第7話 安心と呼ばれる檻
風呂上がりの玲音とヒカリがリビングへ戻ると、先ほどまでの緊張は嘘のように消えていた。
父はテレビに視線を戻し、何事もなかったかのようにビールを飲んでいる。母は台所へ引っ込み、鼻歌を歌いながら洗い物をしていた。
けれど母の目元には、まだわずかな赤みが残っている。
玲音には、それが嬉し涙なのか、不安の名残なのかまではわからなかった。
「僕もお風呂、いただいてきますね」
透真がそう告げ、浴室へ向かう。
「はい。ごゆっくりどうぞ」
玲音はにっこり笑って、その背中を見送った。
それから玲音はヒカリと並び、二階にある自分の元の部屋へ上がった。
「なんか、久しぶりにおうちに帰ってきた気がするー」
玲音の声は明るかった。
「実際、久しぶりでしょ」
ヒカリは振り返らずに答える。
「どんだけ音信不通だったと思ってんの」
玲音が昔使っていた部屋は、時が止まったように残されていた。
高校時代に貼ったポスター。
本棚に並んだ参考書。
使い古したデスクライト。
机の端に残る、小さな傷。
何もかもが懐かしい。
けれど、その懐かしさは玲音の身体へまっすぐ届かなかった。薄い布を一枚挟んだように、景色だけが遠い。
母が今も掃除をしているのだろう。部屋には埃一つなかった。
ヒカリはベッドへぼすんと倒れ込み、スマートフォンを操作し始めた。
「お母さんから聞いたけど」
画面から目を離さないまま、ヒカリが言う。
「あの人、会社やってるんだって?」
「うん。よく知らないけど」
玲音は机の上に置かれた昔の写真立てへ目を向けた。
「透真のそばにいると安心するのよ」
ヒカリの指が止まった。
「安心って……お姉ちゃん、それ本気で言ってる?」
がばっと上体を起こす。
玲音は振り返り、少し困ったように笑った。
「本気よ?」
ヒカリはベッドから降り、玲音の前へ立った。腰に手を当て、眉を吊り上げている。
「あのさ、冷静に考えて」
声を抑えている。
透真がまだ階下にいるからではない。怒鳴れば姉が怯え、またあの男の側へ逃げてしまうことを、ヒカリ自身がわかっているからだった。
「いきなり現れて、いきなり一緒に住んで、仕事も住所も教えない男のどこが安心なの」
「ええっ。でも一緒に住んでるよ」
「ちょっと待って」
ヒカリの目が見開かれる。
「一緒に住んでる? あの家に?」
「うん。おうちも大きいよ」
玲音は何もおかしなことを言っていないように頷いた。
ヒカリの唇が震える。
恋人として付き合っているだけではない。
姉は既に、あの男の家を自分の家として受け入れている。
「あたし、この前あの人の家のこと調べたんだけど」
ヒカリは声をさらに落とした。
「法人登記も、公開されてる住所も確認できなかったの。会社なんかやってないかもしれないんだよ?」
「でも、透真が嘘をつく理由なんてないと思うの」
「理由がないんじゃなくて、お姉ちゃんが知らないだけでしょ」
ヒカリは歯を食いしばる。
「仕事もよく知らない。住所もわからない。友達にも連絡できない。一人で自由に外へも出られない。それのどこが普通なの?」
「外には出てるよ。こうしてヒカリにも会えたし」
「それは、あの人がずっと一緒だったからでしょ?」
玲音は答えに詰まった。
けれど不安より先に、透真を庇わなければという気持ちが湧いた。
ヒカリも両親も、透真のことを知らない。
誰も信じてくれないのなら、せめて自分だけは信じてあげなければいけない。
「誰も信じてあげないなら、私が信じてあげなきゃ」
玲音は静かに言った。
「透真のそばにいると、本当に安心するのよ」
ヒカリは一瞬、言葉を失った。
姉の声には迷いがなかった。
だからこそ怖かった。
「大きな家? そんなの関係ない」
声が震える。
「外に一人で出してもらえないんでしょ? 友達にも連絡できないんでしょ? それが普通だと思ってるの?」
「でも彼といると、とても安心するの」
「お姉ちゃん」
ヒカリは玲音の両肩を掴んだ。
「それ、監禁って言うんだよ」
その言葉が、部屋へ重く落ちた。
玲音は瞬きをする。
監禁。
鉄格子。
外から鍵を掛けられる扉。
透真の許しがなければ出られない部屋。
一瞬だけ、最初に鉄格子を見たときの冷たさが胸の奥を掠めた。
自分は、あの部屋から出たいと思ったことがあっただろうか。
思い出そうとすると、頭の奥がぼんやりと霞む。
けれど透真の微笑みを思い出すと、そのざわめきはすぐに小さくなった。
「そんなことないわ」
「あるよ」
「決して嫌がることはしないわ。本当よ」
「嫌がることしない?」
ヒカリの目に怒りが浮かぶ。
「じゃあ、なんであたしが電話したら『知らない番号』だったの?」
玲音は答えられない。
「この前、お姉ちゃんのスマホの画面が見えたとき、位置情報をずっと共有する設定になってた。あれ、誰が入れたの?」
「それは……心配してくれてるからじゃないかしら」
「心配?」
ヒカリは掴んでいた肩から、力なく手を離した。
それから唇を噛む。
「あたし……お姉ちゃんがいなくなったらって思ったら、夜も眠れなかった」
ぽろりと涙が落ちた。
「やっと帰ってきたのに、お姉ちゃん全然変で……あの人に洗脳されてるみたいで……」
「ヒカリ……」
玲音の胸が締めつけられた。
透真を疑うことはできない。
けれど、目の前で泣いている妹を放っておくこともできない。
「大丈夫よ」
玲音はヒカリへ手を伸ばした。
「お姉ちゃん、いなくならないからね。ヒカリの前から、いなくなったりしないよ」
ヒカリは涙に濡れた目で姉を見つめる。
その言葉を信じたい。
けれど今の姉が思う「いなくならない」と、自分が願う意味が同じなのか、もうわからなかった。
玲音にとっては、透真のもとにいたまま、ヒカリとの関係も失わないという約束だった。
ヒカリにとっては、姉があの屋敷から戻ってくるという約束だった。
階下から、風呂場の扉が開く音がした。
続いて、ゆっくりとした足音。
階段が一段ずつ軋む。
時間がない。
「約束だからね。絶対」
ヒカリは袖で乱暴に涙を拭った。
「うん。大丈夫」
廊下から、足音が近づいてくる。
こんこん、と控えめなノックが響いた。
「上がりました。入っても大丈夫ですか?」
透真の声だった。
「うん。大丈夫です」
玲音が答える。
ヒカリは涙の跡を隠すように顔を背けた。
扉が開く。
透真の視線は、一瞬でヒカリの姿を捉えた。
赤い鼻。
泣いた跡のある目。
強く握られた拳。
何が話されたのか、すべてを聞かなくても十分だった。
計画を急ぐべきではない。
むしろ、ここでヒカリを刺激すれば、両親まで敵に回る。
透真は何も言わず、柔らかく微笑んだ。
「ちょうどよかったです」
タオルで髪を拭きながら、室内を見回す。
「……いいお部屋ですね」
玲音が自分と出会う前に過ごした場所。
自分の知らない時間が詰まった部屋。
透真の微笑みは変わらなかったが、その目だけがほんの少し細くなった。
ヒカリは玲音の隣へ腰を下ろした。
「今日はお姉ちゃんと寝るって言ったでしょ」
透真を見ないまま言う。
透真は一瞬だけ黙った。
「そうでしたね」
その声は穏やかだった。
「では、僕はヒカリさんのお部屋をお借りします」
玲音はヒカリと透真を交互に見る。
「おやすみ、透真」
「おやすみなさい、玲音さん」
透真は玲音の頭をそっと撫でた。
「今日は久しぶりの実家で、疲れたでしょう。ゆっくり休んでください」
ヒカリには何も尋ねず、透真は部屋を出た。
扉が閉じる直前、透真とヒカリの視線が一瞬だけ重なった。
どちらも笑わなかった。
◇
玲音とヒカリは、並んで布団へ入った。
灯りを消すと、見慣れたはずの天井が暗闇へ沈む。
玲音はしばらく天井を見つめていた。
「昔も、こうして一緒に寝たわね」
「覚えてるの?」
ヒカリの声は、暗闇の中で少しだけ震えていた。
「うん。なんとなく」
玲音は答える。
はっきりした場面は浮かばない。
けれど隣にヒカリがいる感覚だけは、身体のどこかが覚えているようだった。
「ヒカリ、あったかいね」
「……子供じゃないんだから」
ヒカリは背を向けた。
けれど玲音から離れようとはしなかった。
廊下を隔てた別の部屋では、透真が一人、見慣れない天井を見上げていた。
ヒカリの部屋。
机。
本棚。
大学の教科書。
スイミングスクールの予定表。
玲音を守ろうとする妹の生活が、そこにはあった。
透真はしばらく目を閉じていた。
廊下の先では、玲音とヒカリが同じ部屋で眠ろうとしている。
今夜だけは、玲音の隣に自分はいない。
それでも、焦りは表に出さなかった。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面の光が、透真の顔を青白く照らした。
共鳴コードの管理画面へ、短い記録を残す。
ヒカリ。
玲音の妹。
姉への思いが強い。
短期的な接触では警戒を解けない。
具体的な方法は記さない。
方法を急ぐ必要はない。
時間は、透真の側にあるはずだった。
透真はスマートフォンを伏せる。
壁一枚、廊下一つ隔てた先に玲音がいる。
それだけを確かめるように、暗い天井を見つめた。
◇
翌朝。
カーテンの隙間から陽光が差し込み、実家の朝が始まる。
階下から味噌汁の匂いと包丁の音が漂ってきた。
どこにでもある、ありふれた朝。
それがいつまで続くのかは、まだ誰にもわからない。
「ヒカリ、おはよう」
玲音は起き上がり、隣の布団へ声をかけた。
ヒカリは布団を頭まで被っている。
「朝ごはんの匂い、美味しそう。降りましょ?」
「……いらない」
昨日と同じ言葉だった。
姉に会いたくないのではない。
姉の後ろに立つ影と、同じ食卓に座ることが怖いのだ。
「ね? 起きようよ。お姉ちゃん、ヒカリと一緒にごはん食べたいなぁ」
しばらくして、布団がもぞもぞと動いた。
ヒカリが半分だけ顔を出す。
目の下には、はっきりと隈ができていた。
「……三分だけ待って。顔洗う」
三分と言ったが、実際には五分近くかかった。
パジャマのまま部屋から出てきたヒカリは、階段の方へ目をやる。
「あいつは?」
「あいつ?」
玲音は首を傾げる。
「ああ、透真のこと? もうリビングでお父さんとお母さんとお話してるよ」
「別に。いないならいい」
ヒカリは首を横に振った。
二人は並んで階段を降りた。
昨夜のことなど何もなかったように、ヒカリは前だけを見ている。
ただ、姉の腕へほんの少しだけ近い距離を保っていた。
その距離が、玲音にはどこか懐かしく、少しだけ嬉しかった。
「おはよう。ヒカリもちゃんとごはん食べるって」
玲音が明るく告げる。
食卓には、ヒカリの分だけ箸が出ていなかった。
「あら、おはよう! 鷹宮さんもよく眠れました?」
「おかげさまで」
透真は爽やかに微笑む。
「素敵なお家ですね。居心地がよくて」
「まあ、嬉しい」
母は笑った。
けれどすぐ、ヒカリの顔を見て眉を寄せる。
「もう、ちゃんと起こしてって言ったのに。ほら、顔色悪いわよ」
ヒカリは何も答えず席へ着いた。
母はしばらくその横顔を気にしていたが、何も聞かずにヒカリの箸を用意する。
焼き鮭。
味噌汁。
漬物。
卵焼き。
父は既にテーブルへ座り、新聞を広げている。
ヒカリは黙々と味噌汁を啜った。
父が新聞を畳む。
「今日、予定はあるのか」
透真へ向けた問いだった。
「いえ、特には」
「なら、うちの周りでも案内してやったらどうだ。散歩がてら」
父にしては珍しい提案だった。
追い出すつもりなら、帰れと言えばいい。
それを案内すると言うのは、まだ透真を見極めきれていないからだ。
「いいんですか? ぜひお願いします」
透真は嬉しそうに答えた。
「わぁ、いいね! いいアイデアだと思うわ」
玲音も目を輝かせる。
「ヒカリももちろん行くでしょ?」
ヒカリの箸が止まった。
一瞬だけ透真を見て、すぐに逸らす。
「……あたしはパス」
「えー」
母が不満そうな声を漏らす。
「課題あるし。お土産はいらないから」
ヒカリは味噌汁を飲み干した。
「そっか……じゃあ、またあとでね」
玲音は寂しそうに笑った。
ヒカリは小さく頷くだけだった。
◇
朝食を終え、玲音と透真、両親の四人は家を出た。
ヒカリは二階の窓から、その姿を見送っていた。
四人が角を曲がると、すぐにカーテンが閉じた。
都心の屋敷とは違い、この街には電柱があり、庭先には洗濯物が揺れている。
犬を散歩させていた近所の女性が、玲音へ声をかけた。
「あら、玲音ちゃん。久しぶり!」
玲音は驚きながら手を振る。
名前を呼ばれるたび、昔の自分の輪郭が少しだけ戻ってくる気がした。
「いい空気ですね。空が広い」
透真が深呼吸する。
母は嬉しそうに先導した。
「こっちがね、玲音が小さい頃よく行った公園。で、あっちがヒカリが生まれた病院」
「こうしてみると、結構狭いのね」
玲音は公園の遊具を指さした。
「あそこでよく遊んだなぁ」
「子供には広かったのよねぇ」
母がくすっと笑う。
父はベンチへ腰掛け、古びたブランコを見る。
「ここで玲音がブランコから落ちて、大泣きした」
「そうそう!」
母が手を叩いた。
「ヒカリがおぶって帰ったのよねぇ。あの子、まだ三歳なのに」
玲音は笑った。
その光景を、はっきり思い出すことはできない。
けれど両親の言葉を聞いていると、自分にも確かに透真のいない時間があったのだと感じられた。
透真は柔らかい笑顔で聞き役に徹している。
相槌の間も、視線の置き方も自然だった。
母はすっかり気をよくしている。
「鷹宮さんは、ご兄弟とかいらっしゃるの?」
ふと真面目な顔になって尋ねる。
透真の返答まで、一瞬だけ間があった。
「一人っ子なんです」
柔らかく笑う。
「だから、兄弟がいるの、羨ましくて」
その言葉に、嘘の匂いはなかった。
少なくとも透真自身は、それを事実だと信じているようだった。
「あら、じゃあヒカリとも仲良くしてあげてね」
母が明るく言う。
「あの子、ちょっと人見知りなだけだから」
玲音は透真を見て微笑んだ。
母が透真を気に入ってくれている。
それが純粋に嬉しかった。
父は少し後ろを無言で歩いていた。
時折、透真が何を見ているかを横目で観察している。
「そろそろ戻るか。このあと用事がある」
父が立ち上がり、身体を伸ばした。
帰り道、父は不意に透真の横へ並んだ。
低い声で、何かを話す。
透真が一度だけ頷く。
玲音には、その内容までは聞き取れなかった。
ただ、二人の間に朝とは違う緊張が流れたことだけはわかった。
◇
「もう帰っちゃうの? もうちょっとゆっくりしていけばいいのに」
玄関の鍵を開けながら、母が名残惜しそうに振り返った。
「また来るよ」
玲音は笑う。
透真も深く頭を下げた。
「ありがとうございます。必ずまた来ます」
父は用事へ向かおうとして、足を止めた。
「また来い」
背を向けたまま、それだけ言う。
母が目を丸くした。
父がその三文字を口にすることが、どれほど珍しいのか。
玲音の胸が明るくなる。
透真は認めてもらえた。
少なくとも玲音には、そう見えた。
「はい」
透真は静かに答えた。
「ありがとうございます」
けれど父の「また来い」は、承認だけを意味するものではなかった。
もう一度会う。
もう一度見る。
そのための言葉でもあった。
車が動き出す。
実家がバックミラーの中で、小さくなっていった。
「いいご家族ですね」
透真がハンドルを握りながら、ぽつりと言う。
「ふふっ。いいでしょ?」
玲音は嬉しそうに微笑んだ。
「でも透真、気疲れしなかった? 大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
信号待ちで、透真はふっと笑う。
「お父さんには気に入ってもらえたと思います。……たぶん」
帰路は順調だった。
高速へ入り、景色が住宅街からビル群へ変わっていく。
お土産は何がいいか。
次に来るときは何を持っていくか。
他愛のない会話が続いた。
やがて透真が、少し真剣な声を出す。
「ヒカリさんのことなんですけど」
「うん。ヒカリがどうしたの?」
「昨日、何を話してたんですか?」
問い詰めるような口調ではなかった。
ただ知りたいだけ。
そう聞こえる声だった。
けれど透真の中では、玲音に何を吹き込まれたのか、その内容を確かめるための問いでもあった。
玲音は隠そうとは思わなかった。
「私のこと、本当に純粋に心配しててね」
「そうですか」
「お姉ちゃんじゃないみたいっていうのよ」
玲音は小さく笑う。
「私は私なのにね」
「ほかには?」
「透真の会社とか、おうちのこととか。私が自由に外へ出られないんじゃないかって」
透真の指が、ハンドルの上でわずかに止まる。
「監禁されてるって言われたわ」
車内へ短い沈黙が落ちた。
透真は前を向いたまま、穏やかに息を吐く。
「きっと、姉が取られるのが寂しいんですよ」
「そうなのかしら」
「思春期ですし」
その分析は、完全な間違いではなかった。
ヒカリが姉を奪われることを恐れているのは事実だ。
けれど全部ではない。
ヒカリが恐れているのは、檻の中の鳥が「ここは居心地がいい」と笑っていることだった。
助けようと伸ばした手を、姉自身に拒まれることだった。
「僕のこと、あまりよく思ってないみたいですね」
透真は前を向いたまま言う。
「玲音さんはどう思います?」
穏やかな声。
けれどどこか探るようだった。
「あの子、僕に対して敵意があるっていうか……ただの人見知りじゃないですよね」
「敵意っていうか」
玲音は少し考える。
「あの子、まだ透真のことわかってないだけだと思うのよ。時間をかければ、きっと大丈夫よ」
「そうですよね」
透真は小さく息を吐く。
「時間をかければ、わかってもらえますよね」
少し安心したような声だった。
けれどその言葉の意味は、玲音が考えているものとは違っていた。
信号待ちで車が止まる。
透真は玲音の手へ、そっと自分の手を重ねた。
「僕は玲音の味方ですから」
玲音は嬉しそうに微笑む。
「誰に何と言われても?」
「ええ。誰に何と言われても」
「ふふっ。ありがとう。優しい透真が大好きよ」
信号が変わる。
透真は手を離し、再びハンドルを握った。
◇
屋敷へ着いたのは、夕方近くだった。
「ただいま」
玲音が言うと、メイドたちが一斉に頭を下げる。
日常が戻ってきた。
この屋敷にとっては、外に出ていた時間の方が異常だったのだろう。
玲音はリビングへ荷物を置き、ソファへ腰を下ろした。
「疲れたでしょう。今日は早めに休みましょうか」
透真が微笑む。
その時、玲音のスマートフォンが震えた。
「あら?」
画面には、ヒカリからの短いメッセージが表示されていた。
『鷹宮さんの連絡先、教えて』
玲音は少し驚いた顔で透真を見る。
「ヒカリが、透真の連絡先を知りたいって」
「そうなんですか?」
透真は目を細めた。
「よかった。これでヒカリも透真のこと、わかってくれるかしら」
「かもしれないですね」
透真は少し考えるような仕草をした。
「……教えても大丈夫ですか?」
玲音へ判断を委ねるような問いだった。
教えないと言われれば、今は引く。
教えていいと言われれば、ヒカリへ直接触れられる。
どちらでも透真に損はなかった。
玲音は少しだけ迷った。
「うん。ちょっと微妙だけど……二人が仲良くなれるのなら」
「わかりました。じゃあ交換しておきますね」
透真は微笑み返した。
玲音の善意によって、二人の間に新しい扉が開いた。
けれど玲音には、その向こうで何が始まるのか知る術がない。
◇
その夜。
玲音が眠ったあと、透真のスマートフォンへ一通のメッセージが届いた。
差出人はヒカリ。
絵文字も、スタンプもない。
短い一文だけが表示されている。
『姉のことを本当に大事に思ってるなら、あたしの言うことも聞けるよね?』
剥き出しの挑戦状だった。
透真はベッドの中で画面を見つめる。
そして、ゆっくりと口角を上げた。
ヒカリの方から接触してきた。
警戒している相手ほど、近くへ引き寄せれば多くのものが見える。
何を知っているのか。
何を望んでいるのか。
どこまで両親へ話したのか。
透真の指は、迷いなく返信を打ち始める。
姉を守ろうとする妹。
妹を安心させたい姉。
姉妹を理解しようとする恋人。
玲音には、そう見えるだろう。
けれど実際には、静かな戦いが始まっていた。
屋敷は夜の中で、音もなく息づいている。
まるで、一度呑み込んだものを決して外へ返さない、巨大な生き物のように




