第8話 二つの顔
喉の渇きで、玲音は目を覚ました。
カーテンの向こうはまだ暗い。枕元の時計を見ると、日付が変わってから随分と時間が経っていた。
「……喉、乾いたな」
身体を起こすと、薄い夜気が肌に触れた。
眠気の残る足取りで寝室を出る。扉を閉め、足元を確かめながら廊下へ進んだ。
深夜の屋敷は静まり返っていた。
壁際のフットライトだけが、長い廊下を淡く照らしている。昼間には広く美しく見える空間も、夜の中ではどこか別の生き物の腹の中のようだった。
「お水でも飲んでこよう」
玲音は小さく呟き、階段へ向かう。
キッチンへ続く廊下の途中で、一つだけ明かりの漏れている部屋があった。
透真の書斎だった。
扉がわずかに開いている。
中から、低い声が聞こえた。
「……ああ、進捗は把握してる。ヒカリの件は焦らなくていい」
玲音は足を止めた。
それは透真の声だった。
けれど、自分に向けられる声とはまるで違っていた。
甘さも、柔らかさもない。
冷たく、平坦で、相手を人間ではなく数字か記号として扱っているような響きだった。
「外部の駒は切れないからな。それより例の株の動きは……ああ、それは放っておけ」
玲音には、話の意味がよくわからなかった。
ヒカリ。
外部の駒。
株。
知っている言葉なのに、透真の口から並べられると、知らないものに聞こえる。
胸の奥に、小さな違和感が生まれた。
けれど、その感覚はすぐに霧の中へ沈みかける。
「……透真?」
玲音はおずおずと声をかけた。
書斎の中で、声がぴたりと止まった。
一秒にも満たない沈黙。
椅子の脚が床を擦る音がして、間もなく扉が開く。
「玲音?」
そこに立っていた透真の顔には、先ほどまでの冷たさが欠片も残っていなかった。
「どうしたんですか、こんな時間に」
眉を下げ、心配そうに玲音を見る。
あまりにも自然な変化だった。
先ほど聞いた声の方が、玲音の聞き間違いだったのではないかと思えるほどに。
「うん……喉が渇いて」
玲音は書斎の中をちらりと見る。
デスクには、蓋の閉じられたノートパソコンと数枚の書類が置かれていた。スマートフォンも画面を伏せた状態で置かれ、通話相手を示すものは見当たらない。
「お仕事中かな? 声かけて悪かったかしら?」
「全然」
透真は首を横に振った。
「ちょうど終わったところです」
終わったのではなく、切った。
けれど、それを知る者は玲音のほかにはいない。
そして玲音自身も、その違いを長く考えることができなかった。
透真は玲音の前へしゃがみ、目線を合わせる。
「眠れない? それとも具合悪い?」
「大丈夫よ。ただ、お水を飲もうと思って」
「水を飲みに行こうとしてたんですね」
透真は立ち上がり、玲音の背中へそっと手を添えた。
「行きましょう。一緒に」
◇
玲音は透真へぴったりと寄り添い、キッチンまで歩いた。
透真は玲音の歩幅に合わせ、少しだけゆっくり歩いてくれる。
「今日は甘えん坊ですね」
透真の声には、もういつもの柔らかな色しか残っていなかった。
「そうなの。今日は甘えん坊なの」
玲音は透真の腕へ頬を寄せた。
「透真に甘えたいな」
透真の足がわずかに止まりかける。
「……そういうこと言われると困ります」
「困るの?」
「もっと好きになっちゃうじゃないですか」
暗がりの中でもわかるほど、透真の耳が赤くなった。
先ほどまで誰かへ冷たい指示を出していた男と、同じ人物には見えない。
キッチンへ着くと、透真は冷蔵庫から水を取り出した。
グラスへ注ぐ量まで、玲音の好みに合わせてある。
「どうぞ」
「ありがとう、透真」
玲音が水を飲む間、透真はカウンターへ肘をつき、その姿を見つめていた。
瞬きも惜しいとでもいうような目だった。
「部屋まで送りますよ」
「一人でも大丈夫よ?」
「一人じゃ危ないですし」
透真は冗談めかして笑った。
けれど、その目は笑っていなかった。
玲音が自分の知らない場所を一人で歩くこと。
自分の知らないものを見つけること。
そのどちらも、透真にとっては好ましいことではない。
「お部屋に戻ったら、すぐ寝るわね」
玲音は空になったグラスを置いた。
「透真のお仕事の邪魔してごめんなさい」
「邪魔なんかじゃないです」
透真は玲音の髪へ触れる。
「むしろ……助かりました」
「助かった?」
「少し休憩できましたから」
穏やかに笑う。
本当は、電話の続きを聞かれずに済んだからだった。
けれど玲音は疑わなかった。
二人は並んで寝室へ戻った。
「おやすみなさい。何かあったら、いつでも呼んでくださいね」
透真は扉を開け、玲音を中へ促す。
「おやすみなさい、透真」
玲音はベッドへ入り、瞳を閉じた。
透真が出ていったあと、玲音は枕元の鍵へ手を伸ばした。
かちり、と小さな音がする。
屋敷のどこかで、透真はまだ起きている。
けれど玲音は、その気配に包まれていることを不安ではなく安心だと思いながら、再び眠りへ沈んだ。
◇
翌朝。
カーテン越しの光が、玲音の瞼を淡く照らした。
身体を動かそうとして、すぐそばに温もりがあることに気づく。
玲音を抱きしめて眠っていたのは、透真だった。
いつ部屋へ入ってきたのだろう。
昨夜、内側から鍵をかけたはずだった。
けれど、この屋敷で玲音の部屋の鍵が、透真に対して意味を持つことはない。
透真はまだ眠っている。
昨夜の冷たい声が、ほんの一瞬だけ玲音の耳の奥を掠めた。
けれど、今の透真にはあの声も、外へ向ける完璧な笑顔もない。
ただ玲音を腕に抱き、規則正しい寝息を立てている。
無防備な顔だった。
あの冷たい声と同じ人だとは、どうしても思えなかった。
「ふふっ。透真も可愛い」
玲音はそっと抱きしめ返し、透真の頭を撫でた。
髪へ指を通すと、透真が小さく身じろぎする。
「……ん」
うっすら瞼が開いた。
「おはようございます」
まだ半分眠っている声だった。
玲音が頭を撫で続けると、透真は猫のように、その手へ頭を押しつけてくる。
「もうちょっとだけ……こうしてたい」
もごもごと呟く。
「今日は透真が甘えん坊さんね」
玲音はにっこり笑った。
「ん……玲音」
透真は玲音の胸元へ顔を埋めた。
朝日が、カーテン越しに二人の輪郭をなぞる。
鳥の声。
遠くで使用人が歩く足音。
その瞬間だけは、本当に世界に二人しかいないようだった。
「愛してる……透真」
玲音が静かに告げた。
透真の肩が、ぴくりと跳ねる。
「……ずるいです」
顔を埋めたまま、くぐもった声が返ってくる。
「朝からそういうこと言うの」
玲音へ愛を囁いてきたのは、ずっと透真の方だった。
けれど玲音から返されるたびに、透真はそれを初めて聞いたように動揺する。
耳の先が真っ赤だった。
「僕もです」
透真はようやく顔を上げた。
目尻が少し潤んでいる。
「……ずっと、ずっと」
「ずっとずっとね」
玲音はもう一度、透真を抱きしめた。
その平穏を破ったのは、枕元のスマートフォンだった。
短く振動する。
透真は一瞬で目を開け、画面を確認した。
ヒカリからのメッセージ。
内容を読んだ透真の表情から、眠気が消えた。
けれど何も言わず、スマートフォンを裏返す。
「今日の朝ごはん、何がいいですか?」
何事もなかったように玲音へ顔を向けた。
「朝ごはん? 普通のでいいのよ。スクランブルエッグとか、サラダとか?」
「了解です。じゃあ僕が作りますね」
「えっ、透真が作ってくれるの?」
「だめです。今日は僕が全部やる日」
透真はいたずらっぽく笑った。
「じゃあ、私も手伝うわ」
「だめです」
「でも、なんだか悪いわ」
「玲音は座って、僕を見ていてください」
◇
キッチンに立った透真は手慣れていた。
フライパンを熱し、バターを溶かす。卵を割る手つきにも迷いがない。
「料理、上手なのね」
「好きなんですよ。一人暮らしが長かったので」
また、一人。
透真の過去を語る言葉には、いつも孤独の影がつきまとう。
玲音はその背中を見つめた。
広い屋敷。
多くの使用人。
自分には詳しくわからない仕事。
それだけのものを持っているのに、透真の心の中心には、誰もいなかった時間が横たわっている。
そう思うと、玲音はたまらなくなった。
背後から透真へ腕を回す。
「玲音?」
「ふふっ。透真が奥さんみたいだから、私がキュンときちゃった」
軽い冗談のつもりだった。
けれど透真の手が止まった。
フライパンを弱火にかけたまま、数秒間その場で固まる。
やがて、ゆっくりと振り返った。
玲音を抱きつかせたまま、二人の身体の向きを変える。
「奥さん、いいですね」
透真の目は真剣だった。
「なってくれます?」
玲音は目を瞬いた。
冗談で返すのだと思っていた。
けれど透真は笑わなかった。
耳は赤いままなのに、瞳だけはまっすぐ玲音を見ている。
「毎日こうやって朝ごはんを作って、玲音の『おいしい』が聞けるなら……最高じゃないですか」
透真の手が、玲音の頬へ触れた。
玲音はその手へ頬をすり寄せる。
「透真……」
胸の奥が、温かさで満ちていく。
「なんだか嬉しくて、泣いちゃいそうよ」
「泣かないでください」
透真の親指が、玲音の目元をそっと拭う。
「……僕まで泣きたくなる」
声が少し震えていた。
額と額が触れる。
「約束ですよ」
透真は囁く。
「ずっと僕の隣にいてください」
「うん。ずっと一緒ね」
そのとき、焦げた匂いが漂ってきた。
玲音が鼻を動かす。
「あれ……なんだか焦げの匂いが」
はっとコンロを見る。
「透真、卵が!」
「あっ……!」
透真は慌てて振り返った。
フライパンの中では、スクランブルエッグだったものが、黒い塊へ変わりかけている。
急いで火を消したが、もう遅かった。
透真はしょんぼりとフライパンを見つめる。
「……愛の代償ですね」
「大袈裟よ」
玲音はくすくす笑った。
「さあ、今度は私が作るから、透真は待っててね」
玲音は張り切って新しい卵を取り出した。
透真は大人しくカウンター席へ移り、頬杖をつく。
「特等席ですね、ここ」
玲音が料理をする姿を、ほとんど瞬きもせず見つめていた。
玲音は卵をふわりと仕上げ、簡単なサラダを添える。ロールパンを軽く焼き、コーヒーを淹れた。
「お待ちどう」
テーブルへモーニングプレートを並べる。
「ふわとろのスクランブルエッグ。パンはロールパンがあったから、軽く焼いたわ。コーヒーもどうぞ」
「すごい」
透真の目が輝いた。
「完璧じゃないですか」
「はい、召し上がれ」
玲音は透真の隣へ座った。
透真は一口食べる。
咀嚼しながら、目を見開いた。
「おいしい……」
お世辞ではない。
本気で感動している顔だった。
二口目、三口目と、止まらない。
あっという間に皿の半分が消える。
「そんなに急がなくても、逃げないわよ」
「毎日これ食べたいです」
透真はふとフォークを止めた。
玲音を見る。
「……結婚してください」
これまでも、結婚を匂わせるようなことは何度か言われてきた。
けれど今日は、玲音も笑って流さなかった。
「うんうん。結婚する」
幸せそうに笑う。
「透真のお嫁さんになるわ」
透真の手が止まった。
フォークを持ったまま、完全に固まる。
いつもなら冗談として流されるか、また言っていると笑われるはずだった。
それが今日は、迷いのない二つ返事だった。
透真の耳が、みるみる赤くなる。
「……今の、取り消しなしですからね」
口元を手で隠した。
声は震えている。
けれど瞳は、泣きそうなほど笑っていた。
「取り消さないわ」
「本当に?」
「本当よ」
透真はしばらく玲音を見つめた。
その視線の中には、純粋な喜びと、逃げ道を永久に塞ぎたいという執着が混ざり合っていた。
玲音には、その二つを分けることはできなかった。
分ける必要もないと思っていた。
「ふふっ。透真は今日、何か予定あるの?」
「あ……」
透真はコーヒーカップを両手で包む。
「特には。玲音と一緒にいようかなって」
カップの縁へ唇を当て、ちらりと玲音を窺う。
「でも、ヒカリさんに会いに行こうかな」
「ヒカリに?」
「向こうから、会いたいって連絡が来てて」
玲音は少し不安そうに首を傾げた。
「ヒカリったら、透真を困らせてなきゃいいけど」
「大丈夫ですよ。ちゃんと話してきますから」
「私が行ったらだめなの?」
透真は困ったように笑った。
「玲音がいたら、ヒカリさん、本音を出さないと思うんですよね」
それは事実だった。
姉がいれば、ヒカリは言葉を選ぶ。
けれど透真が望んでいるのは、ヒカリの本音を聞くことだけではなかった。
どこまで知っているのか。
誰と繋がっているのか。
何をしようとしているのか。
二人きりで確かめたかった。
「お土産でも買って帰りましょうか」
「うん。じゃあ、お土産楽しみにしてる」
玲音は透真の頬へ、そっと口づけた。
「喧嘩しちゃだめだよ?」
一瞬、透真はぽかんとする。
やがて顔いっぱいに笑みが広がった。
「行ってきます」
◇
玄関を出て、扉が閉じる。
透真の顔から笑みが消えるまで、三秒とかからなかった。
車のドアを閉めると、スマートフォンを取り出す。
ヒカリとのメッセージ画面には、今朝届いた条件が表示されていた。
『お姉ちゃんには手を出さないって約束するなら、会ってあげる』
玲音をこれ以上変えない。
自由を奪わない。
共鳴コードをこれ以上使わない。
ヒカリが求めているのは、おそらくそのすべてだ。
「約束するわけないだろ」
透真は小さく呟いた。
玲音を傷つけているつもりはない。
愛することも、守ることも、透真にとっては「手を出す」ことには含まれない。
それに、今さら玲音から手を離すことなど、できるはずがなかった。
車は都心のカフェへ向かった。
個室のある店を指定したのは透真だった。
人目がない方が、互いに話しやすい。
少なくとも玲音には、そう説明できる。
◇
カフェへ到着すると、ヒカリは既に席へ着いていた。
足を組み、スマートフォンを操作している。
透真が個室へ入ると、顔を上げた。
「遅い」
「ごめんね」
透真はヒカリの向かいへ座る。
「それで、話って?」
「今日はお姉ちゃん連れてないのね」
「君がそう指定したんだろ」
透真は淡々と答え、メニューを開く。
「サシで話がしたいって感じかな?」
ヒカリは鼻を鳴らした。
「まあね。単刀直入に言うけど」
テーブルへ身を乗り出す。
その目には、玲音の前では抑えていた鋭さがあった。
「あんた、お姉ちゃんのこと洗脳してるでしょ」
店内の音楽が、急に遠くなったように感じられた。
透真は顔色一つ変えない。
メニューを閉じ、薄く笑う。
「証拠は?」
ヒカリの拳に力が入った。
「お姉ちゃん、あんたと会ってから別人みたいになった」
「恋をしたら、人は変わるものじゃない?」
「今じゃあんたに心酔してる。恋愛にしたって行き過ぎよ」
「心酔、ね」
透真は水のグラスへ指を滑らせる。
「家族への愛情と、恋人への愛情は違う。大人になれば、恋人を優先することもあるんじゃない?」
「そういう意味じゃない!」
ヒカリはテーブルを強く叩いた。
「あたしの知ってるお姉ちゃんは、もっと……」
言葉が途切れる。
もっと自由だった。
もっと自分で考えていた。
誰かを好きになっても、相手の言葉だけを世界のすべてにはしなかった。
「おねねは優しいけど、誰か一人に心酔するほど弱くなかった」
強く感情が揺れたせいか、幼い頃の呼び名が漏れた。
透真はそれを聞き逃さなかった。
「それで?」
穏やかに問い返す。
「仮に洗脳だとして、君はどうするの」
「とぼけんな」
ヒカリは透真を睨む。
「あんたが屋敷に住まわせて、自由に外へ出さない時点でおかしいのよ」
「玲音は自分から、あそこを家だと言ってるよ」
「そう言わせたんでしょ」
「誰が信じる?」
透真はにこりと笑った。
「お姉さん本人が幸せだって言ってるのに」
ヒカリは奥歯を噛みしめた。
正論ではない。
けれど、現実の壁だった。
玲音自身は助けを求めていない。
家族に恋人を紹介し、自分の意思で屋敷へ戻り、透真との結婚まで望んでいる。
外から見れば、それは成人した女性の選択に見える。
「警察にでも行く?」
透真は静かに尋ねた。
ヒカリの目がわずかに揺れる。
警察。
相談することはできる。
けれど証拠はない。
玲音自身が否定すれば、連れ戻すことは難しい。
そのことを、透真も知っている。
「少なくとも、今のままでは無駄だよ」
透真の声は穏やかだった。
だからこそ冷たかった。
「君が何を言っても、玲音は僕を選ぶ」
「……いつか」
ヒカリは拳を握りしめた。
「いつか、あんたの尻尾をつかんでみせるわ」
透真は少しだけ目を細めた。
「頑張って」
挑発でも、皮肉でもない。
見つかるはずがないという、純粋な確信だった。
ヒカリは透真を睨み続ける。
「心配してるんだよ、本当に」
透真の声から、最後の温度が消えた。
「僕以外の人間が玲音に近づくと……困るんだ」
ヒカリの背筋に、冷たいものが走った。
「それ、脅し?」
「忠告だよ」
透真は席を立った。
「これ以上、首を突っ込まない方がいい。君自身のためにも」
「その顔でとぼけないで。脅しても無駄だから」
透真は答えなかった。
伝票を取り、静かに個室を出ていく。
◇
カフェを出たヒカリは、夕暮れの街を歩いていた。
「なによ……あいつ」
吐き捨てるように呟く。
透真は何も認めなかった。
けれど否定もしなかった。
証拠がないことも、玲音自身が幸せだと思い込んでいることも、すべてわかったうえで利用している。
「警察へ相談するにしても、今のままじゃ足りない」
ヒカリは立ち止まり、スマートフォンを取り出した。
玲音の状態を知っている者。
昔の玲音を知っていて、今の変化を比べられる者。
大学時代の友人。
ヒカリの指が、連絡先に並ぶ一人の名前の上で止まった。
一人では無理だ。
透真の言葉を覆すには、自分以外にも、玲音の変化を知る人間が必要だった。
「お姉ちゃんの洗脳を、解く方法……ないのかな」
その呟きは、街の雑音へ溶けていった。
◇
一方、透真は屋敷へ戻っていた。
「ただいま。いいお土産、見つけてきましたよ」
紙袋を手に玄関を入る。
靴を脱ぐより先に、その目は玲音を探していた。
カフェでヒカリへ向けていた冷たい顔は、もうない。
玲音の姿を見つけた瞬間、透真の表情が柔らかくほどける。
どちらが仮面なのか。
あるいは、どちらも本当の透真なのか。
玲音にだけ甘く、ほかのすべてには冷たい男。
玲音を愛しているからこそ、彼女の世界の中心を、自分だけで満たそうとする男。
その日、二人の間には結婚の約束が生まれた。
同じ日に、ヒカリは透真の外側から玲音へ手を伸ばすため、初めて家族以外の力も求めようとしていた。
一つの約束が、檻を強くする。
もう一つの決意が、その檻へ最初の亀裂を入れようとしている。
どちらの音も、まだ玲音には聞こえていなかった。




