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優しい鳥籠は、鍵をかけない  作者: 雨音 優


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第5話 一人で来なよ

透真は玲音の左手を取った。

 何気ない仕草だった。けれど、その指先は少しだけ熱を帯びていた。玲音の手の甲を撫で、ゆっくりと薬指へ触れる。

「いつかここに、ちゃんとしたの嵌めてあげるから」

 そう言って、薬指に唇を落とした。

 玲音は幸せそうに透真へ寄り添う。

 何を約束されたのか、深く考えたわけではなかった。ただ、その指に触れられると胸の奥が甘く満たされる。透真が望む未来なら、きっとそれは安全で、あたたかいものなのだと思えた。

「よろしくね、じゃないよ。こっちの台詞」

 透真は静かに微笑んだ。

 その瞳の奥には、柔らかな愛情と、逃がさないという冷たい熱が同じ色で沈んでいた。

 午後は、緩やかに過ぎていった。

 二人で映画を観た。庭を少し歩いた。他愛もない話で笑った。屋敷の中はどこまでも穏やかで、どこまでも閉じていた。

 夕方になると、透真は玲音を浴室へ送り出し、「今日は早めに休もう」と言ってベッドへ誘った。

 夜が深くなる。

 白いシーツの中で、玲音は透真の腕に包まれていた。部屋には静かな空気が満ちている。窓の外の闇も、鉄格子の影も、今の玲音には遠かった。

「玲音の居場所はここだよ。ここだけ」

 透真は横になった玲音の髪を指で梳きながら、穏やかな声で語りかける。

「あったかいでしょ?」

 子守唄のような声だった。

 目を開けているときよりも、眠りに沈みかけているときのほうが、その声は深く入ってくる。拒む力のない場所へ、やさしく、何度も。

「ここが帰る場所。僕と玲音の家」

 玲音の呼吸がゆっくりになる。

 透真にそっと寄り添ったまま、無意識の中でも甘えるように頬を寄せる。

「……たくまと私のおうち」

 寝言のように、玲音が呟いた。

「……ここは、わたしのおうち」

 透真の腕に力が入った。

 その一言を聞いた瞬間、彼の目が潤む。眠っている玲音をきつく抱きしめ、髪に顔を埋めた。

「……そうだよ。ここは二人の家」

 声は震えていた。

 屋敷は、もう玲音にとって囚われの場所ではなくなりつつある。

 帰るべき場所。

 透真のいる場所。

 玲音の居場所。

 その認識が、眠りの底で静かに根を張っていく。

 ◇

 翌朝、食卓には温かい紅茶と軽い朝食が並んでいた。

 第四段階の二日目。

 けれど玲音は、そんな言葉を知らない。ただ目の前の食事を眺め、透真が隣にいることに安心している。

「ねえ、玲音って学生の頃なに部だった?」

 朝食の席で、透真が何気なく尋ねた。

 玲音はフォークを置き、少し考える。

「えっ、私、私はね……」

 記憶の奥へ手を伸ばす。

 制服。校舎。放課後の廊下。古い機材の匂い。マイク。音量のつまみ。

 その景色は、最初からあったようにも、今ここで浮かび上がったようにも思えた。

「放送部だったの」

 玲音はちょっと照れたように笑う。

「サブミキサーだったのよ」

「へえ、すごいじゃん」

 透真は感心した顔をしてみせた。

「じゃあイベントとかで裏方やってたの? 想像つかないな、玲音が裏でコソコソしてるの」

 玲音は茶目っ気たっぷりに笑った。

「うん、とってもおっちょこちょいで、みんなをヒヤヒヤさせてたよ」

「サブミキサーがおっちょこちょいって、それ大事故でしょ」

 透真が声を上げて笑う。

 玲音も一緒に笑った。

 楽しそうな朝だった。

 けれど、その記憶の中にいるはずの友人たちの顔は、ひどく曖昧だった。誰が隣にいたのか。誰に叱られたのか。誰と笑ったのか。

 思い出せない。

 でも、放送部だったという確信だけはあった。

「その放送部の仲間って今も会ってるの?」

 透真がふと尋ねる。

 玲音は首を傾げた。

「んー、どうかな。みんな忙しいから。お話してないかも」

「そっか。まあ社会人になると疎遠になるよね。仕方ないよ」

 透真は少し寂しそうな顔を作った。

 その表情に、玲音の胸がきゅっとした。

 寂しいことなのかもしれない。

 でも、不思議と痛みはなかった。

 遠い誰かの顔より、今ここにいる透真の手のほうがはっきりしている。

「うん、でも透真がいるからいいの」

 玲音はにこっと笑った。

「透真、大好きよ」

 透真の表情が満たされたように緩む。

「僕も。ずっと一緒にいようね」

 テーブル越しに、透真の手のひらが玲音の頬に触れた。

 玲音はその手に、そっと頬をすり寄せる。

「うん。ずっと一緒ね」

 ◇

 昼食の後、透真は「ちょっと仕事がある」と言って書斎へ入った。

 玲音はそれを疑わなかった。透真はいつも忙しい。けれど、いつも玲音のために時間を作ってくれる。

 一時間ほどして戻ってきた透真は、小さな箱を持っていた。

「はい、これ。お土産」

 上品なネイビーの包装紙に包まれた箱だった。ヒカリへの手土産だという。メッセージカードには、丁寧な字で一言が添えられている。

 玲音は目を輝かせた。

「わーい。楽しみね」

「来週あたり会いに行こうか」

 透真はにこりと笑う。

「ヒカリちゃんの住んでるところ、前にちょっと聞いたことあったよね。どの辺だっけ?」

「えっとね」

 玲音は嬉しそうに答えた。

「西調市の三山台だよ」

「三山台ね。了解」

 透真はスマホにさらさらとメモを打ち込んだ。

 玲音にとっては、妹に会うための準備だった。

 透真にとっては、外へ繋がる道を自分の手で管理するための確認だった。

「車で行こうか。道混むかもだし」

 何でもないことのように透真が言う。

「うん。わかった。ありがとう、透真」

 玲音は疑わず頷いた。

 電車で行くという選択肢は、最初からそこになかった。

 ◇

 そして来週がやってきた。

 土曜日の朝、空はよく晴れていた。秋の日差しが屋敷の門を白く照らしている。

 黒のセダンのエンジンが静かにかかる。

 透真は白いシャツにスラックスという、清潔感のある装いで運転席に座っていた。後部座席にはメイドが一人、無言で控えている。表向きは手土産の補助役。けれど、その無表情な存在が、玲音の外出が決して自由ではないことを静かに示していた。

「準備できた? 忘れ物ない?」

 透真が振り返る。

「準備万端だよ。うん。ありがとう、透真」

 玲音は助手席でシートベルトを締めた。

「よし、出発」

 車は屋敷の門を抜け、街道へ滑り出した。

 カーステレオから控えめなジャズが流れている。車内には、ほのかにウッド系の香りが漂っていた。穏やかで、落ち着く香り。玲音はそれを心地よいものとして受け入れている。

「ヒカリちゃん、どんな子なの? 似てる?」

 透真がハンドルを片手で握りながら、ちらりと玲音を見た。

「あんまり似てないかも」

 玲音は少し考えてから言う。

「あの子はとても人を見るのよ。距離感を取るのがとてもうまいの」

「なるほど。じゃあ僕のことも見抜かれちゃうかな」

 透真はふっと笑った。

 冗談のような口調だった。

 けれど、その評価が正しいことを一番わかっているのは透真自身だった。

「私は無防備すぎるっていつも言われてたよ」

「でも大丈夫でしょ? 僕は玲音の彼氏なんだから。堂々としてればいい」

 信号待ちで、透真が玲音の方を向く。

「うん、堂々としてれば大丈夫ね」

 玲音は素直に頷いた。

 西調市に近づくにつれ、景色は少しずつ変わっていった。

 整った街並みから、生活感のある住宅街へ。三山台の入り口を示す看板が見えた頃、透真は口数を減らした。

 車内には、低くやわらかな音が満ちていた。玲音の意識を少しだけ遠くするような、穏やかな揺れだった。

 目的地は近い。

 ヒカリに会える。

 玲音の胸は弾んでいた。

 透真の目だけが、バックミラーの中でわずかに冷たく光っていた。

 ◇

 しばらく車を走らせると、古びたアパートが見えてきた。

 外壁の塗装はところどころ剥がれ、階段の手すりには少し錆が浮いている。透真は一瞬だけ建物を見上げた。

 そしてすぐに、爽やかな笑顔を貼りつける。

「ついたみたいだね。車で待っててくれるの?」

 玲音が首を傾げる。

「何言ってるの。一緒に行くって言ったでしょ?」

 透真は当然のようにシートベルトを外した。

 トランクから手土産の紙袋を二つ取り出す。

「僕はこっちの大きい方持つね」

 一つを玲音に渡す。

「うん。ありがとう。ここの二階に住んでるんだよ」

 階段を上がる。

 玲音の足取りは軽い。久しぶりに妹に会える喜びが、全身から滲んでいた。

 部屋の前で、玲音はチャイムを鳴らした。

「ヒカリー? お姉ちゃん、あそびにきたよ?」

 しばらくして、ドアが開いた。

 中から現れたのは、ショートカットに切れ長の目をした若い女だった。部屋着のパーカーにデニムというラフな格好。けれど背筋はぴんと伸びている。

 姉の顔を見た瞬間、ヒカリの表情がぱっと明るくなった。

 けれどその直後、玲音の背後に立つ長身の男を見て、笑顔が消えた。

「お姉ちゃん。……誰、この人」

 その目が、透真を上から下まで見る。

 値踏みするような、鋭い視線だった。

 透真は一歩前へ出て、深々と頭を下げた。

「初めまして。鷹宮透真と申します。玲音さんとお付き合いさせていただいています」

 爽やかで、礼儀正しい挨拶。

 非の打ち所のない好青年。

 けれど、ヒカリは差し出された手土産にも目をくれなかった。

「えっと、彼は鷹宮透真さん。今日はヒカリに挨拶に来てくれたの」

 玲音は嬉しそうに言う。

「私達、お付き合いしてるの」

 ヒカリの視線が、姉に戻った。

 その顔に浮かんだのは、驚きではなかった。

 警戒だった。

「挨拶。……お姉ちゃん、ちょっと中入って」

 ヒカリはドアを大きく開けた。

 けれど、招き入れようとしたのは玲音だけだった。

 透真はその意図を理解したように、柔らかく笑った。

「もちろん。僕は外で待ってるよ。ごゆっくり」

 追い出される形になっても、動じた様子はない。

 玲音は不思議そうに眉を下げた。

「どうしたの? 透真に失礼じゃない?」

「いいから」

 ヒカリの声は低かった。

 ◇

 玄関のドアが閉まる。

 ヒカリは玲音の手を引いて、リビングまで連れていった。狭いが生活感のある部屋だった。テーブルの上には飲みかけのマグカップが一つ置かれている。

「ふふっ、久しぶりねヒカリ。会いたかった」

 玲音は嬉しそうに笑う。

「透真に失礼じゃない?」

「お姉ちゃん」

「ちょっと、あの人なに。いつから付き合ってんの」

 小声だったが、鋭い声だった。

 ヒカリはテーブルに玲音を座らせ、自分は向かい側に立ったまま姉を見た。

「あの人の前だとなんか変だよ。目がぼんやりしてる。……前のあの人と同じ」

 前のあの人。

 その言葉に、玲音はうまく反応できなかった。

 名前も、顔も、少し遠い。

 嫌なことがあったような気もする。心配されたことも、泣いた夜があったことも、どこかに残っている気がする。

 けれど、それが本当に自分の記憶なのか、今の玲音にはもう輪郭がぼやけていた。

「えっ、そんなことないのよ。透真はすごくよくしてくれるし、彼といると安心なのよ」

「それ、前も言ってた」

 ヒカリの声が低くなる。

「お姉ちゃん、あの時もずっとそう言ってた。大丈夫、優しい人だからって。……でも全然大丈夫じゃなかったじゃん」

 怒っている。

 でも、それだけではなかった。

 ヒカリの目には、怒りよりも濃いものがあった。

 恐怖。

 姉がまた、自分の本音を押し込めて、誰かの隣で無理に笑っているのではないかという恐れ。

 ヒカリは椅子にどさっと座り込み、苛立たしげに前髪をかき上げた。

「安心、ね」

 その言い方は冷たかった。

 けれど、冷たくしなければ震えてしまいそうな声でもあった。

 ヒカリは姉の瞳を見つめた。

 焦点。

 反応の遅れ。

 顔色。

 声の調子。

 観察は素早く、的確だった。

「……ねえお姉ちゃん。最後にいつ家に帰った? お母さん心配してたよ、連絡つかないって」

 家。

 その言葉が、部屋に落ちる。

 玲音は少し首を傾げた。

「あ……家、透真と私の家のこと?」

 ヒカリが固まった。

「お母さんにも、ちゃんと挨拶するつもりよ」

「……だめだ、完全におかしい」

 ヒカリは額に手を当て、深いため息をついた。

 それから立ち上がり、窓際へ歩く。外をちらりと見てから、カーテンを閉め直した。

「お姉ちゃんの家は別にあるでしょ。なに、彼との家って。結婚でもしたの?」

「なんで怒ってるの? ヒカリ? どうしたの?」

 玲音の声が、不安げに揺れた。

 ヒカリは一度、「怒ってない」と言いかけた。

 けれど、首を振った。

「怒ってるよ。……怖いの。お姉ちゃんが」

 部屋の空気が張り詰める。

 壁掛け時計の秒針だけが、規則正しく音を刻んでいた。

 ヒカリは膝の上の携帯を握っている。画面は伏せられているが、指先には力がこもっていた。

「あのさ、一個だけ聞かせて」

 ヒカリはまっすぐ姉の目を見た。

「自分であの人のこと好きになったの? それとも、好きにさせられたの?」

 玲音は少し瞬きをした。

 質問の意味は、わかるようでわからなかった。

 好き。

 透真が好き。

 透真は優しい。

 透真がいると安心する。

 雨の日に出会って、傘に入れてくれて、夜景の見える公園で告白してくれて。

 そうだ。

 相思相愛なのだ。

 玲音は幸せそうににっこり笑った。

「だから相思相愛だよ。私も好きだったけど、透真も告白してくれたの」

「……相思相愛、か」

 ヒカリの胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 この笑い方は知っている。

 昔、姉が誰かに心を預けすぎた時も、こんな顔をしていた。

 けれどあの時の姉は、もっと苦しそうだった。好きだから大丈夫と言いながら、少しずつ自分の言葉を失っていった。

 今の姉は幸せそうに見える。

 でも、そのぶんもっと怖かった。

 苦しそうなら助けられる。

 嫌だと言ってくれれば連れ出せる。

 けれど、こんなふうに幸せそうに笑われたら、どこから手を伸ばせばいいのかわからない。

 ヒカリは無理に言葉を続けなかった。

 今ここで否定しても、姉には届かない。

 むしろ、あの男のところへ戻るだけだ。

「わかった。お土産、あのでかい人から? 上がってもらえば」

 話題を変えるように言った。

 テーブルの下で、携帯の画面には既に検索結果が表示されていた。

 警察。

 相談。

 ヒカリはまだ通報していない。

 でも、もう一人で抱える段階ではないことだけはわかっていた。

 ◇

 玲音がドアを開ける。

「中入っていいって。ヒカリちょっと反抗期なの。透真、ごめんね」

 透真は待ってましたと言わんばかりに顔をほころばせた。

「反抗期かぁ。若いっていいね」

 靴を丁寧に揃え、リビングへ上がる。

 自然な動作でヒカリと向き合う位置に座った。テーブルを挟み、二人の膝がちょうど向かい合う形になる。

「改めて、鷹宮です。これ、よかったら」

 透真は手土産を差し出した。

「ご丁寧にどーも」

 ヒカリは紙袋の中身をちらっと見たが、目は透真から離れない。

「で、どれくらいなの。付き合って」

 お茶を淹れる気配もなく、足を組む。

 透真は柔和に笑った。

 玲音は嬉しそうに答える。

「もう長いよね。雨のカフェで出会ってからだもんね」

「カフェで雨の日ね。ベタすぎない?」

 ヒカリがぼそっと言う。

「雨の日だったね。傘を忘れた玲音さんに、僕が貸したのがきっかけで」

 透真はうんうんと頷いた。

 ヒカリは興味なさそうに「ふーん」と返した。

 けれど頭の中では、その話を細かく分解していた。

 雨の日。

 カフェ。

 傘。

 出来すぎている。

 それに、姉はその話をする時だけ、まるで覚えた台本をなぞるみたいに幸せそうになる。

「お姉ちゃんのこと大事にしてんのはわかるけどさ。仕事とか何してんの、お兄さん」

 ヒカリはテーブルの下で携帯を操作しながら尋ねた。

「お兄さん」と呼ばれて、透真は気を悪くした様子もなく笑う。

「よく言われる」

 玲音は首を傾げた。

「そういえば、お仕事なにしてるの? 透真いつも休みとってくれるから聞くの忘れてた」

 一瞬だけ、透真の目が細くなった。

 けれどすぐに笑顔へ戻る。

「ああ、ごめんね。自営業みたいなものかな。PC関係の仕事で、時間の融通がきくんだ」

 答えながら、話題の主導権を滑らかに奪い返す。

「ヒカリさんは大学生だっけ? 何年生?」

「ヒカリ、大学一年生だよ」

 玲音がふふっと笑う。

「スイミングスクールでインストラクターしてるよね? 教えてた姿、見に行きたいな」

 空気が冷えた。

 ヒカリの眉がぴくりと動く。

「は? なんでスイミングのバイト知ってんの。言ってないんだけど」

 玲音はきょとんとした。

「えっ、そうなの? なんだかすごいね。じゃあ私、ヒカリのバイト先当てちゃったの?」

「前に玲音さんから聞いたことあったかな。ごめんね、うろ覚えで」

 透真がすかさずフォローに入る。

 ヒカリはじろりと透真を睨み、それから姉に向き直った。

「……お姉ちゃん。あたしのバイト先、誰にも言ってないよ」

 その一言には、別の問いが含まれていた。

 あなたの言う姉は、本当に私の知っている姉なのか。

 玲音はその問いに気づかない。

「まあいいや。すごいすごい。当たっちゃったね」

 ヒカリは無理やり笑顔を作った。

 背筋がぞわついていた。

 もう限界だったのかもしれない。姉は、自分の言葉の矛盾にすら気づいていない。話が噛み合わないことさえ、楽しそうに受け取っている。

 ヒカリは、はぁ、と力の抜けたため息をつき、両手で顔を覆った。

 けれど次の瞬間には顔を上げる。

 まだ終わらせてはいけない。

「じゃあ、お土産開けていい? あたし甘いもの好きなの」

「うん! ケーキなの。食べよう」

 玲音は嬉しそうに立ち上がり、キッチンへ向かった。ケーキを皿に載せ、リビングへ戻る。

 その短い間に、ヒカリは透真を見た。

「ねえ鷹宮さん」

「はい」

「お姉ちゃんのこと、幸せにしてくれるんでしょ?」

 透真は真っ直ぐヒカリを見返した。

「もちろん。命に代えても」

 あまりにも迷いのない即答だった。

 ヒカリの背筋に、冷たいものが走る。

 命に代えても。

 普通なら感動する言葉なのかもしれない。

 でも、ヒカリにはそれが愛の誓いではなく、何かもっと重い宣言に聞こえた。

 ◇

 三人でテーブルを囲み、ケーキを食べた。

 表面上は穏やかな時間が流れた。ヒカリも透真の前では過度な敵意を見せず、大学の話や最近流行っているドラマの話で場を繋いだ。

 けれど、携帯には母へのメッセージが打たれていた。

 姉に会った。

 様子がおかしい。

 彼氏がいる。

 やばい人かも。

 送信ボタンを押す指は、一度止まった。

 それでもヒカリは、画面を閉じなかった。

 窓の外が薄暗くなっていく。

 来訪から二時間ほどが経っていた。

「そろそろ遅くなるし、僕たちは帰ろうか」

 透真が時計を見る。

 玲音は少し名残惜しそうにしながらも、素直に頷いた。

「うん。ありがとう、ヒカリ。また来るね」

 玄関まで見送りに出たヒカリは、靴を履く姉の背中を見つめた。

「お姉ちゃん」

「なあに?」

 ヒカリは少し迷った。

 そして、ぽつりと言う。

「また来なよ。……一人で」

 玲音はきょとんとしてから、笑った。

「うん」

 その意味を、玲音はまだわかっていない。

 透真は軽く会釈した。

「今日はありがとうございました。失礼します」

 二人がアパートを出る。

 夜風がひんやりと頬を撫でた。

 駐車場までの短い道を並んで歩く。ヒカリが部屋の中からカーテン越しにこちらを見ているのがわかったが、透真は振り返らなかった。

 ◇

 車に乗り込み、透真はエンジンをかけた。

 しばらく沈黙が続く。

 やがて、低い声が落ちた。

「……妹さん、しっかりしてるね」

 それは褒め言葉ではなかった。

 声の奥に、冷たい計算が滲んでいた。

 玲音は嬉しそうに頷く。

「ふふっ。ヒカリはとってもしっかりしてるでしょ? 私がふわふわしてるから、その分しっかりになったのかもしれないわ」

「ふわふわ、ね」

 透真はふっと笑った。

「玲音はそのままでいいんだよ」

 けれど、その笑みはすぐに消えた。

 信号が赤に変わり、車が停まる。

 フロントガラスに街灯の光が映る。透真は何気ない調子で続けた。

「でもちょっと気になることがあるな。妹さん、僕のことあんまりよく思ってなかったでしょ」

 ハンドルを片手で握り、もう片方の手で玲音の膝にそっと触れる。

 玲音は少し困ったように笑った。

「そんなことないのよ。ちょっと初めてだから戸惑ってたのかも。ごめんなさいね」

「謝らないで。家族思いのいい妹さんじゃない」

 透真は首を横に振り、優しく微笑んだ。

 でも、その目は本気だった。

「ただ」

 少し間を置く。

「家族に紹介してもらえるのは嬉しいけどね。…玲音のこと独り占めしたいから」

 冗談めかした口調だった。

 けれど、声の奥は少しも笑っていなかった。

 信号が青に変わる。

 車が再び動き出した。

「ふふっ。透真とはいつも一緒だもん」

 玲音は幸せそうに笑った。

 その言葉に、透真は一度だけ目を伏せる。

 満たされたように。

 そして、何かを決めたように。

 屋敷へ戻ったあと、透真はしばらく一人で椅子に座っていた。

 玲音はもう眠っている。

 部屋は静かだった。

 彼は椅子の背にもたれ、天井を仰ぐ。

「家族って厄介だな。……でもまあ、玲音のためだから」

 それは誰に向けた言葉でもなかった。

 ヒカリの「一人で来なよ」。

 母への連絡。

 あの鋭い目。

 思い出すたび、胸の奥に冷たいものが沈んでいく。

 それでも透真は、静かに笑った。

 厄介なら、ほどけばいい。

 ほどけないなら、結び方を変えればいい。

 玲音が帰る場所は、もうここなのだから。

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