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優しい鳥籠は、鍵をかけない  作者: 雨音 優


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第9話 眠れる場所

 玄関の扉が開く音を聞いた瞬間、玲音はソファから立ち上がった。

「透真!」

 廊下へ駆けていく。

 紙袋を手にした透真の姿を見つけると、玲音は嬉しそうにその胸へ抱きついた。

「わぁ、おかえりなさい」

 透真は一瞬だけ目を見開いた。

 けれど、すぐに紙袋を持っていない方の腕を玲音の背中へ回し、逃がさないように抱きしめ返す。

「ただいま、玲音」

 カフェでヒカリへ向けていた冷たい顔は、もうどこにも残っていなかった。

 玲音を見つめる瞳は柔らかい。

 屋敷へ戻り、彼女の温もりに触れたことで、ようやく呼吸を取り戻したようにも見えた。

「ヒカリとはどうだった?」

 玲音は抱きついたまま顔を上げる。

「仲良くなれた?」

「ヒカリさんと仲良くなれましたよ。……たぶん」

 透真は玲音を離さないまま、耳元で囁いた。

 完全な嘘ではなかった。

 以前よりも互いの考えを知った。

 直接言葉を交わせる関係にもなった。

 ただし、その先にあるのが和解ではなく、明確な敵意であることを玲音へ伝えるつもりはなかった。

「ほんと? 嬉しいな」

 玲音の顔が明るくなる。

「じゃあ今度、ヒカリやお父さんたちも呼んで、ここでみんなで食事するのもいいかもしれないわね」

 透真の笑顔が、一瞬だけ固まった。

 家族を屋敷へ招く。

 屋敷の内部へ、複数の外部の目を入れるということだ。

 玲音と二人きりでいる時よりも、行動には制約が生まれる。ヒカリが再び何かを探ろうとする可能性もある。

 けれど、期待に満ちた玲音の顔を見てしまえば、拒むことはできなかった。

「いいですね」

 透真はすぐに柔らかな表情を取り戻す。

「今度、皆さんに声をかけてみましょう」

「うん」

 玲音は無邪気に頷いた。

 けれど、その約束が果たされるより先に、屋敷を巡る状況は大きく動くことになる。

「それより、お土産なあに?」

「気になります?」

 透真はようやく玲音から少し身体を離し、紙袋を持ち上げた。

「じゃん。ケーキです」

「ケーキ!」

 玲音は目を輝かせる。

 箱の中には、苺のタルトとピスタチオのムースが二つずつ並んでいた。

 有名なパティスリーの限定品らしく、一つ一つが小さな宝石のように飾られている。

「とりあえず、これは二人で先に食べちゃいません?」

 透真は少し悪戯っぽく笑った。

「ふふっ。うんうん」

 玲音は箱を受け取り、いそいそとキッチンへ向かった。

「今、お皿に取り分けるわね。コーヒーも淹れるから待ってて」

 窓の外には、まだ夕方の淡い光が残っていた。

 ◇

「お待たせしました」

 玲音がケーキを載せた皿とコーヒーをテーブルへ運んでくる。

 透真はそれを眺めながら、満足そうに目を細めた。

「いただきます」

 フォークを手に取り、苺のタルトを一口食べる。

「……玲音が淹れたコーヒーと一緒だと、格別ですね」

 目を閉じ、しばらく黙って味わっている。

 美味しいものを口にした時の癖なのだろう。外ではほとんど隙を見せない透真が、玲音の前では時折、妙に素直な顔をした。

 玲音も隣でケーキを口へ運ぶ。

 甘酸っぱい苺の香りが広がった。

「美味しい」

「よかった」

 穏やかな時間だった。

 けれど透真の思考の片隅には、ヒカリの言葉が残っていた。

 姉を元に戻す。

 証拠をつかむ。

 ヒカリが一人だけで動き続けるとは限らない。

 家族以外にも、以前の玲音を知る人間がいるかもしれない。

 透真はコーヒーカップを置き、何気ない調子で尋ねた。

「そういえば、玲音は大学の頃、どんな人と仲がよかったんですか?」

「大学の頃?」

 玲音はフォークを口元で止める。

 すぐには思い出せないように、少し宙を見た。

「仲のよかった友達がいたわ」

「今も連絡を取っているんですか?」

「最近は、あまり取ってないかも」

「どんな人だったんです?」

 質問はさりげない。

 ただ昔の玲音を知りたいだけの恋人のように聞こえた。

「普段はみんなと仲良くできる、フレンドリーな子だったよ」

 玲音は記憶を手繰り寄せる。

「でも、いざとなったら、はっきり言うような感じの子だったかな」

「はっきり言う」

 透真のフォークが、一瞬だけ止まった。

「うん。人見知りとかじゃなくてね。ちょっとヒカリと似てるかも」

 玲音はケーキを食べながら、どこか懐かしそうに笑う。

 透真は皿の上のムースを、フォークの先で静かに崩した。

 社交的。

 玲音の昔を知っている。

 必要な時には、強く意見を言う。

 そしてヒカリに似ている。

 特定の一人だけではない。

 玲音の過去を知る交友関係そのものが、外へ残された糸になり得る。

 けれど最近連絡を取っていないのであれば、今の生活へ入り込んでくる可能性は低い。

「連絡先が変わったとか?」

「どうだろう」

 玲音は少し寂しそうに首を傾げた。

「なんだろう。透真とお話しするようになって、安心するからかな。あんまり友達に連絡しなくなったのかも」

 透真の表情が、ふっと緩んだ。

「僕だけで十分ですか」

 ぽつりと落ちた言葉には、隠しきれない喜びが滲んでいた。

 玲音と外の世界をつなぐ糸が、一つずつ減っていく。

 友人との連絡が途絶え、自分だけが彼女の話を聞き、自分だけが彼女を安心させる。

 その事実は、透真にとって何よりの安堵だった。

 けれど玲音の世界が狡くなるほど安心するのに、その安心さえ、いつか失う気がしてならなかった。

 玲音は少し考える。

「やっぱり好きだからかなぁ」

「やっぱり?」

 透真はフォークをことりと置いた。

「うん。透真といると、とても安心して、何でも話せるの。なんでだろうね?」

 好きになったから安心するのではない。

 好きだと認識するより先に、透真のそばを安全だと感じるようになっていた。

 玲音が無意識に口にした言葉の意味を、透真は正確に理解していた。

 共鳴コードが深く根を張っている。

 けれど、それをわざわざ指摘するほど愚かではない。

「光栄です」

 透真はテーブル越しに玲音の手を取った。

「僕も、何でも話せるのは玲音だけですよ」

 半分だけ本当だった。

 心を許している相手がいるとすれば、確かに玲音しかいない。

 けれど、「何でも話せる」という部分は嘘だった。

 玲音へすら、話せないことはいくつもある。

 共鳴コード。

 ヒカリとの対決。

 組織との関係。

 裏側で動かしているもの。

 玲音は透真へ顔を寄せ、悪戯っぽく笑った。

「ほんとに?」

「本当ですよ」

「じゃあ、何か透真の秘密を話してみて」

 透真の目が、ほんの一瞬だけ止まる。

 玲音は、自分の家族も過去も、暮らしも感情も、ほとんどすべて透真へ渡している。

 けれど透真が玲音へ見せているものは、自分が選んだ部分だけだった。

「じゃあ、一つだけ」

 透真は困ったような顔を作り、視線を逸らす。

 何を渡すべきか。

 玲音を不安にさせず、それでいて嘘ではないもの。

 選んだのは、核心から最も遠い本当のことだった。

「……玲音のことを考えすぎて、仕事が手につかない日がある」

 フォークの先で、皿の縁をなぞる。

「これで許してくれます?」

 秘密というには可愛すぎる。

 けれど事実だった。

 玲音が笑えば、その顔を思い出す。

 玲音が眠っていれば、目覚めるまでそばにいたくなる。

 仕事をしていても、彼女が自分の知らない場所へ行ってしまうのではないかという不安が、意識の底から離れなかった。

「ふふっ」

 玲音は嬉しそうに笑い、透真の頬へ口づけた。

「透真、大好き」

 透真の耳が一気に赤くなる。

「私も、透真を愛してるわ」

「……ずるいな、そういうの」

 透真は口づけられた頬を押さえた。

 照れているのは演技ではなかった。

 玲音からの「愛している」は、透真が最も欲しがっているものだった。

 言わせれば満たされる。

 聞けば、もう一度欲しくなる。

 何度与えられても終わらない渇き。

 玲音は疑いもなく、透真を見つめる。

「ほんとの気持ちだもん。ずるくないわ」

「……ありがとう」

 それだけを言って、透真は目を伏せた。

 いつもの饒舌さが消えている。

 長い睫毛が影を落とし、カップの陰へ表情を隠すようにコーヒーを飲んだ。

「透真?」

 玲音は不思議そうに首を傾げる。

「大丈夫? 元気ないわね」

「元気ですよ」

 透真は首を振った。

「ちょっと……幸せすぎただけ」

 玲音が淹れたコーヒーのおかわりを受け取る。

 触れた指先は、わずかに冷たかった。

「こんな日が続けばいいのにって」

 独り言のように透真は呟いた。

「どうしたの?」

 玲音は立ち上がり、透真をふわりと抱きしめた。

「ずっと一緒でしょ?」

 透真は抱かれたまま、天井を仰いだ。

「……なんでもないです」

「なんでもなくないわ」

 玲音の身体から伝わる温もりへ、透真はそっと手を重ねた。

 互いの心音が聞こえるほど近い。

 しばらく沈黙が続く。

 やがて透真が、本当に小さな声で言った。

「僕、いつか捨てられるのかなって、たまに思うんです」

「捨てられる?」

「はい」

「どうして?」

 玲音は透真を抱きしめる腕へ力を込めた。

「私があなたを捨てるなんて、ありえないわ」

 透真の指が、玲音の服を掴む。

 大人の男が縋るには、あまりにも幼い仕草だった。

「家族だと思っていた人も、友達も、みんな僕から離れていったから」

 くぐもった声だった。

 透真の記憶の奥で、断片的な音と景色が揺れる。

 閉じた扉。

 遠ざかる背中。

 振り上げられた手。

 怒鳴り声。

 けれど、玲音は何も知らない。

 透真も、それ以上は話さなかった。

 選ばれても、最後には置いていかれる。

 近づいた人間も、いつかは離れていく。

 透真の中には、そんな確信に近い恐怖が棲みついていた。

 共鳴コードも、閉じた扉も、その恐怖と深く結びついている。

 けれど、過去の傷が今の支配を正しいものに変えるわけではない。

 それでも透真は、玲音を手放すことができなかった。

「透真……」

 玲音は透真の頭へ、そっと手を伸ばした。

 その手が髪へ触れる直前、透真の肩がびくりと跳ねた。

 優しく触れられるより先に、身構えることを覚えた身体の反応だった。

「大丈夫よ」

 玲音は急がず、ゆっくりと頭を撫でる。

「私はあなたを捨てたりしないわ」

 透真の身体から、少しずつ力が抜けていく。

「頭を撫でると落ち着く?」

 透真は小さく頷いた。

「……もっと、してくれますか」

 掠れた声だった。

「うん。いくらでもするわ」

 玲音は微笑み、長い髪を指で梳く。

 透真は目を閉じた。

「あったかい」

「うん。あったかいね」

 玲音は透真の手を引き、リビングのソファへ移った。

「せっかくだから、もう少しこうしてましょ?」

「でも、甘えすぎました」

 透真は起き上がろうとする。

 けれど身体はほとんど動いていない。

 口では謝りながら、離れたくないことがあまりにもわかりやすかった。

「今は二人きりよ」

 玲音は優しく笑う。

「ふふっ。透真、私のお膝に頭を乗せてね」

 透真は少し迷った。

 やがて観念したように、長身をソファへ横たえ、頭を玲音の太腿へ預ける。

 大きな身体を小さく丸める姿は、どこか不釣り合いだった。

 けれど玲音には、妙にしっくりと感じられた。

「特別ですよ」

 透真は照れ隠しのように言う。

「玲音にしか、こんなことしませんから」

「知ってるわ」

 玲音は髪を撫で続ける。

 髪を梳くたび、透真の呼吸がゆっくりと深くなっていく。

「こんなふうに、安心して頭を撫でてもらったのは……初めてです」

「そっか」

 玲音の胸が少し痛んだ。

 透真は、自分がいなければ安心できないのかもしれない。

 だったら、自分が支えてあげなければ。

「じゃあ、またいつでも、したい時にしてあげるね」

 透真が目を開く。

 確かめるように玲音を見上げた。

「約束ですよ」

 小指を差し出す。

 二十四歳の男がするには、あまりにも幼い仕草だった。

 けれど、その指へ込められた重さは、子どもの約束とは比べものにならない。

「うん。約束」

 玲音も小指を絡めた。

 透真は安心したように目を細める。

「玲音」

 名前を呼んだだけだった。

 続く言葉はない。

 目を閉じても、そこにいることを確かめるように、音にしただけだった。

「なあに?」

 返事を聞くと、透真は目を閉じた。

 玲音は髪を撫で続ける。

 午後の光がリビングへ差し込み、二人の影を長く伸ばしていた。

 テーブルの上には空になった皿が残り、コーヒーはすっかり冷めている。

 やがて透真の呼吸は、規則正しい寝息へ変わった。

「眠っちゃったのね」

 玲音は小さく笑った。

 人前で決して無防備にならない男が、自分の膝の上で眠っている。

 絡めた小指だけは、離れまいとするようにわずかな力を残していた。

 玲音はその頬へ、そっと口づける。

「おやすみ、透真」

 ◇

 窓の外が茜色から紺色へ変わり、やがて夜の闇へ沈んだ。

 カーテンの隙間から差していた光も消え、屋敷は静けさに包まれていた。

 遠くで聞こえていた使用人たちの生活音も、いつしか小さくなっている。

 玲音の足は、とっくに痺れていた。

 それでも、膝へ預けられた重みを動かそうとはしなかった。

 やがて透真の瞼が小さく震えた。

「ん……」

 焦点の定まらない目が天井を彷徨い、ゆっくりと玲音の顔を捉える。

「おはよう、透真」

 玲音は膝の上の透真へ微笑んだ。

「夜だけど」

「……え」

 透真はきょとんとする。

「僕、寝てました?」

「うん。気持ちよさそうだったよ」

「夜……?」

 時計を見る。

 午後十時を過ぎていた。

 透真はがばりと起き上がる。寝癖で長い髪があちこちへ跳ねている。

「五時間……?」

 自分でも信じられないのか、何度も瞬きを繰り返す。

「すみません。足、痺れたでしょう」

「ちょっとだけね」

 玲音は足をゆっくり伸ばし、にっこり笑う。

「少し伸ばしたら大丈夫よ」

「夕食も僕が作るつもりだったのに、何してるんだ僕」

 透真は頭を抱えた。

「大丈夫だってば」

「立てます?」

 透真はすぐに立ち上がり、玲音へ手を差し出した。

「足、揉んであげましょうか」

「うん、立てるわ」

 玲音は透真の手を取り、ゆっくり立ち上がる。

「よいしょ」

 透真は玲音がふらつかないように、その身体を支えた。

「本当にすみません」

 申し訳なさそうに言ってから、少し照れたように頬を掻く。

「でも……すごくよく寝ました」

 玲音を見つめる。

「こんなに熟睡したの、初めてかもしれない」

 透真はこれまで、深く眠ることに慣れていなかった。

 眠っている間に、何かが失われるかもしれない。

 目を覚ました時には、そばにいた誰かがいなくなっているかもしれない。

 そんな根拠のない恐怖が、いつも眠りを浅くしていた。

 けれど今日は、目を覚ましても玲音がいた。

 五時間もの間、動かずに自分を見守っていた。

 透真は玲音の手を強く握る。

「ありがとう、玲音」

「どういたしまして」

 玲音は空いている手で、跳ねた透真の髪をそっと直した。

「また眠れない時は、してあげるね」

 透真は目を細める。

「約束ですからね」

「うん。約束」

 玲音の言葉は、透真へ安らぎを与えた。

 同時に、彼をますます玲音から離れられなくする。

 透真にとって玲音は、愛する人だけではなくなり始めていた。

 自分を選び、温め、眠らせてくれる、唯一の場所。

 だからこそ、もう絶対に手放せない。

 玲音の優しい約束は、その夜、透真の心を救うものになった。

 そして同時に、二人をつなぐ新しい鎖にもなった。


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