第13話 数字は冷たくない
百七十八万円を説明する資料は、机の上で一・六センチの厚みになった。智が定規を当てたので間違いない。
「金額と厚さに相関はありません」
「分かってる。でも百七十八万円を目で見たい」
「それなら通帳を見た方が正確です」
「学校の通帳を生徒に見せないでしょ」
「ですから資料にしました」
尚久さんは表紙を開いた。
公開説明会は、放課後の視聴覚室で行われた。前列に生徒会執行部、後ろに教職員と早朝利用者、壁際に新聞部。結衣は『反乱軍、会計監査へ』という見出し候補を手帳へ書き、私に見つかると二本線で消した。
大型画面に、年間運用費の内訳が映る。
画面には、暖房と照明、麦茶や紙コップ、毛布の洗濯、録音図書用端末の保守費が順に映った。尚久さんの勤務開始を午前五時三十分へ繰り上げるための人件費調整と、消耗品や予備費まで合わせて、年間百七十八万円になる。
「これは黎明館を今のまま一年使う場合ですか」
明日香が確認した。
「いいえ」
尚久さんは首を振った。
「建物の耐震補強費とは別です。ここにあるのは、早朝の居場所と支援機能を一年運用するための費用です」
次の画面に、一億二千万円という数字が出た。
室内の空気が一段重くなった。
「黎明館全体を現行基準に近づけ、劣化した天井材と配管を更新し、今後も一般利用する場合の概算です」
教頭が言った。
「詳細調査で増減しますが、少額の修繕で済む規模ではありません」
百七十八万円を大きいと思った直後に、一億二千万円を見せられると、前者が急に小さく見える。
でも、小さく見えるだけで、勝手に用意されるわけではない。
「毛布の洗濯費が、この数字なのはなぜですか」
瑚大が画面を指した。
尚久さんは待っていたように別紙を出した。
「使用回数と冬の洗濯頻度、集荷費、素材ごとの料金から出しました。一枚あたり、年間でおよそ千四百八十六円です」
「およそ、というところが大事ですね」
「平均ですから」
「一枚の毛布を少しだけ洗う日はないのに、計算の中では端数が出る」
「そうなります」
瑚大は深くうなずいた。
「計算の中にだけある透明な毛布ですね」
「存在しません」
視聴覚室に笑いが広がった。
尚久さんは無表情のまま、毛布の枚数を一枚減らした場合、一枚増やした場合の差額まで説明した。細かすぎると思ったが、誰かがいなくなった後にも同じ計算をできるようにするには、必要なのだろう。
質疑へ移ると、後ろの席で一人の先生が手を挙げた。
瑚大の実演会にも来ていた国語科の橋本先生だった。
「先に、謝らせてください」
橋本先生は立ち上がった。
「校内ページへ、『教員に早朝担当を押しつけるのではないか』と匿名で書いたのは私です」
数人が振り向く。
橋本先生は、逃げずに続けた。
「昨年度、欠員が出た時期に、朝課外と放課後補習が同じ教員へ重なりました。早朝の支援が必要だという話を見て、また善意の名で担当が増えるのではないかと思いました。利用している生徒を責める書き方になったことは、申し訳ありません」
瑚大が膝の上で手を組んだ。
「僕の動画へ付いた言葉ですけど、先生が困っていたことも分かりました」
「ありがとう。ただ、分かってもらう前に、私は書き方を選ぶべきでした」
智が立つ。
副会長兼書記という長い役職名を、彼はこういうときだけ短く言った。
「実証期間中、一般の先生へ持ち回りを頼むつもりはありません。斎木さんの勤務時間を正式に組み替え、学校が決めた大人の責任者がいない朝は開けません」
「資料を確認しました」
橋本先生はうなずいた。
「匿名投稿は撤回します。ただ、責任者が一人へ集中しない仕組みは、正式な運用までに必要だと思います」
「その意見は議事録へ残します」
智はすぐ答えた。
反対を消すのではなく、先へ送る。
前なら、私は数字や規則を、人を遠ざける壁だと思っていた。
けれど壁に見えたものには、過去に誰かが押しつけられた仕事や、言えなかった不安の形が残っていることもある。
視聴覚室の扉が開いた。
母が、県教育施設課の名札を下げて入ってきた。
一瞬、家の玄関と同じ空気が流れ込んだ気がした。
私は背筋を伸ばす。
母は私を見たが、母親の顔はせず、教頭へ一礼した。
「木崎和佳です。黎明館解体の技術資料作成を担当しています。娘が継続案の作成に参加しているため、私は審査、採点、予算決定から外れています。本日は公開済みの図面と制度だけを説明します」
画面に、新校舎一階の平面図が映った。
端に、現在は倉庫として使われている旧食堂区画がある。西玄関から近く、保健室へも廊下一本でつながっていた。
「黎明館を補強して使い続ける以外にも、機能を移す方法があります」
母は図面の区画を指した。
「旧食堂は給排水管の一部が残り、外部から直接入れる扉があります。改修費は別途算定が必要ですが、県の居場所支援枠、市立図書館の学校連携制度、更新予定の災害備蓄品の転用について、事前相談は可能です」
「使えると決まっているんですか」
私は聞いた。
「決まっていません」
母は即答した。
「申請条件を満たし、学校側が運用責任を示し、県の審査を通る必要があります。私は通るとは言えません」
冷たい答えだった。
でも、以前とは違って聞こえた。
できない理由を並べているのではない。
できると嘘をつかず、次に確かめる扉を示している。
「旧食堂を使う場合、百七十八万円はどうなりますか」
明日香が聞いた。
「暖房面積、洗濯方法、端末の調達、勤務体制で変わります。初期改修費と年間運用費は、必ず分けて考えてください」
母の目が、ほんの一度だけ私へ向いた。
家では、食費も電気代も、私に心配させないよう見せなかった人だ。
ここでは数字を隠さない。
私は資料の余白へ書いた。
『数字は、やめるための言葉ではない。続け方を選ぶための言葉。』
智が横からのぞく。
「見出しに使えます」
「印刷機へ入れる前に、三人で校正して」
「四人にします」
「増やせば誤植が消えるとは限らない」
結衣が後ろから言った。
「『数字は冷たくない』。次号の見出しにします」
「話を聞いてた?」
「本文で温めます」
説明会が終わった後、教頭が資料を閉じた。
「費用の次は、事故時の連絡です。利用者の名簿がなければ、避難後の確認も保護者への連絡もできません」
瑚大が私へ小声で聞いた。
「理由を書かなくていい場所なのに、秘密を全部書く名簿を作るんですか」
私は、母が映した旧食堂の図面を見た。
続けるには、記録がいる。
でも記録は、人の事情を集める免許ではない。
「全部は書かない」
私は答えた。
「守るために必要な分だけにする」




