を直す。
「会長個人への不信任と受け取られます」
「対象を明記すればいい。私ではなく、執行部回答です」
「会長が、自分の執行部へ不信任を求めるんですか」
「私は議長です。提出はできません」
明日香は智へ紙を返した。
「あなたが出してください」
「本当に?」
「正式に止められるなら、正式に止めて」
その声には、挑発より安堵があった。
「私一人が判断を変えたことにすれば、次の会長も、反対意見を隠して決められます。総会で、何を間違え、何を続けたいのか残してください」
智は文案の表題を消した。
新しく書く。
『生徒会執行部回答に対する不信任動議』
瑚大が横から読んだ。
「合法的なクーデターですね」
「クーデターではありません」
智と明日香が同時に答えた。
私は二人の顔を見た。
同じ言葉を、初めて同じ方向へ向けていた。
十一月二十七日の臨時生徒総会まで、あと三日だった。




