第14話 秘密を守る名簿
教頭が最初に持ってきた利用者登録票は、紙面のほとんどが記入欄だった。氏名や学年だけではない。住所、家族の連絡先、通学方法、利用理由、既往歴、服薬まで、十四項目が隙間なく並んでいる。
瑚大は上から順に読み、途中で顔を上げた。
「これを書き終わるころには、一時間目が始まります」
「大げさです」
教頭は言った。
「丁寧に書けば二十分です」
「書き終わるころには、毛布で温まる時間がかなり減ります」
「さっきより説明が正確です」
智が訂正した。
「でも、長いです」
私は登録票を机の中央へ戻した。
放課後の生徒会室には、教頭、養護教諭、尚久さん、明日香、智、瑚大、私が集まっている。
「事故が起きたとき、誰が館内にいたか分からないのは困ります」
教頭は十四個の欄を指で押さえた。
「持病や服薬も、救急搬送では重要です」
「重要でも、全員分を生徒会と図書室が持つ必要はありません」
私が言うと、教頭の眉が寄った。
「では、どうやって安全を守るんですか」
「目的を分けます」
私は白紙を三枚出した。
一枚目には毎日の入退室だけを記録する。二枚目は緊急連絡と、避難や急病の際に必要な支援。相談内容は三枚目に分け、本人が望んだときだけ養護教諭へ渡す。
「一枚目は、氏名、入室時刻、退室時刻だけ。今、誰がいるか確認するためです」
「体調確認は」
「『問題なし』『休養が必要』『職員へ相談したい』の三つから本人が選ぶ。理由は書かない」
養護教諭がうなずいた。
「それなら、声をかける目安になります」
「二枚目は、緊急連絡先と、避難や急病時に必要な支援だけ。鍵付きで保管して、大人の責任者だけが見ます。生徒会は見ない」
智がすぐに手を挙げた。
「集計上、必要支援の人数は把握したいです」
「人数だけ。内容と名前を結びつけない」
「分かりました」
「三枚目の相談内容は、本人が希望した場合だけ養護教諭へ。黎明館にも生徒会室にも置かない」
教頭は三枚の紙を見比べた。
「利用理由は」
「集めません」
「家庭へ連絡すべき事情が隠れている可能性もあります」
「だから、相談したい人が養護教諭へつながれるようにする。でも、毛布を借りるために家庭の事情を提出させない」
声が少し強くなった。
私は、自分が何を守ろうとしているのか分かっていた。
母と二人きりの部屋が嫌いなわけではない。
母が嫌いなわけでもない。
ただ、会話がなくなった部屋へいると、互いに気を遣う音だけが大きくなる朝がある。
それを利用理由の欄へ書かなければ入れないなら、私は書かずに外で待つ。
「記録の保存期間も決めましょう」
尚久さんが言った。
「日々の出入りの記録は学期ごとに確認し、事故報告がなければ所定期間後に廃棄。緊急連絡票は試行運用終了時に返却か裁断。閲覧者と閲覧日時も記録します」
「名簿を守る名簿が要りますね」
瑚大が言った。
「閲覧記録です」
「名簿の親戚です」
「近いですが違います」
智が真面目に答えた。
瑚大は表紙用の紙へ、大きく『秘密を守る名簿』と書いた。
「それはやめよう」
私は止めた。
「なぜですか。目的が分かります」
「秘密がここにあります、と宣伝してる」
瑚大は周囲を見回し、紙を裏返した。
「では無地にします」
「急に隠し方が上手くなった」
明日香が、三枚の案を自分の前へ引き寄せた。
「知られない権利も、安全の一部です」
赤いペンで、閲覧できる役職と保管場所を書き込む。
「ただし、入室時に名前を書かない運用は認められません。避難確認ができないからです。呼ばれたくない名前がある場合は、学校へ登録している氏名と、館内で呼んでほしい名前を分けて扱います」
養護教諭が補足した。
「相談内容から緊急性が高いと判断した場合は、本人へ説明したうえで必要な支援先につなぎます。秘密を約束しすぎるのも危険です」
守るための記録。
記録しないことで守ること。
どちらか一方では足りない。
修正版は十四項目から六項目まで減った。入退室の記録を除けば、一分もかからず書ける量だった。
教頭は最後まで渋い顔をしていたが、試行用の用紙へ自分の名前を書いた。
「大庭、入室。体調、問題なし」
「緊急連絡先は」
瑚大が聞く。
「校長です」
「教頭先生に何かあったら校長先生を呼ぶんですね」
「通常の指揮系統です」
「校長先生に何かあったら」
「今はそこまで試さなくていい」
明日香が止めた。
翌朝、黎明館で試行を始めた。
利用者は入口で名前と時刻を書き、体調欄へ丸をつける。緊急連絡票は封筒へ入れ、尚久さんが鍵付きの引き出しへしまった。
理由を書かない用紙は、驚くほど静かだった。
誰の家が遠いか。
誰が朝食を食べていないか。
誰が家を早く出たいか。
紙の上には現れない。
それでも、二十三人がここにいることは残る。
公開討論で使う意見を集めるため、無記名箱も置いた。
『残してほしい機能』
『心配なこと』
『言える範囲で、朝の居場所が必要な理由』
最後の欄は空白でもよい、と一番上に書いた。
私は利用者が教室へ移動した後、一枚だけ票を入れた。
書くつもりはなかった。
でも、数字は必要を選ぶための言葉だと知った後、自分だけを数字の外へ置くのは違うと思った。
『母と二人きりの部屋を、夜明け前に出たい日がある。母が嫌いだからではない。うまく話せない自分を、朝まで見せたくない。』
書いてから、二行目を消そうとした。
消し跡の方が目立ったので、そのまま折った。
放課後、智と二人で無記名箱を開けた。
毛布を増やしてほしい。
麦茶を続けてほしい。
録音図書が必要。
静かな席と、少し話せる席を分けてほしい。
理由欄は、多くが空白だった。
空白のままでも、一票として数える。
智が一枚を開き、手を止めた。
私の票だった。
転校してから何度も議事録を一緒に書いた。筆跡を知らないはずがない。
智は顔を上げなかった。
紙を読み終えると、他の票と同じ向きにそろえ、番号を付けた。
「これは、理由を公表しますか」
「本人が許可した票だけ」
「では、公開用には要点を匿名化します」
それだけだった。
誰の字か聞かなかった。
慰める顔もしなかった。
私が書いたことを、特別な秘密にも、簡単な告白にも変えなかった。
集計を終えた後、智は箱のふたを閉めた。
「木崎さん」
「何」
「反対意見も、空白も、全部同じ大きさで数えます」
「そうして」
「はい」
帰るために立つと、ノートから細い紙片が落ちた。
誤植ポスターの「君」だった。
智が拾うより先に、私は足で押さえた。
「何か落ちました」
「紙くず」
「処分しますか」
「しない」
答えが早すぎた。
智は一秒だけ私を見て、視線を外した。
「分かりました。紙くずではないんですね」
「そこまで言ってない」
顔が熱くなる。
秘密を守る名簿は作れた。
けれど自分の秘密を守る方法は、まだどの用紙にも書いていなかった。
翌朝、明日香が黎明館へ来た。
毛布棚の前で、迷わず反省中のパンダへ手を伸ばした。




