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優しい鳥籠は、鍵をかけない  作者: 雨音 優


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第6話 家族という名の外堀

屋敷へ戻った頃には、夜もすっかり更けていた。

 重い門が閉じ、黒い車が玄関前へ滑り込む。扉の前には、いつものように使用人たちが整列していた。

 誰も、玲音がどこへ行っていたのか尋ねない。

 誰も、透真の表情を気に留めない。

 ここでは、透真の決定が日常そのものだった。

「そうだよ。ずっと一緒」

 車を降りる前、透真は満足そうに口角を上げた。

 玲音はその言葉に安心したように微笑む。

 けれど、自室へ戻ったあとも、ヒカリの顔が頭から離れなかった。

 怒った顔。

 呆れた顔。

 怖い、と言ったときの目。

 どれも懐かしいはずなのに、薄い霧の向こうにある景色のように遠かった。

「何度か会えば、わかってもらえるよね」

 玲音はベッドへ腰を下ろし、枕元のぬいぐるみを抱き寄せる。

「透真はとっても安心するのに、ヒカリはなんであんなに警戒してるのかしらね?」

 答えは返ってこない。

 玲音はしばらく考えていたが、やがて瞼が重くなった。

 屋敷の夜は静かで深い。窓の向こうには月明かりが滲み、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。

 玲音の呼吸が穏やかになる頃、透真はまだ眠っていなかった。

 玲音を部屋へ送り届けたあと、書斎へ向かっていた。

 暗い室内に、モニターの青白い光だけが灯る。

 透真は椅子に深く腰掛け、キーボードへ指を置いた。

 画面には、ヒカリについての記録が開かれていた。

 玲音の妹。

 血縁。

 姉への影響が強い。

 警戒心が高く、観察力もある。

 真正面から圧力をかければ、かえって騒ぎを大きくする。

「妹、か。……排除するだけなら簡単でも、騒がれると面倒だな」

 低い声が、誰もいない書斎へ落ちた。

 透真は画面を見つめる。

 直接触れられないなら、その周囲から形を変えればいい。

 家族が、玲音と透真の関係を自然なものとして受け入れる。

 両親が認め、周囲が祝福する。

 そうなれば、ヒカリ一人が反対しても、その言葉はただの感情的な拒絶に見える。

 透真は静かにキーボードを叩いた。

 外堀を埋める。

 それは、閉じ込めるよりもずっと穏やかな方法に見えた。

 ◇

 数日後の朝。

 玲音が朝食の席に着くと、執事が一通の封書を運んできた。

「玲音様宛てでございます」

 差出人を見た瞬間、玲音は目を見開いた。

「ヒカリから?」

 封筒は、やけに分厚かった。

 中には手紙と、数枚の写真が入っていた。

 幼い玲音とヒカリが並んで笑っている写真。

 中学の卒業式。

 少し色褪せたプリクラ。

 肩を寄せ、変な顔をして笑っている二人。

 玲音は一枚ずつ指先でなぞった。

 胸の奥に、小さな痛みが走る。

 懐かしい。

 そう思うのに、いつの出来事だったのかうまく思い出せない。

 顔は知っている。

 空気も知っている。

 けれど、その場にいた自分だけが薄い。

 写真の端に触れた指が、理由もなく小さく震えた。

 手紙には、丸みを帯びた文字が並んでいた。

 『お姉ちゃんへ。

 お母さんが会いたがってる。

 近いうちに実家へ来て。

 あたしも話したいことがあるから。』

 玲音はしばらく手紙を見つめた。

 やがて、少し霞のかかったような面持ちで透真を見る。

「透真……」

「なに?」

「会いに行ってもいい? ヒカリが会いたがってるの」

 透真はコーヒーカップを口元で止めたまま、数秒間玲音を見つめた。

「もちろんいいよ」

 あまりにもあっさりとした返事だった。

 玲音の方が面食らったように瞬きをする。

「いいの?」

「玲音のご両親にも、ちゃんとご挨拶しておきたいから」

 透真はにこりと笑った。

 そして、カップをソーサーへ戻す。

「ただ、僕も一緒に行っていいかな? ヒカリさんにも改めて挨拶したいし」

 許可するような言葉だった。

 けれど、玲音が一人で行くという選択肢は、最初からそこにはない。

 玲音は嬉しそうに頷いた。

「うん。じゃあヒカリと両親に連絡しておくね」

 朝食を終えると、玲音はすぐにヒカリへ電話をかけた。

「透真も一緒だけどいい?」

 電話の向こうで、長い沈黙があった。

 やがて返ってきたのは、短い声だった。

『……わかった』

 玲音はその間に引っかかることなく、嬉しそうに通話を終えた。

 母からの返信は、さらに早かった。

『ぜひいらっしゃい! お父さんも会いたいって!』

 絵文字の並んだ明るい文面。

 単身赴任中の父も、わざわざ戻ってくるらしい。

「お父さんも来るんだ。よかった、ちゃんとした格好していかないとね」

 透真は頬杖をつきながら、玲音がメールを打つ姿を眺めていた。

 玲音は少し首を傾げる。

「うん。でもなんだか、大事になってる気がするんだけど」

「大事に決まってるよ。娘の彼氏が来るんだから」

 透真はくすっと笑った。

「家族公認になれば、もっと堂々とできるでしょ?」

 堂々と。

 以前なら、屋敷の外へ出るための言葉だったかもしれない。

 今の玲音には、透真との関係を誰にも隠さなくてよくなる、幸せな響きにしか聞こえなかった。

 訪問日は三日後に決まった。

 ◇

 それから二日後、訪問前日の夜。

 透真はクローゼットの前に立ち、三本のネクタイを並べていた。

「第一印象で全部決まる。……完璧にやらないと」

 鏡に映る目には、冷たい戦略家の色が宿っている。

 どの色なら父親に軽薄に見えないか。

 どの結び方なら母親に堅苦しすぎる印象を与えないか。

 靴。

 時計。

 手土産。

 話す順番。

 すべてを計算している。

 玲音はベッドの近くから、その背中を少し心配そうに見ていた。

「そんなに気合いを入れなくてもいいのに……」

 透真の手が止まる。

 玲音は優しく微笑んだ。

「私は今の透真が大好きだよ」

 鏡越しではなく、透真は振り返って玲音を見た。

 冷たい計算が、一瞬だけ溶けたように見えた。

 耳の先がうっすら赤くなる。

「……ずるいな、そういうの」

 照れたように目を逸らし、咳払いを一つした。

 玲音は嬉しそうに笑った。

「うん。いつも通りの透真がすてきよ」

「ありがとう」

 透真はベッドの縁へ腰を下ろし、玲音の手を取った。

「じゃあ明日は、いつもの僕で行くよ」

 指を絡める。

 そこにある温度だけは、計算ではなかった。

「明日のためにも今日は早く寝ましょう」

「そうだね。おやすみ、玲音」

 名残惜しそうに指を絡めたまま、やがて透真はそっと手を離した。

 玲音の額へ口づけを落とし、部屋を出る。

 玲音が寝息を立て始めた頃、隣の棟ではまだ明かりがついていた。

 透真はタブレットの前へ座り、玲音の家族について整理していた。

 父は真面目で堅物。

 母は世話焼きで情に厚い。

 玲音が幸せそうに見えれば、母は信じたがる。

 けれど、娘が泣けば一気に感情が崩れるだろう。

「家族構成、父親、母親、妹。父は単身赴任から戻るほどの愛情。母は社交的で感情が強い」

 透真は画面を見つめる。

「……弱点は母親だな」

 暗い室内で、液晶の光だけが顔を照らしていた。

 玲音の母親を傷つけたいわけではない。

 父親を騙したいわけでもない。

 透真の中では、本当にそうだった。

「大丈夫。誰も傷つけない。ただ僕と玲音が一緒にいられるようにするだけだから」

 それが、彼なりの誠実さだった。

 歪んでいても。

 奪うことと守ることが、彼の中では矛盾なく一つになっていた。

 ◇

 訪問当日。

 玲音は助手席で、落ち着かない様子でシートベルトを何度も触っていた。

「あ、あのね……」

「うん?」

「き、きっと両親とヒカリは透真にあれこれ聞くと思うの。だから、その……ごっ、ごめんなさい!」

 透真は信号待ちで車を止め、玲音を横目で見た。

 そわそわとする姿が小動物のようで、思わず口元が緩む。

「謝ることなんてないよ」

「でも……」

「むしろ聞いてくれた方がいい。ちゃんと考えてるんだって伝わるから」

 信号が変わる。

 透真はゆっくりアクセルを踏んだ。

 車は郊外の住宅街へ入っていく。道幅は少しずつ狭くなり、古い家屋が増えていった。

 やがて一軒のこぢんまりとした二階建ての家が見えてきた。

「あっ、あそこ!」

 玲音が声を上げる。

 庭先には、エプロン姿のまま小柄な女性が立っていた。

 その少し後ろには、がっしりした体格の父親が立っていた。

 透真は車を停めると、一度だけ深呼吸をした。

 それから、完璧な笑顔を浮かべて車を降りる。

 玲音は先にドアを開け、ぱたぱたと母親のもとへ駆けていった。

「お母さん! 久しぶり……! 元気してた?」

「あんたこそ!」

 母は顔をくしゃっと歪めた。

「連絡もなしに、もう。心配してたんだから!」

 エプロンで手を拭きながら玲音へ駆け寄り、その身体をぎゅっと抱きしめる。

 玲音も母の背中へ腕を回した。

 懐かしい匂いがした。

 透真の屋敷にはない、洗剤と料理と暮らしの匂い。

 胸の奥が少しだけ痛んだ。

 玲音は母の肩越しに、無意識に透真の姿を探した。

 少し離れた場所に彼がいるのを確認すると、胸の奥の揺れがわずかに落ち着いた。

 父は後ろで腕を組み、鼻をすんと鳴らして顔を背けた。

 泣きそうなのを隠しているらしい。

「お母さんとお父さんだよ」

 玲音は抱擁を解くと、透真を手招きした。

 透真は家族の再会が落ち着くまで、少し離れた場所で静かに待っていた。

 急かす素振りはない。

 頃合いを見計らい、ゆっくりと歩み寄る。

 手には、菓子折りの紙袋と花束があった。

「初めまして。鷹宮透真と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

 背筋を伸ばし、深く丁寧に頭を下げる。

 母は目を丸くした。

「あらあらまあまあ。大きい人ねぇ! どうぞどうぞ上がって! ご飯も作ったのよ!」

 父は透真をじろりと見た。

 何も言わず、背を向けて家の中へ入っていく。

 二階の窓には、一つだけカーテンが引かれていた。

 その隙間に、かすかな人影が見えた。

 ヒカリはまだ降りてこない。

 ◇

 食卓には、母の料理が所狭しと並んでいた。

「玲音の好きなポテトサラダも作ったのよ」

「わぁい、ありがとうお母さん!」

 玲音は目を輝かせる。

 母と並んでキッチンへ立ち、料理を盛りつける。その姿は、透真の屋敷にいるときよりも少しだけ年下に見えた。

 父と透真は先にテーブルへ着いていた。

「お父さんと透真は、お酒飲む?」

 玲音が嬉しそうに二人を交互に見る。

「出せ」

 父はどっかりと座ったまま、顎をしゃくった。

 透真は苦笑する。

「じゃあ、少しだけいただきます」

 母がビールと日本酒を手際よく並べ、食卓が賑やかになる。

 父は黙って透真を観察していた。

 仕事。

 姿勢。

 箸の持ち方。

 酒の飲み方。

 一つずつ値踏みしている。

 透真はその視線を知りながら、自然に振る舞った。

「美味しいです。玲音さんが好きなの、わかりますね」

 ポテトサラダを口へ運び、少し目を見開く。

 母は嬉しそうに手を振った。

「やだもう、上手なんだから! 玲音もこれくらいお世辞が言えればいいのにねぇ」

「やだ、お母さん」

「本当に美味しいです。お酒にも合いますね、この味付け」

 父が黙々と食べていた手を止める。

「……悪くない」

 それが料理への感想なのか、透真への評価なのかはわからなかった。

 酒が進むにつれ、父の口数は少しずつ増えた。

 職場の愚痴。

 釣りの話。

 近所に居ついた野良猫のこと。

 玲音は透真と父が会話をしていることが嬉しくて、何度も二人の顔を見比べた。

 けれど父の視線は、会話の間も透真の手元や表情を追っていた。

 酒で口数が増えても、観察をやめたわけではない。

「ねえねえ鷹宮さん、お仕事は何を? 玲音とはどこで知り合ったの?」

 料理を運び終えた母が、透真の隣へ座る。

 来た。

 透真の背筋が、わずかに伸びた。

 玲音は慌てて口を挟む。

「ええと、それは私が後でお母さんに話すから!」

「えー、気になるじゃない」

 母がきょとんとする。

「後でいいだろ。冷める前に食え」

 父がビールを一口飲み、場を収めた。

 けれど「後で」は、聞かないという意味ではなかった。

 母の好奇心は消えず、箸を動かしながら何度も透真を見ている。

 やがて母はふと箸を置いた。

 それまでの明るい表情が、少しだけ真面目になる。

「ねえ鷹宮さん。玲音のこと、大事にしてくれてる?」

 空気が変わった。

 父もビール缶を持ったまま動きを止める。

 玲音は慌てるように笑った。

「透真は私のこと、すごく大事にしてくれるよ」

 けれど透真は、玲音の言葉に任せなかった。

 静かに箸を置く。

 まっすぐ母の目を見た。

「はい。世界で一番大事な人です」

 大袈裟なはずの言葉なのに、その声には一切の誇張がなかった。

 透真にとって、それは嘘ではない。

 玲音は世界で一番大事だった。

 だから閉じ込めた。

 だから記憶を変えた。

 だから外の世界から守ろうとした。

 母は目を潤ませた。

 透真の言葉を、信じたいと思い始めているようだった。

「まあ……いい人じゃないの。ねえ、お父さん」

 父は鼻を鳴らし、もう一本ビールを開けた。

「ふん」

 そのとき、階段が軋む音がした。

 全員の視線が向く。

 ヒカリが、パーカーとジーンズ姿で階段を降りてきた。髪には少し寝癖が残っている。

「遅くなった。……別に待ってなくてよかったのに」

 テーブルには着かず、壁へもたれたまま透真を見る。

「ヒカリ! ごはんあるわよ!」

 母が慌てて立ち上がろうとする。

「いらない」

 ヒカリは首を振った。

 玲音は嬉しそうに手を振る。

「ヒカリ! ただいま。ねえねえ、お土産にケーキあるよ?」

 ヒカリの目が一瞬だけ、テーブルの上の箱へ向いた。

 数秒の葛藤のあと、のそのそと椅子を引く。

 玲音から一番遠い席だった。

「ふーん」

 興味がなさそうな返事とは裏腹に、切り分けられたケーキを口へ運ぶ手は止まらない。

「で? 今日は何の集まりなわけ」

「何って、お食事会よ! 鷹宮さんがいらしてくれたの!」

 母が嬉しそうに答える。

 ヒカリは透真を一瞥する。

 目が合うと、すぐに逸らした。

 それから、不意に玲音へ聞く。

「お姉ちゃん、今日泊まるの?」

「今日? 今日はどうしよっか、透真?」

 玲音が振り返る。

 透真は少し考えるような仕草をした。

「せっかくですし、泊まっていきましょうか。ご迷惑でなければ」

「もちろんよ!」

 母がぱんっと手を合わせた。

「お布団出すわね! 玲音の部屋、そのままにしてあるから!」

「客用の布団なんかあったか」

 父がぼそりと言う。

「あっ」

 母は口元を押さえた。

「鷹宮さんの分……どうしよう」

 ヒカリがケーキのクリームを指で拭いながら、ぽつりと言う。

「あたしのベッド使えば。あたし、お姉ちゃんとこで寝る」

 透真の指先が、膝の上で一度だけ止まった。

 母の顔がぱっと明るくなる。

「いいじゃないの! 昔はよく一緒に寝てたもんねぇ」

 玲音も嬉しそうに笑う。

「ふふっ。久しぶりに一緒に寝よっか、ヒカリ」

「……子供じゃないんだから、変なことしないでよね」

 ヒカリは顔を背けた。

 けれど、その口元は少しだけ緩んでいた。

 透真は穏やかに笑った。

「ありがとう、ヒカリさん。じゃあお言葉に甘えて」

 誰も気づかないほど小さな間が、その返事の前にあった。

 玲音とヒカリが二人きりになる。

 それがヒカリの狙いであることを、透真は理解していた。

 ◇

 食後、玲音とヒカリは先に浴室へ向かった。

 リビングには、透真と両親だけが残された。

 母は台所で洗い物をしている。

 父はソファへ移動し、テレビをつけていた。

 透真も向かいのソファを勧められ、腰を下ろす。

 バラエティ番組の笑い声が流れている。

 けれど、誰も見てはいなかった。

「おい」

 父が低い声で呼ぶ。

「はい」

「あいつのこと、どう思ってる」

 テレビを見たままの問いだった。

 けれど声には、冗談の余地がない。

 透真は背筋を正した。

「一生そばにいたいと思っています。結婚も考えています」

 父の手が、ビール缶を握る。

「仕事は」

「都内で会社を経営しています」

 短い沈黙。

 ヒカリに話した「PC関係の自営業」と、完全に矛盾する言葉ではなかった。

 けれど、相手によって説明の形を変えていることだけは確かだった。

 父はようやく透真を見た。

 真正面から。

「娘を泣かせたら殺すぞ」

「ちょっとお父さん! 物騒なこと言わないの!」

 母が台所から顔だけを出す。

 透真は視線を逸らさなかった。

「泣かせません」

 迷いのない返事だった。

 それもまた、透真にとっては本心だった。

 玲音が苦しむことを望んでいるわけではない。

 玲音が離れようとしなければ。

 玲音が自分だけを見ていれば。

 永遠に幸せにするつもりだった。

 父はしばらく透真を見ていた。

 やがて視線をテレビへ戻す。

 それ以上は何も言わなかった。

 やがて浴室の方から、玲音の明るい声が聞こえる。

「お風呂あがりましたー」

 ヒカリと一緒に戻ってきた玲音は、頬を赤くして笑っていた。

「あれ? お父さんたち、どうしたの?」

「別に」

 父はぶっきらぼうに答えた。

 透真がソファから立ち上がる。

「おかえり。僕もお風呂いただいていいですか?」

 父は少しだけ間を置いた。

 それから、浴室の方を顎で示す。

「タオルは洗面台の下だ」

 たったそれだけだった。

 泊まっていけとも、認めたとも言わない。

 けれど拒みもしなかった。

 父なりの、不器用な歩み寄りだった。

「ありがとうございます」

 透真は深く頭を下げた。

 母は安心したように微笑む。

 玲音も嬉しそうに父と透真を見比べていた。

 その夜、家族の食卓は一見、穏やかに終わった。

 母は透真を信じたいと思い始めた。

 父は警戒を残しながら、家へ入れることを許した。

 玲音は家族に恋人を紹介できたことを喜んでいる。

 けれど二階では、玲音の部屋が当時のまま残されていた。

 写真。

 服。

 昔の小物。

 透真の知らない玲音を形作っていたものが、まだそこにある。

 そして今夜、玲音はヒカリと二人きりで眠る。

 家族公認という新しい足場を築きかけた透真と。

 姉の記憶を呼び戻そうとするヒカリ。

 同じ屋根の下で、二人は互いに姿を見せないまま、玲音の心へ手を伸ばしていた。


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