第4話 雨の日の記憶
目を覚ましたとき、最初に探したのは、天井でも窓でもなかった。
「……たくま?」
まだ眠気の残る声が、白い天蓋の下で小さくほどけた。
玲音はベッドの上でゆっくり伸びをする。身体は少し重い。けれど昨日までのような恐怖は、もう胸の真ん中に居座ってはいなかった。
「……んん。ふわぁー」
朝の柔らかな光が部屋に差し込んでいる。
時計は午前八時半を指していた。屋敷の中は静まり返っていて、遠くからメイドの足音がかすかに聞こえるだけだった。
その静けさの中で、隣の椅子に座っていた透真がコーヒーカップを置く。
彼は玲音を見た瞬間、目を細めた。
「おはよう、お姫様。よく眠れた?」
その声を聞いた途端、玲音の胸の奥がふわりと緩む。
よかった。
いた。
そう思ってしまったことに、玲音はもう疑問を持たなかった。
透真はベッドに歩み寄り、伸びをしている玲音の腰にそっと手を添えた。
「朝ごはん用意してあるよ。今日はフレンチトースト。甘いの好きでしょ?」
「ありがとう、透真」
玲音は上目遣いに彼を見つめる。
「一緒にたべよ?」
その声には、何の警戒もなかった。
透真が一瞬、胸を押さえる。
「朝から心臓に悪いなぁ……」
大げさに言いながらも、口元は緩んでいた。
「いいよ。一緒に食べよ。はい、運搬」
当然のように頷き、透真は玲音を抱き上げた。
お姫様抱っこ。
あまりにも自然な動作だったので、玲音も驚かなかった。むしろ腕を彼の首へ回して、嬉しそうに身を預ける。
廊下に出ると、数人のメイドとすれ違った。
けれど誰も足を止めない。玲音を抱えた透真を見ても、誰一人として眉を動かさず、ただ静かに一礼して通り過ぎる。
屋敷の中では、これがもう日常なのだろう。
恋人の朝のようで。
どこか、誰かが作った箱庭の中の朝のようだった。
食堂には、二人分のフレンチトーストとフルーツ、温かい紅茶が並んでいた。湯気が朝日の中でゆらゆら揺れている。
「いただきまーす」
玲音は嬉しそうに手を合わせた。
「ん、いい匂い。美味しそう」
フォークで一口分を切り分け、口に運ぶ。甘いシロップが舌の上でほどけると、玲音はぱっと顔を明るくした。
「ふふっ、美味しいね」
「うん、美味しい。……いただきます」
透真もようやく食事に手をつけた。
けれどその視線は、三口に一回どころか、ほとんど玲音へ戻っていた。もぐもぐと食べる玲音の頬を、飽きもせず眺めている。
「あ、ついてる」
透真はフォークを置き、玲音の口元へ親指を伸ばした。
シロップをそっと拭う。
そして何食わぬ顔で、その指を自分の口へ運んだ。
玲音はきょとんとしてから、少し照れたように笑った。
「美味しいよ。透真も食べよう?」
「うん」
透真は笑って頷いた。
甘い朝だった。
紅茶の香り。柔らかなパン。朝日の色。二人分だけの食器。
どこから見ても、穏やかな恋人同士の朝食に見えた。
けれど透真の指先は、カップの持ち手を撫でながら、別の予定をなぞっていた。
「そうだ」
ふと思い出したように、透真が言った。
「今日は玲音のお仕事のこと話そうか。辞めるって決めたんだし、手続きとかあるでしょ?」
仕事。
その言葉が出た瞬間、玲音の中で小さな現実が目を覚ました。
机。
書類。
朝の電車。
会社の人たち。
昨日まで当たり前だったものが、朝食の甘さの向こうからぼんやり浮かんでくる。
「うん。そうね」
玲音はもぐもぐしながら、きょとんとした顔で答えた。
「でも、事務だから……最低一ヶ月は働かないといけなくないかな?」
それは、とても普通の感覚だった。
会社に迷惑をかけてはいけない。
急に辞めるのは悪い。
そんな社会の常識が、まだ玲音の中に残っている。
透真はそれを聞いて、思わず吹き出した。
「あはは、真面目だなぁ。そういうとこ好き」
声は甘い。
けれど、玲音の残った常識をどう丸め込むか、透真はもう考えている。
「でもさ、一ヶ月も通うの大変じゃない? 引っ越しもあるし。僕としては、ここでのんびりしててほしいんだけど」
「のんびりでもいいけど、なんだか会社に悪い気がするわ」
玲音は少し困ったように眉を下げた。
「そうね。透真が言うなら……」
自分で考えた言葉のはずなのに、最後は透真のほうへ流れていく。
透真はわざとらしく困った顔をしながら、フォークでフレンチトーストをつついた。
「んー、じゃあこうしよう。退職届は僕が出してくるよ」
「ええっ、いいの? ……ありがとう」
それで本当に大丈夫なのかな、と一瞬だけ思った。
けれど透真が笑うと、その不安はすぐに薄れていった。
「透真」
信頼しきった声で名前を呼ばれて、透真は満足そうに笑った。
「任せて。僕、こういうの得意だから」
親切な申し出に聞こえた。
でも、それは玲音と会社を繋いでいた細い糸を、彼の手で結び直すということでもあった。
「住所と社名は教えてくれたらいいから。ちゃんと手土産持って、菓子折りつきで」
透真は何でもないことのように言う。
玲音はその言葉に、安心したように微笑んだ。
ちゃんとしてくれる。
透真なら大丈夫。
そう思ってしまう。
思わされているのかもしれないと気づくには、朝の光はあまりに柔らかすぎた。
◇
朝食を終えると、透真は玲音をソファへ連れて行った。
テレビをつけると、バラエティ番組の明るい笑い声が流れる。何気ない日常の音。どこにでもある休日の午前。
透真は玲音を隣に座らせ、肩をそっと抱き寄せた。
玲音はその距離を当然のように受け入れる。
テレビを見るふりをしながら、透真はぽつりと言った。
「そういえばさ、僕たちが初めて会った日のこと覚えてる?」
「初めて……あった日?」
玲音は少し悩むように瞬きをした。
初めて。
本当は、この部屋で目覚めたあの日のはずだった。
知らない天井。
知らないベッド。
鉄格子。
紫の光。
怖い、と感じたはずの朝。
けれど、その記憶は霧の奥に押し込まれている。手を伸ばしても、指先が届かない。
透真は、迷う玲音の肩を抱き寄せた。
「ほら、雨の日だったじゃん。駅前のあのカフェで」
雨の日。
駅前。
カフェ。
その言葉が、玲音の中で小さく灯った。
最初は何もなかった場所に、輪郭が生まれる。
濡れた舗道。
白い湯気の立つコーヒー。
ガラス窓を伝う雨粒。
「あっ、そっか!」
玲音の顔が明るくなった。
「傘を忘れた私を、透真が傘に入れてくれたんだっけ?」
言葉にした途端、その場面は最初から記憶の中にあったもののように色づいた。
玲音は、自分の中にその記憶があることに何の疑問も抱かなかった。
むしろ懐かしいような、くすぐったいような気持ちになる。
「そうそう! あの日、玲音びしょ濡れでさ、放っておけなくて」
透真はぱっと顔を明るくした。
存在しない思い出に、温度を与えるように。
「それから連絡先交換して、何回かデートして……僕が告白したんだよね。あの夜景の見える公園で」
夜景の見える公園。
また一つ、記憶が増えた。
暗い空。
街の灯り。
冷たい風。
透真の声。
玲音はその景色を見た気がした。
本当に見たのか、今作られたのか、わからない。
わからないまま、胸が甘く痛んだ。
「うんうん。私、とっても嬉しかったの」
玲音は嬉しそうに瞳を細め、透真へそっと寄り添った。
「これで透真と一緒になれるんだって」
透真は玲音の肩に頭を預け、目を閉じる。
「あの時の玲音、泣いてたよね。……僕も泣きそうだったけど」
テレビの笑い声が遠くなる。
玲音の中で、偽りのはずの記憶が、幸せな思い出として根を張り始めていた。
雨の日。
傘。
カフェ。
夜景。
告白。
知らないはずの過去が、透真の声で語られるたび、最初からそこにあったもののように馴染んでいく。
◇
「あ、そうだ」
透真はふと思いついたように顔を上げた。
「今度、玲音のご両親にも挨拶行かなきゃね。娘さんをくださいって」
「えっ、本当?」
玲音はぱっと赤くなった。
「すごく嬉しいけど、なんだか照れちゃう」
その反応は、普通の恋人のものだった。
愛する人が家族に会いに来る。
その未来を想像して、恥ずかしくて、嬉しい。
けれど透真の言葉は、ただの恋愛の約束ではなかった。
家族に認めさせる。
恋人として、婚約者として、外からも正しい関係に見せる。
それは玲音の逃げ道を、外側からも塞いでいく行為だった。
「だって、本当に普通の両親なんだもの」
「普通が一番いいんだって。ちゃんとしたご挨拶させてよ」
透真はくすっと笑い、玲音の赤くなった耳をつんとつついた。
「お父さん厳しい人?」
「ううん。お父さんは比較的優しいかな」
玲音は嬉しそうに話す。
「お母さんがちょっと厳しい感じかも」
「へえ。じゃあお母さんには手土産奮発しなきゃだね。何が好きとかある?」
「えっ! お母さんは何が好きかなぁ」
玲音は本気で考え込んだ。
「透真の手土産なら、なんでも喜びそうね」
透真は穏やかに相槌を打ちながら、玲音の言葉を一つずつ拾っていく。
父は優しい。
母は厳しい。
普通の両親。
好みはまだ不明。
家族への道が、少しずつ開かれていく。
それは玲音にとっては幸せな未来の準備だった。
透真にとっては、外堀を埋めるための地図だった。
テレビではいつの間にか番組が変わっていた。
ワイドショーのキャスターが、淡々とニュースを読み上げている。画面の隅に、行方不明者届という文字が一瞬流れた。
けれど玲音は透真を見ていた。
透真も玲音だけを見ていた。
世界がどれだけ警鐘を鳴らしても、この部屋の中までは届かない。
◇
手土産の話で少し盛り上がったあと、透真はふと真面目な顔になった。
「ねえ玲音。妹さん……ヒカリちゃんだっけ。あの子にも会いたいなって言ってたよね」
ヒカリ。
その名前に、玲音の表情が柔らかくなる。
「うん。ヒカリは一人暮らししてるよ」
玲音は嬉しそうに続けた。
「一緒にお昼食べたり、買い物したいなぁ」
その気持ちは、まだ玲音の中に残っていた。
妹に会いたい。
話したい。
いつものように笑いたい。
それは、透真の色に染まりきっていない、玲音自身の細い光だった。
透真は数秒だけ考えるように顎に手を当てる。
そして、優しく笑った。
「いいよ、会わせてあげる」
玲音の顔がぱっと明るくなる。
「きっと喜んでくれるはずよ」
その笑顔を見て、透真も照れたように鼻の頭を掻いた。
「喜んでくれるかな。……緊張するな」
「ヒカリに大好きな透真のこと紹介するよ」
玲音は信頼しきった声で言った。
「うん、わかった」
透真は笑った。
そして、人差し指を立てる。
「ただし、条件がある。僕も一緒に行くこと。それと、毎回僕に連絡すること」
優しい許可に、細い鎖がついた。
けれど玲音には、それが鎖には見えなかった。
透真が一緒に来てくれる。
連絡すれば安心。
そういう形にしか、もう受け取れない。
「うん。わかった」
玲音は嬉しそうに頷いた。
透真の瞳が、少しだけ真剣になる。
「ヒカリちゃんに僕のこと紹介したら、もう戻れないからね。僕たちのこと、家族にも友達にも全部認めてもらう。それでいい?」
もう戻れない。
その言葉は、重かった。
けれど玲音の胸には、不思議なほど恐怖として届かなかった。
戻らなくていい。
透真がいるなら。
そう思ってしまう。
玲音はまっすぐ透真を見つめた。
「透真の言うことは安全だもん。よろしくね」
透真の顔が、ゆっくりと緩む。
「うん。わかった」
午後の陽光が窓から差し込み、二人の影を一つに重ねていた。
外ではきっと、会社が動いている。
家族が暮らしている。
ヒカリが、玲音の知らない一日を過ごしている。
テレビの中では、どこかの街で起きた失踪事件の続報が流れていた。
でも玲音は、透真の隣で微笑んでいる。
雨の日のカフェ。
忘れた傘。
夜景の見える公園。
作られた幸せな記憶が、胸の奥でやわらかく光っている。
それが嘘だと、もううまく思い出せない。
透真の手が、玲音の手を包む。
優しくて、あたたかい。
逃げ道を塞ぐ手だった。
けれど玲音には、守ってくれる手にしか見えなかった。




