↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
優しい鳥籠は、鍵をかけない  作者: 雨音 優


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/18

第7話 安心と呼ばれる檻

 風呂上がりの玲音とヒカリがリビングへ戻ると、先ほどまでの緊張は嘘のように消えていた。

 父はテレビに視線を戻し、何事もなかったかのようにビールを飲んでいる。母は台所へ引っ込み、鼻歌を歌いながら洗い物をしていた。

 けれど母の目元には、まだわずかな赤みが残っている。

 玲音には、それが嬉し涙なのか、不安の名残なのかまではわからなかった。

「僕もお風呂、いただいてきますね」

 透真がそう告げ、浴室へ向かう。

「はい。ごゆっくりどうぞ」

 玲音はにっこり笑って、その背中を見送った。

 それから玲音はヒカリと並び、二階にある自分の元の部屋へ上がった。

「なんか、久しぶりにおうちに帰ってきた気がするー」

 玲音の声は明るかった。

「実際、久しぶりでしょ」

 ヒカリは振り返らずに答える。

「どんだけ音信不通だったと思ってんの」

 玲音が昔使っていた部屋は、時が止まったように残されていた。

 高校時代に貼ったポスター。

 本棚に並んだ参考書。

 使い古したデスクライト。

 机の端に残る、小さな傷。

 何もかもが懐かしい。

 けれど、その懐かしさは玲音の身体へまっすぐ届かなかった。薄い布を一枚挟んだように、景色だけが遠い。

 母が今も掃除をしているのだろう。部屋には埃一つなかった。

 ヒカリはベッドへぼすんと倒れ込み、スマートフォンを操作し始めた。

「お母さんから聞いたけど」

 画面から目を離さないまま、ヒカリが言う。

「あの人、会社やってるんだって?」

「うん。よく知らないけど」

 玲音は机の上に置かれた昔の写真立てへ目を向けた。

「透真のそばにいると安心するのよ」

 ヒカリの指が止まった。

「安心って……お姉ちゃん、それ本気で言ってる?」

 がばっと上体を起こす。

 玲音は振り返り、少し困ったように笑った。

「本気よ?」

 ヒカリはベッドから降り、玲音の前へ立った。腰に手を当て、眉を吊り上げている。

「あのさ、冷静に考えて」

 声を抑えている。

 透真がまだ階下にいるからではない。怒鳴れば姉が怯え、またあの男の側へ逃げてしまうことを、ヒカリ自身がわかっているからだった。

「いきなり現れて、いきなり一緒に住んで、仕事も住所も教えない男のどこが安心なの」

「ええっ。でも一緒に住んでるよ」

「ちょっと待って」

 ヒカリの目が見開かれる。

「一緒に住んでる? あの家に?」

「うん。おうちも大きいよ」

 玲音は何もおかしなことを言っていないように頷いた。

 ヒカリの唇が震える。

 恋人として付き合っているだけではない。

 姉は既に、あの男の家を自分の家として受け入れている。

「あたし、この前あの人の家のこと調べたんだけど」

 ヒカリは声をさらに落とした。

「法人登記も、公開されてる住所も確認できなかったの。会社なんかやってないかもしれないんだよ?」

「でも、透真が嘘をつく理由なんてないと思うの」

「理由がないんじゃなくて、お姉ちゃんが知らないだけでしょ」

 ヒカリは歯を食いしばる。

「仕事もよく知らない。住所もわからない。友達にも連絡できない。一人で自由に外へも出られない。それのどこが普通なの?」

「外には出てるよ。こうしてヒカリにも会えたし」

「それは、あの人がずっと一緒だったからでしょ?」

 玲音は答えに詰まった。

 けれど不安より先に、透真を庇わなければという気持ちが湧いた。

 ヒカリも両親も、透真のことを知らない。

 誰も信じてくれないのなら、せめて自分だけは信じてあげなければいけない。

「誰も信じてあげないなら、私が信じてあげなきゃ」

 玲音は静かに言った。

「透真のそばにいると、本当に安心するのよ」

 ヒカリは一瞬、言葉を失った。

 姉の声には迷いがなかった。

 だからこそ怖かった。

「大きな家? そんなの関係ない」

 声が震える。

「外に一人で出してもらえないんでしょ? 友達にも連絡できないんでしょ? それが普通だと思ってるの?」

「でも彼といると、とても安心するの」

「お姉ちゃん」

 ヒカリは玲音の両肩を掴んだ。

「それ、監禁って言うんだよ」

 その言葉が、部屋へ重く落ちた。

 玲音は瞬きをする。

 監禁。

 鉄格子。

 外から鍵を掛けられる扉。

 透真の許しがなければ出られない部屋。

 一瞬だけ、最初に鉄格子を見たときの冷たさが胸の奥を掠めた。

 自分は、あの部屋から出たいと思ったことがあっただろうか。

 思い出そうとすると、頭の奥がぼんやりと霞む。

 けれど透真の微笑みを思い出すと、そのざわめきはすぐに小さくなった。

「そんなことないわ」

「あるよ」

「決して嫌がることはしないわ。本当よ」

「嫌がることしない?」

 ヒカリの目に怒りが浮かぶ。

「じゃあ、なんであたしが電話したら『知らない番号』だったの?」

 玲音は答えられない。

「この前、お姉ちゃんのスマホの画面が見えたとき、位置情報をずっと共有する設定になってた。あれ、誰が入れたの?」

「それは……心配してくれてるからじゃないかしら」

「心配?」

 ヒカリは掴んでいた肩から、力なく手を離した。

 それから唇を噛む。

「あたし……お姉ちゃんがいなくなったらって思ったら、夜も眠れなかった」

 ぽろりと涙が落ちた。

「やっと帰ってきたのに、お姉ちゃん全然変で……あの人に洗脳されてるみたいで……」

「ヒカリ……」

 玲音の胸が締めつけられた。

 透真を疑うことはできない。

 けれど、目の前で泣いている妹を放っておくこともできない。

「大丈夫よ」

 玲音はヒカリへ手を伸ばした。

「お姉ちゃん、いなくならないからね。ヒカリの前から、いなくなったりしないよ」

 ヒカリは涙に濡れた目で姉を見つめる。

 その言葉を信じたい。

 けれど今の姉が思う「いなくならない」と、自分が願う意味が同じなのか、もうわからなかった。

 玲音にとっては、透真のもとにいたまま、ヒカリとの関係も失わないという約束だった。

 ヒカリにとっては、姉があの屋敷から戻ってくるという約束だった。

 階下から、風呂場の扉が開く音がした。

 続いて、ゆっくりとした足音。

 階段が一段ずつ軋む。

 時間がない。

「約束だからね。絶対」

 ヒカリは袖で乱暴に涙を拭った。

「うん。大丈夫」

 廊下から、足音が近づいてくる。

 こんこん、と控えめなノックが響いた。

「上がりました。入っても大丈夫ですか?」

 透真の声だった。

「うん。大丈夫です」

 玲音が答える。

 ヒカリは涙の跡を隠すように顔を背けた。

 扉が開く。

 透真の視線は、一瞬でヒカリの姿を捉えた。

 赤い鼻。

 泣いた跡のある目。

 強く握られた拳。

 何が話されたのか、すべてを聞かなくても十分だった。

 計画を急ぐべきではない。

 むしろ、ここでヒカリを刺激すれば、両親まで敵に回る。

 透真は何も言わず、柔らかく微笑んだ。

「ちょうどよかったです」

 タオルで髪を拭きながら、室内を見回す。

「……いいお部屋ですね」

 玲音が自分と出会う前に過ごした場所。

 自分の知らない時間が詰まった部屋。

 透真の微笑みは変わらなかったが、その目だけがほんの少し細くなった。

 ヒカリは玲音の隣へ腰を下ろした。

「今日はお姉ちゃんと寝るって言ったでしょ」

 透真を見ないまま言う。

 透真は一瞬だけ黙った。

「そうでしたね」

 その声は穏やかだった。

「では、僕はヒカリさんのお部屋をお借りします」

 玲音はヒカリと透真を交互に見る。

「おやすみ、透真」

「おやすみなさい、玲音さん」

 透真は玲音の頭をそっと撫でた。

「今日は久しぶりの実家で、疲れたでしょう。ゆっくり休んでください」

 ヒカリには何も尋ねず、透真は部屋を出た。

 扉が閉じる直前、透真とヒカリの視線が一瞬だけ重なった。

 どちらも笑わなかった。

 ◇

 玲音とヒカリは、並んで布団へ入った。

 灯りを消すと、見慣れたはずの天井が暗闇へ沈む。

 玲音はしばらく天井を見つめていた。

「昔も、こうして一緒に寝たわね」

「覚えてるの?」

 ヒカリの声は、暗闇の中で少しだけ震えていた。

「うん。なんとなく」

 玲音は答える。

 はっきりした場面は浮かばない。

 けれど隣にヒカリがいる感覚だけは、身体のどこかが覚えているようだった。

「ヒカリ、あったかいね」

「……子供じゃないんだから」

 ヒカリは背を向けた。

 けれど玲音から離れようとはしなかった。

 廊下を隔てた別の部屋では、透真が一人、見慣れない天井を見上げていた。

 ヒカリの部屋。

 机。

 本棚。

 大学の教科書。

 スイミングスクールの予定表。

 玲音を守ろうとする妹の生活が、そこにはあった。

 透真はしばらく目を閉じていた。

 廊下の先では、玲音とヒカリが同じ部屋で眠ろうとしている。

 今夜だけは、玲音の隣に自分はいない。

 それでも、焦りは表に出さなかった。

 ポケットからスマートフォンを取り出す。

 画面の光が、透真の顔を青白く照らした。

 共鳴コードの管理画面へ、短い記録を残す。

 ヒカリ。

 玲音の妹。

 姉への思いが強い。

 短期的な接触では警戒を解けない。

 具体的な方法は記さない。

 方法を急ぐ必要はない。

 時間は、透真の側にあるはずだった。

 透真はスマートフォンを伏せる。

 壁一枚、廊下一つ隔てた先に玲音がいる。

 それだけを確かめるように、暗い天井を見つめた。

 ◇

 翌朝。

 カーテンの隙間から陽光が差し込み、実家の朝が始まる。

 階下から味噌汁の匂いと包丁の音が漂ってきた。

 どこにでもある、ありふれた朝。

 それがいつまで続くのかは、まだ誰にもわからない。

「ヒカリ、おはよう」

 玲音は起き上がり、隣の布団へ声をかけた。

 ヒカリは布団を頭まで被っている。

「朝ごはんの匂い、美味しそう。降りましょ?」

「……いらない」

 昨日と同じ言葉だった。

 姉に会いたくないのではない。

 姉の後ろに立つ影と、同じ食卓に座ることが怖いのだ。

「ね? 起きようよ。お姉ちゃん、ヒカリと一緒にごはん食べたいなぁ」

 しばらくして、布団がもぞもぞと動いた。

 ヒカリが半分だけ顔を出す。

 目の下には、はっきりと隈ができていた。

「……三分だけ待って。顔洗う」

 三分と言ったが、実際には五分近くかかった。

 パジャマのまま部屋から出てきたヒカリは、階段の方へ目をやる。

「あいつは?」

「あいつ?」

 玲音は首を傾げる。

「ああ、透真のこと? もうリビングでお父さんとお母さんとお話してるよ」

「別に。いないならいい」

 ヒカリは首を横に振った。

 二人は並んで階段を降りた。

 昨夜のことなど何もなかったように、ヒカリは前だけを見ている。

 ただ、姉の腕へほんの少しだけ近い距離を保っていた。

 その距離が、玲音にはどこか懐かしく、少しだけ嬉しかった。

「おはよう。ヒカリもちゃんとごはん食べるって」

 玲音が明るく告げる。

 食卓には、ヒカリの分だけ箸が出ていなかった。

「あら、おはよう! 鷹宮さんもよく眠れました?」

「おかげさまで」

 透真は爽やかに微笑む。

「素敵なお家ですね。居心地がよくて」

「まあ、嬉しい」

 母は笑った。

 けれどすぐ、ヒカリの顔を見て眉を寄せる。

「もう、ちゃんと起こしてって言ったのに。ほら、顔色悪いわよ」

 ヒカリは何も答えず席へ着いた。

 母はしばらくその横顔を気にしていたが、何も聞かずにヒカリの箸を用意する。

 焼き鮭。

 味噌汁。

 漬物。

 卵焼き。

 父は既にテーブルへ座り、新聞を広げている。

 ヒカリは黙々と味噌汁を啜った。

 父が新聞を畳む。

「今日、予定はあるのか」

 透真へ向けた問いだった。

「いえ、特には」

「なら、うちの周りでも案内してやったらどうだ。散歩がてら」

 父にしては珍しい提案だった。

 追い出すつもりなら、帰れと言えばいい。

 それを案内すると言うのは、まだ透真を見極めきれていないからだ。

「いいんですか? ぜひお願いします」

 透真は嬉しそうに答えた。

「わぁ、いいね! いいアイデアだと思うわ」

 玲音も目を輝かせる。

「ヒカリももちろん行くでしょ?」

 ヒカリの箸が止まった。

 一瞬だけ透真を見て、すぐに逸らす。

「……あたしはパス」

「えー」

 母が不満そうな声を漏らす。

「課題あるし。お土産はいらないから」

 ヒカリは味噌汁を飲み干した。

「そっか……じゃあ、またあとでね」

 玲音は寂しそうに笑った。

 ヒカリは小さく頷くだけだった。

 ◇

 朝食を終え、玲音と透真、両親の四人は家を出た。

 ヒカリは二階の窓から、その姿を見送っていた。

 四人が角を曲がると、すぐにカーテンが閉じた。

 都心の屋敷とは違い、この街には電柱があり、庭先には洗濯物が揺れている。

 犬を散歩させていた近所の女性が、玲音へ声をかけた。

「あら、玲音ちゃん。久しぶり!」

 玲音は驚きながら手を振る。

 名前を呼ばれるたび、昔の自分の輪郭が少しだけ戻ってくる気がした。

「いい空気ですね。空が広い」

 透真が深呼吸する。

 母は嬉しそうに先導した。

「こっちがね、玲音が小さい頃よく行った公園。で、あっちがヒカリが生まれた病院」

「こうしてみると、結構狭いのね」

 玲音は公園の遊具を指さした。

「あそこでよく遊んだなぁ」

「子供には広かったのよねぇ」

 母がくすっと笑う。

 父はベンチへ腰掛け、古びたブランコを見る。

「ここで玲音がブランコから落ちて、大泣きした」

「そうそう!」

 母が手を叩いた。

「ヒカリがおぶって帰ったのよねぇ。あの子、まだ三歳なのに」

 玲音は笑った。

 その光景を、はっきり思い出すことはできない。

 けれど両親の言葉を聞いていると、自分にも確かに透真のいない時間があったのだと感じられた。

 透真は柔らかい笑顔で聞き役に徹している。

 相槌の間も、視線の置き方も自然だった。

 母はすっかり気をよくしている。

「鷹宮さんは、ご兄弟とかいらっしゃるの?」

 ふと真面目な顔になって尋ねる。

 透真の返答まで、一瞬だけ間があった。

「一人っ子なんです」

 柔らかく笑う。

「だから、兄弟がいるの、羨ましくて」

 その言葉に、嘘の匂いはなかった。

 少なくとも透真自身は、それを事実だと信じているようだった。

「あら、じゃあヒカリとも仲良くしてあげてね」

 母が明るく言う。

「あの子、ちょっと人見知りなだけだから」

 玲音は透真を見て微笑んだ。

 母が透真を気に入ってくれている。

 それが純粋に嬉しかった。

 父は少し後ろを無言で歩いていた。

 時折、透真が何を見ているかを横目で観察している。

「そろそろ戻るか。このあと用事がある」

 父が立ち上がり、身体を伸ばした。

 帰り道、父は不意に透真の横へ並んだ。

 低い声で、何かを話す。

 透真が一度だけ頷く。

 玲音には、その内容までは聞き取れなかった。

 ただ、二人の間に朝とは違う緊張が流れたことだけはわかった。

 ◇

「もう帰っちゃうの? もうちょっとゆっくりしていけばいいのに」

 玄関の鍵を開けながら、母が名残惜しそうに振り返った。

「また来るよ」

 玲音は笑う。

 透真も深く頭を下げた。

「ありがとうございます。必ずまた来ます」

 父は用事へ向かおうとして、足を止めた。

「また来い」

 背を向けたまま、それだけ言う。

 母が目を丸くした。

 父がその三文字を口にすることが、どれほど珍しいのか。

 玲音の胸が明るくなる。

 透真は認めてもらえた。

 少なくとも玲音には、そう見えた。

「はい」

 透真は静かに答えた。

「ありがとうございます」

 けれど父の「また来い」は、承認だけを意味するものではなかった。

 もう一度会う。

 もう一度見る。

 そのための言葉でもあった。

 車が動き出す。

 実家がバックミラーの中で、小さくなっていった。

「いいご家族ですね」

 透真がハンドルを握りながら、ぽつりと言う。

「ふふっ。いいでしょ?」

 玲音は嬉しそうに微笑んだ。

「でも透真、気疲れしなかった? 大丈夫?」

「大丈夫ですよ」

 信号待ちで、透真はふっと笑う。

「お父さんには気に入ってもらえたと思います。……たぶん」

 帰路は順調だった。

 高速へ入り、景色が住宅街からビル群へ変わっていく。

 お土産は何がいいか。

 次に来るときは何を持っていくか。

 他愛のない会話が続いた。

 やがて透真が、少し真剣な声を出す。

「ヒカリさんのことなんですけど」

「うん。ヒカリがどうしたの?」

「昨日、何を話してたんですか?」

 問い詰めるような口調ではなかった。

 ただ知りたいだけ。

 そう聞こえる声だった。

 けれど透真の中では、玲音に何を吹き込まれたのか、その内容を確かめるための問いでもあった。

 玲音は隠そうとは思わなかった。

「私のこと、本当に純粋に心配しててね」

「そうですか」

「お姉ちゃんじゃないみたいっていうのよ」

 玲音は小さく笑う。

「私は私なのにね」

「ほかには?」

「透真の会社とか、おうちのこととか。私が自由に外へ出られないんじゃないかって」

 透真の指が、ハンドルの上でわずかに止まる。

「監禁されてるって言われたわ」

 車内へ短い沈黙が落ちた。

 透真は前を向いたまま、穏やかに息を吐く。

「きっと、姉が取られるのが寂しいんですよ」

「そうなのかしら」

「思春期ですし」

 その分析は、完全な間違いではなかった。

 ヒカリが姉を奪われることを恐れているのは事実だ。

 けれど全部ではない。

 ヒカリが恐れているのは、檻の中の鳥が「ここは居心地がいい」と笑っていることだった。

 助けようと伸ばした手を、姉自身に拒まれることだった。

「僕のこと、あまりよく思ってないみたいですね」

 透真は前を向いたまま言う。

「玲音さんはどう思います?」

 穏やかな声。

 けれどどこか探るようだった。

「あの子、僕に対して敵意があるっていうか……ただの人見知りじゃないですよね」

「敵意っていうか」

 玲音は少し考える。

「あの子、まだ透真のことわかってないだけだと思うのよ。時間をかければ、きっと大丈夫よ」

「そうですよね」

 透真は小さく息を吐く。

「時間をかければ、わかってもらえますよね」

 少し安心したような声だった。

 けれどその言葉の意味は、玲音が考えているものとは違っていた。

 信号待ちで車が止まる。

 透真は玲音の手へ、そっと自分の手を重ねた。

「僕は玲音の味方ですから」

 玲音は嬉しそうに微笑む。

「誰に何と言われても?」

「ええ。誰に何と言われても」

「ふふっ。ありがとう。優しい透真が大好きよ」

 信号が変わる。

 透真は手を離し、再びハンドルを握った。

 ◇

 屋敷へ着いたのは、夕方近くだった。

「ただいま」

 玲音が言うと、メイドたちが一斉に頭を下げる。

 日常が戻ってきた。

 この屋敷にとっては、外に出ていた時間の方が異常だったのだろう。

 玲音はリビングへ荷物を置き、ソファへ腰を下ろした。

「疲れたでしょう。今日は早めに休みましょうか」

 透真が微笑む。

 その時、玲音のスマートフォンが震えた。

「あら?」

 画面には、ヒカリからの短いメッセージが表示されていた。

『鷹宮さんの連絡先、教えて』

 玲音は少し驚いた顔で透真を見る。

「ヒカリが、透真の連絡先を知りたいって」

「そうなんですか?」

 透真は目を細めた。

「よかった。これでヒカリも透真のこと、わかってくれるかしら」

「かもしれないですね」

 透真は少し考えるような仕草をした。

「……教えても大丈夫ですか?」

 玲音へ判断を委ねるような問いだった。

 教えないと言われれば、今は引く。

 教えていいと言われれば、ヒカリへ直接触れられる。

 どちらでも透真に損はなかった。

 玲音は少しだけ迷った。

「うん。ちょっと微妙だけど……二人が仲良くなれるのなら」

「わかりました。じゃあ交換しておきますね」

 透真は微笑み返した。

 玲音の善意によって、二人の間に新しい扉が開いた。

 けれど玲音には、その向こうで何が始まるのか知る術がない。

 ◇

 その夜。

 玲音が眠ったあと、透真のスマートフォンへ一通のメッセージが届いた。

 差出人はヒカリ。

 絵文字も、スタンプもない。

 短い一文だけが表示されている。

『姉のことを本当に大事に思ってるなら、あたしの言うことも聞けるよね?』

 剥き出しの挑戦状だった。

 透真はベッドの中で画面を見つめる。

 そして、ゆっくりと口角を上げた。

 ヒカリの方から接触してきた。

 警戒している相手ほど、近くへ引き寄せれば多くのものが見える。

 何を知っているのか。

 何を望んでいるのか。

 どこまで両親へ話したのか。

 透真の指は、迷いなく返信を打ち始める。

 姉を守ろうとする妹。

 妹を安心させたい姉。

 姉妹を理解しようとする恋人。

 玲音には、そう見えるだろう。

 けれど実際には、静かな戦いが始まっていた。

 屋敷は夜の中で、音もなく息づいている。

 まるで、一度呑み込んだものを決して外へ返さない、巨大な生き物のように

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。