第3話 深い青の夜
玲音の瞳には、まだ光が残っていた。
共鳴の底へ沈みかけているはずなのに、完全には消えない。透真が望む言葉を口にして、仕事も、家も、外の世界も手放しかけているのに、その奥にはまだ、細い針のような意識が残っている。
ヒカリ。
仕事。
帰る場所。
そうした言葉の欠片が、白い香りの向こうで、かすかに震えていた。
透真は、それを見つめていた。
焦りはなかった。むしろ、楽しそうにさえ見えた。まだ消えない光を、愛おしいものでも見るように眺め、顎に添えていた手を玲音の頬へ滑らせる。
親指が、涙腺のあたりを優しく撫でた。
「そう、足りなくないんだ。……よかった」
声は甘かった。
甘い毒を、舌の上でゆっくり溶かして飲ませるような声だった。
玲音は少し躊躇した。唇が迷う。頷くまでに、一拍だけ間があった。
けれど、その一拍も、透真は待った。
命令しない。
奪わない。
選ばせるふりをする。
「じゃあさ、選ばせてあげる」
玲音の瞳が揺れた。
選ぶ。
その言葉は優しく聞こえた。ここにいることも、仕事を辞めることも、全部自分で決めるのだと錯覚できるくらいに。
でも、部屋には鉄格子がある。
扉の向こうには誰かがいる。
枕元のスマホは、まだ静かに光っている。
それでも玲音は、ゆっくり頷いた。
「透真と一緒にいる。お仕事……辞める。……うん、わかった」
口にした瞬間、自分の中で何かがほどけるような気がした。
仕事、という言葉だけが、少しだけ胸の奥に引っかかった。けれど透真の笑顔を見ると、その引っかかりもすぐにほどけていく。
怖いはずなのに。
正しくないはずなのに。
透真の目が、あまりにも嬉しそうに細められたから、玲音はその表情だけで少し安心してしまった。
「ありがとう。ありがとう、玲音」
透真は子どものように笑った。
張り詰めていた空気が一気にほどけ、彼は玲音をぎゅっと抱きしめる。強く、けれど壊さないように。失くしものを二度と手放さないように。
その腕の中で、玲音はぼんやりと瞬きをした。
胸の奥が、温かい。
でも、その温かさがどこから来ているのか、もうわからない。
長い抱擁のあと、透真は少しだけ身体を離した。
スマホを手に取る。画面には、深い紫の光が灯っていた。赤みを帯びていた光とは違う。もっと静かで、もっと柔らかい。夜の底に咲く花のような色だった。
透真はその光を、玲音の胸元へそっとかざした。
胸の上から手を当てる。玲音の鼓動を、確かめるように。
「この心臓は僕のもの。この気持ちも僕の。……ね?」
玲音の瞼が重くなる。
自分の心臓の音が遠い。けれど、透真の手の下で鳴っていると思うと、その音まで彼のもののように感じられた。
紫の光が滲む。
天蓋の白。
カーテンの影。
透真の声。
全部がやわらかく混ざっていく。
「私の気持ちも透真のもの……」
玲音はゆっくり呟いた。
「透真のもの……?」
問い返したつもりだったのか、繰り返しただけなのか、自分でもわからなかった。
透真は、返事を待たなかった。
画面の光をゆっくり消す。
部屋が薄暗くなる。
玲音の瞳からも、最後の光が静かにほどけ落ちた。
透真は深く息を吐いた。
「おやすみ、玲音」
意識を失った玲音の寝顔を、透真は飽きることなく見つめていた。
乱れた髪を指先で梳き、布団を首元まで引き上げる。まるで大切な恋人を眠らせるような仕草だった。けれど枕元のスマホには、玲音の外側にあった世界が整然と並んでいる。
住所。
職場。
家族。
妹の名前。
「……ヒカリ、か」
透真は小さく呟いた。
画面に浮かぶその名前を、何度も見た。
玲音の中に残っている光。
自分へ完全に沈みきらない理由。
その小さな名前が、ひどく目障りで、同時に使い道のある鍵にも見えた。
「会わせるとは言ったけど、何回までとは言ってないよね」
独り言のように言って、透真は静かに笑った。
薄暗くなった部屋の中、その笑みだけがやけに冷えて見えた。
窓の外では、日が傾き始めていた。
玲音がここに連れてこられてから、もう数時間が経っている。外の世界は、玲音のいないまま夕方へ向かっていた。
けれどこの部屋の中だけは、時間が別のものになっていた。
透真の手の中で、ゆっくり形を変えられていく時間。
玲音の寝息だけが、白い香りの残る部屋に静かに溶けていた。
◇
目を覚ましたとき、窓の外は夕暮れだった。
玲音は小さく伸びをした。長く眠っていたせいか、身体が少し重い。頭の中には、ぼんやりとした夢の名残が残っている。
紫の光。
誰かの声。
あたたかい手。
でも、夢の輪郭は掴めなかった。
ふと視線を動かすと、ソファに透真がいた。
本を読んでいた彼は、玲音が目を覚ましたことに気づくとすぐに顔を上げた。そして玲音の笑顔を見た瞬間、本にしおりも挟まず、テーブルへ放り投げる。
「おはよう。よく寝てたね、もう夕方だよ」
ベッドの縁へ腰掛ける。
その動作があまりに自然で、玲音は何の疑問もなく彼を見上げた。
「透真?」
「いい夢見た?」
透真は髪に顔を寄せた。
匂いを確かめるような仕草だった。近い。けれど玲音は怖がらなかった。むしろ少し照れたように笑う。
「うん? なんだかぼんやりした夢だったよ」
「ぼんやりか。じゃあ今度は僕と一緒に夢見ようね、毎晩」
髪から首筋の近くへ、透真の鼻先がゆっくり滑る。
玲音はくすぐったそうに身を縮めた。照れと安心が混ざった表情で、彼を見る。
透真は満足げに目を細めた。
覚醒後も、残っている。
玲音の中に、自分が。
「これ、プレゼント。開けてみて」
ふと思い出したように、透真はポケットから小さな鍵を取り出した。
可愛らしい鍵だった。光を受けて、指先で小さく揺れる。
「私の? お部屋?」
玲音は嬉しそうに目を輝かせた。
透真が隣の扉へ案内する。鍵の先にあったのは、玲音のために用意された私室だった。
淡い色のカーテン。柔らかそうなベッド。花柄のクッション。整えられたクローゼット。棚には、かわいらしい装丁の本が並んでいる。
綺麗だった。
綺麗すぎるほどに。
玲音は思わず部屋へ足を踏み入れた。
けれど、奥のバスルームを覗いた瞬間、足が止まる。
窓に、鉄格子があった。
ドアにも、外側から施錠できるような鍵穴が二つ見える。
胸の奥で、ほんの少しだけ何かが鳴った。
「でも、お風呂……なんだか、牢屋みたいね?」
言ったあと、玲音は自分でも不思議そうに瞬きをした。
透真は一瞬だけ黙った。
けれどすぐに笑う。
「あはは、牢屋って。ひどいなぁ」
笑い声は明るい。
でも目は笑っていなかった。
「防犯だよ、防犯。この辺物騒だからさ。玲音みたいな可愛い子がいたら悪い人が来ちゃうでしょ?」
悪い人。
その言葉が、玲音の頭の中を一瞬だけ通り過ぎた。
悪い人なら。
けれど、その先は続かなかった。
目の前の透真は優しく笑っている。自分のために部屋を用意してくれた。服も、本も、鍵まで。怖い人のはずがない。
そう思った瞬間、胸の奥の違和感は柔らかく丸め込まれていった。
「そっかぁ」
玲音は嬉しそうに透真へ抱きついた。
「優しいね。ありがとう、透真」
そして、感謝の気持ちを込めて、透真の頬に軽くキスをした。
透真が固まった。
まるで石像のように、数秒間、動かなくなる。
やがて耳の先まで真っ赤に染まっていった。
「……反則」
ようやく絞り出した声は、掠れていた。
玲音はすっかり信頼しきった顔で笑っている。
「透真、大好き。……わっ、ありがとう」
「いや、あの、うん。喜んでくれてよかった。部屋、気に入るといいな。クローゼットに服も入れといたし、本棚にも玲音が好きそうな本並べてあるから」
透真は玲音の肩に両手を置いたまま、顔を逸らして早口にまくしたてた。
玲音が好きそうな本。
玲音が似合いそうな服。
けれど、それを選んだのは玲音ではない。
透真が思う、玲音に似合うもの。
透真が望む、玲音の形。
その部屋は、優しさで満たされていた。
そして同じくらい、透真の理想で満たされていた。
◇
夕暮れの光が、カーテン越しに差し込んでいた。
二人の影が床に長く伸びる。玲音は透真のそばにぴたりとくっつき、透真はそれを当然のように受け止めていた。
「僕も。大好き。世界で一番」
玲音の「大好き」を二度聞いて、透真はもう限界だった。
がばっと玲音を抱え上げ、自分の膝の上に座らせる。後ろから包み込むように腕を回し、肩口に顎を乗せた。
「……ねえ、今日一日ずっとこうしてたい。ご飯もここで食べよ」
甘えるような声だった。
百八十五センチもある男が、まるで置いていかれるのを怖がる子どものように玲音を抱きしめている。
滑稽で、少し哀れで、けれど玲音にはただ愛おしく見えた。
「ん、ご飯……?」
メイドたちが運んできた食事が、テーブルに並べられる。
誰も二人の距離に驚かない。玲音が透真の膝の上にいることも、この部屋で食事をすることも、屋敷の中ではもう予定された日常の一部であるかのようだった。
「じゃあ、あーんしてあげるね。」
玲音は無邪気に、透真の口元へ食事を運んだ。
「透真ったら」
透真は素直に口を開けた。
「ん……おいしい」
咀嚼しながら、目尻が下がりきっている。
玲音が笑う。
透真も笑う。
傍から見れば、恋人同士の穏やかな夕食だった。
けれど窓には鉄格子があり、扉の向こうには鍵がある。用意された服も、本も、食事も、玲音のためのものに見えて、すべて透真の手で選ばれていた。
「もう一口」
透真は飲み込んだあとも口を開けて待っていた。
催促するように玲音を見上げる。
玲音は嬉しそうに笑って、もう一度食事を運んだ。
夜は静かに更けていく。
白い香りは薄れているはずなのに、玲音の胸の奥にはまだ透真の温もりが残っていた。
「透真」
食事を終えた玲音が、彼のそばにくっついたままにっこり笑う。
「ふぅー、お腹いっぱいね」
「いっぱい食べてくれてよかった。……さて」
透真は玲音の頭頂部に、ぽすりと額を乗せた。
名残惜しそうに、しばらくそのままでいる。
けれど、やがて身体を起こした。
ベッド脇のテーブルからスマホを拾い上げる。時刻は午後九時を回っていた。
「そろそろ次のステップ、進めよっか」
その声で、空気が変わった。
さっきまでの甘い夕食の余韻が、静かに夜の底へ沈んでいく。
玲音は嬉しそうに透真にくっついたまま、こくりと頷いた。
「うん……? わかった」
透真は少しだけ緊張した顔をしていた。
それでも玲音を見る目は優しかった。優しいからこそ、逃がさない。
「今日はちょっと深いところまで潜るから、しんどくなるかも。でも僕を信じて。絶対に痛くしない」
スマホの画面が、青白い光を放ち始めた。
紫とも赤とも違う。
冷たく、深く、静かな青。
湖の底へ沈んでいくような色だった。
透真はくっついたままの玲音を、自分の胸へ抱き寄せる。心音を聞かせるように、ぴたりと密着させた。
「この音、覚えといて。今から深く潜っても、これが聞こえてたら大丈夫だから」
トクトク、トクトク。
透真の心臓の音が聞こえる。
玲音はその音に耳を預けた。
不安が少しだけ遠のく。
青い光が、深い藍へ沈んでいった。
「僕だけが世界の全部」
透真の声が、耳元で静かに響く。
一語一語、焦らず、丁寧に。
夜の水底へ沈めるように。
「僕の声が聞こえるところが、玲音の帰る場所。僕の心音が聞こえるところが、一番安心できる場所」
玲音の身体から、ゆっくり力が抜けていく。
呼吸が深くなる。
自分の輪郭が少しずつ曖昧になる。
ベッドの柔らかさも、部屋の広さも、窓の鉄格子も、全部が遠い。残っているのは、透真の胸の音と、耳元に落ちる声だけだった。
「僕がいる。だから怖くない。僕が呼べば戻っておいで。僕が抱きしめたら、全部預けていい」
それは命令のようで、祈りのようでもあった。
玲音は、とろんとしたまま、彼の心音を聞いている。
「透真……」
声が漏れた。
「全部……世界の……」
「そう」
透真は満足げに頷いた。
けれどその表情は、どこか苦しそうでもあった。
作られた反応だと、彼は知っている。
自分がそう導いているのだと、知っている。
それでも、その言葉を欲しがってしまう。
偽物でもいい。
本物に変えてしまえばいい。
藍色の光の中で、透真は玲音を強く抱いた。
「玲音。今、僕のこと……どう思ってる?」
試すような問いだった。
玲音はゆっくり顔を上げる。
瞳は夢の中にいるように潤んでいた。けれどそこには、恐怖だけではない何かがあった。
「すごく……大事で……私の、すべて……」
玲音はそっと透真に抱きついた。
その言葉が自分の奥から浮かんだのか、透真の声に導かれたのか、玲音にはもうわからなかった。
「愛してるの……」
透真の腕が震えた。
抱き返す力が強くなる。震えているのは玲音ではなく、透真の方だった。
「……もう一回言って」
喉の奥から絞り出すような声だった。
玲音は彼の胸に頬を寄せる。
心音に安心して、心を預けるように。
「……愛してるの、透真」
少し間を置いて、もう一度。
「愛してる……」
透真の目の奥が、じわりと熱を帯びた。
彼は玲音の額に、長く口づけを落とした。
それ以上の言葉はなかった。
ただ藍の光が揺れて、夜が深くなる。
玲音の意識は、ゆっくり眠りへ沈んでいった。
やがて透真は、眠りに落ちた玲音を横たえ、毛布をかけた。
「お疲れ様。明日も頑張ろうね」
スマホの光が、最後に赤く変わる。
固着完了の合図のように、部屋の壁を一瞬だけ染めた。
透真はしばらく玲音の手を握ったまま、暗い天井を見上げていた。
「あと少しだ」
その声は、とても静かだった。
けれど夜の中で、ひどく重く響いた。
玲音は眠っている。
透真の名前を胸の奥に沈めたまま。
優しい部屋。
柔らかな毛布。
小さな鍵。
鉄格子の窓。
すべてが甘い夢の形をしていた。
そしてその夢は、内側からはまだ醒めない。




