第2話 赤い光と小さな名前
怖いのに、甘い。
甘いのに、どこかでまだ泣きたかった。
玲音の瞼が、ひくりと小さく震えた。
さっきまで蕩けるように緩んでいた視線が、ほんのわずかに揺らぐ。焦点の合わない瞳の奥で、消えかけていた光が細く瞬いた。
枕元のスマホが、短く鳴った。
紫の光に混じって、画面の端に赤い警告が点滅している。静かな部屋には不釣り合いな、乾いた音だった。
透真は玲音の髪に触れていた手を止めた。
「……まだ浅いか」
小さな呟きに、焦りはなかった。
ただ、予定より少し早く目を覚ました実験結果を見るような、冷静な響きがあった。彼は舌打ちをひとつ漏らし、名残惜しそうに玲音から手を離す。
けれどその目は、すぐに甘く細められた。
「うん、約束」
前の言葉を拾うように、透真はそう言った。
震えるほど大切にする手つきで、玲音の小指を取る。自分の小指を絡め、子どもみたいな指切りの形を作った。
玲音はとろんとしたまま、小首をかしげた。
「……?」
その仕草に、透真の喉仏が小さく動いた。
「……反則だよ、そういうの」
かすれた声だった。
恋をしている男の声だった。けれどその横顔には、まだ警告表示を見逃さない観察者の冷たさが残っている。
透真はベッド脇のベルを鳴らした。
数秒も経たないうちに、扉が控えめにノックされる。入ってきたのは二十代半ばほどのメイドだった。黒い制服に白いエプロン。整えられた髪。感情の浮かばない瞳。
目の前の異様な状況を見ても、彼女は眉ひとつ動かさなかった。
「お茶と軽食を持ってきて。あと、彼女が目を覚ましたとき用に……そうだな、気に入りそうなぬいぐるみでも置いといて。女の子が好きそうなやつ」
「かしこまりました」
メイドは一礼し、音もなく退室した。
扉が閉まる。
その静けさが、かえってこの屋敷の異常さを際立たせていた。ここでは、透真の言葉がそのまま現実になる。誰も驚かない。誰も止めない。
透真は再び玲音に向き直った。
その目はもう、完全に玲音だけを見ていた。
「ね? 透真 がいると、なんだか安心するの。……どうして?」
玲音が、ぼんやりと口を開いた。
その声には、不思議そうな響きがあった。
自分でもわからない感情を、手のひらに乗せて見つめているような声。怖がるべきだと、頭のどこかではわかっている。けれど胸の奥は、透真が近くにいるだけで静かにほどけていく。
それが自分のものなのか、共鳴コードが作ったものなのか、玲音にはもう区別がつかなかった。
「どうしてだろうね。……でも、理由なんていらなくない?」
透真は心底幸せそうに笑った。
玲音の頭を、自分の肩へ引き寄せる。白い香りに混じって、彼の体温が近づいた。
「僕がそばにいて、安心する。それだけで十分でしょ」
指先が、玲音の耳の後ろをゆっくりとなぞる。
触れ方は優しい。とても優しい。
けれどその優しさは、逃げる理由をひとつずつ奪っていくようだった。
「ほら、わかる? 玲音のせいでこうなってるの」
透真はふと玲音の手を取り、自分の胸に押し当てた。
シャツ越しに伝わる心臓は、驚くほど速く打っていた。
トクトク、トクトク。
玲音の指先に、その音がそのまま染み込んでくる。
「私のせい?」
玲音は少し恥ずかしそうに、透真を見上げた。
「……心臓の音……トクトク……。あ……透真 」
「そうだよ。全部、君のせい」
透真の声が甘く沈む。
「初めて君を見つけた日からずっとこう。おかしいでしょ、まだ初対面なのに」
初めて君を見つけた日。
その言葉が、玲音の中で引っかかった。
本当に?
会ったことがあるのだろうか。どこかで。昔。夢の中で。あるいは、記憶の抜け落ちた場所で。
考えようとした瞬間、白い香りが思考の輪郭をやわらかく撫でた。疑問は形を結ぶ前に、透真の心音へ溶けていく。
彼の手が、玲音の指を胸元に留めたまま覆う。
逃がさないというより、離したくないという仕草だった。
やがてメイドが戻ってきた。
銀のトレイには、紅茶と軽食、小さな器に入ったスープ。それから、淡いリボンを結ばれたクマのぬいぐるみが載っていた。
メイドはサイドテーブルへ一つずつ並べる。
玲音がベッドの上でとろんと透真にもたれ、透真がその髪に触れている光景を見ても、彼女の表情は変わらなかった。
この屋敷では、それが日常であるかのように。
「透真、大好き」
玲音が、嬉しそうににこっと笑った。
その言葉がどこから出てきたのか、玲音自身にもわからなかった。胸の奥で勝手にほどけたものが、透真の望む形になって、唇からこぼれただけのようにも思えた。
「……ご飯? ありがとう」
その一言で、透真の顔が一瞬で赤く染まった。
冷静な仮面が、音を立てずにはがれ落ちる。計算も、支配も、共鳴深度の数値さえ、その瞬間だけ彼の中から遠のいたように見えた。
「っ……ずるいな、ほんと」
透真は顔を背け、拳で口元を隠した。
耳まで赤い。
その姿は年相応の青年そのもので、玲音はぼんやりと瞬きをした。怖い人のはずなのに。知らない部屋に自分を閉じ込めた人のはずなのに。
その照れた横顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなる。
それが何より、危うかった。
透真は深呼吸をひとつして、ようやく平静を装い直した。
フォークでサンドイッチを小さく切り分ける。玲音の口元へ、当然のように差し出した。
「はい、あーん」
「あーん」
玲音は雛鳥のように口を開けた。
差し出された欠片をぱくりと口に入れる。けれど白い香りの影響がまだ濃く残っていて、うまく飲み込めなかった。咀嚼の感覚が遠い。喉が、自分のものではないみたいに動かない。
小さく、口元からこぼれた。
「あっ……」
玲音の頬が、遅れて赤くなる。
「無理しなくていいよ。ゆっくりでいいから」
透真は何でもないことのように、こぼれた欠片を指で拭った。
嫌がる様子はない。
むしろ、その世話をすること自体が嬉しくてたまらないような顔をしている。
玲音は戸惑いながら、彼を見た。
「……おいしい……うん、美味しいね」
「うん、おいしい」
透真はにっこりと笑った。
玲音の唇についたスープの雫を、親指の腹でそっと拭う。ほんの一瞬、彼の目が深く揺れた。
けれど彼はそれ以上近づかなかった。
何かを思いとどまるように息を吐き、スープを冷ましてから、スプーンで少しずつ玲音の口元へ運ぶ。
甘やかす手つき。
閉じ込める手つき。
その二つが、透真の中では同じ場所から出ているようだった。
玲音はまた口を開けた。
信じきった雛鳥のように。
透真は一口ごとに、丁寧にスプーンを運ぶ。食事は半分ほど進んだ。玲音の頬に少し血色が戻る。
その頃、枕元のスマホに表示されていた共鳴深度は、五割を超えていた。
「そろそろかな」
透真が呟いた。
スマホを操作する。
それまで淡く揺れていた光が、少しだけ鋭くなった。紫に赤が混じる。静かな水面に、一滴の血が落ちたような色だった。
玲音の瞳が、その光をぼんやり映す。
「玲音、いくつか聞いてもいい?」
さっきまでの甘い介助と同じ声だった。
けれど空気が変わった。
紅茶の香り。スープの湯気。白い香り。赤みを帯びた光。すべてが、玲音の周りに薄い膜を張る。
「ここに来る前、どこに住んでたか覚えてる?」
世間話のような口調だった。
だからこそ、玲音は一瞬、問いの危うさに気づけなかった。
「えっ……それは……。私のおうち……に、帰らなきゃ……。くっ……」
言いかけた瞬間、目の奥に光が戻った。
自分の部屋。
鍵。
駅までの道。
洗濯物。
職場へ行く朝。
ほんの些細な生活の断片が、霧の向こうで手を振った。
帰らなきゃ。
そう思った。
「おうち? どこのおうち?」
透真はその揺らぎを見逃さなかった。
赤い光が、玲音の視界の正面に来る。強くはない。けれど目を逸らそうとすると、肩に置かれた透真の手の温もりが、やさしくそこへ引き戻す。
「無理に頑張らなくていいんだよ」
彼は玲音の肩を押さえ、ベッドへ横たえ直した。
「楽になろう。僕に全部預けて」
耳元で囁かれた声は、蜜のように甘かった。
同時に、ほどけない鎖のようだった。
玲音の額に汗が浮かぶ。瞼が何度も瞬きを繰り返す。思い出そうとすればするほど、記憶が赤い光の向こうに遠ざかっていく。
「私のおうち……一人暮らしだけど」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
言ってしまってから、玲音は安心しきったように透真の手を握った。
「あ……透真……」
透真の口元が、わずかに上がる。
「一人暮らしか。寂しかったでしょ。もう大丈夫だよ、これからは僕がいるから」
スマホに文字を打ち込む音だけが、静かな部屋に響いた。
玲音はその音の意味を考えようとした。けれど透真の手が温かくて、握り返されるたび、胸の奥がふわりとほどけてしまう。
「場所は? 駅から近い? 何階?」
透真は、握られた玲音の手を宝物のように両手で包んだ。
その優しさのまま、次の問いを投げる。
玲音の唇がわずかに動いた。
外の住所。部屋の位置。帰るための情報。
それらは本来、玲音を外へ繋ぎとめる糸だった。けれど今は、透真のスマホの中へ一本ずつ巻き取られていく。
「……そう……透真がいるのは、とっても安心ね……」
玲音はとろんとしたまま、透真を見つめる。
「……透真がいるの……?」
「うん。ずっとそばにいる」
その言葉に、玲音は嬉しそうに目を細めた。
共鳴深度は六割に達していた。
けれど、それでもまだ、玲音の中には完全に沈まないものがあった。
「友達はいる? よく遊ぶ人」
透真は玲音の指を一本ずつ確かめるように握りながら、声を穏やかに保った。
玲音は少し考えるように、目を泳がせる。
「うっ、うん。妹がいるの……一緒に、あそびに行くわ……」
妹。
その言葉が出た瞬間、透真の目がほんの一瞬だけ冷たく光った。
すぐに柔らかな笑みへ戻る。あまりにも自然で、玲音が見逃してしまうほどに。
「へぇ、妹さんがいるんだ。仲いいんだね」
「私とはあんまり……似てないかも……でもとっても、可愛いのよ」
玲音の表情が、少しだけ明るくなった。
赤い光の中でも、その笑顔だけは自分のものに見えた。
「名前は、ヒカリ、ちょうど二十歳よ」
「ふうん。可愛いんだ」
透真の手に、わずかに力がこもった。
すぐに緩める。
けれど、目の奥の温度は下がったままだった。
「ヒカリちゃんか。今度会ってみたいな。……玲音の大事な人だもんね」
言葉だけなら、優しかった。
でも声の底が、ほんの半音だけ低い。
玲音はそれに気づいたのか、気づかなかったのか、ぼんやりと彼を見上げた。
「じゃあ最後。お仕事は何してるの?」
透真はスマホをくるりと回し、赤い光をもう一度玲音の瞳に向けた。
玲音の眉がかすかに寄る。
「わ、私の仕事は……事務員、だよ」
「事務員か。毎日遅くまで大変だったでしょ」
透真は満足げに頷いた。
膝の上のスマホには、玲音という人間を構成していた外側の情報が、静かに積み重なっている。
家。
仕事。
妹。
友達。
それは玲音の生活の地図だった。
同時に、透真にとっては、玲音を外から切り離すための地図でもあった。
画面の共鳴深度は、七割を示していた。
「玲音」
透真はスマホを膝に置いた。
玲音の両手を持ち上げ、指を組み合わせる。祈るような形にした。自分も同じ形を作り、そっと合わせる。
「今日からここが君の家だよ。仕事も、友達も……全部、もういらない」
だった、と。
彼は過去形のように言った。
もう終わったことを告げるみたいに。
玲音の瞳が揺れた。
「安心……でも、ヒカリや仕事も……」
声が震える。
さっきまで蕩けていた目の奥に、細い光が戻り始めていた。
「えっ、えっ、そうなの?」
透真の中で、何かが軋んだ。
笑顔は崩れない。けれど、玲音と合わせた指に力が入る。
「ヒカリちゃんのこと、まだ考えてるんだ」
甘い声だった。
甘いからこそ、冷たかった。
玲音は透真を見つめた。瞳には、どこかまだ消えない光がある。
「僕じゃ足りない?」
「た……足りなくないけど……」
透真の声色が、一段柔らかくなった。
責めるより、懇願に近い響きだった。けれどそれは、玲音の罪悪感へ静かに指をかける声でもあった。
「大丈夫。僕が玲音の家族になるから。妹よりもっと近くにいてあげられる。仕事なんてしなくていいよ、お金ならいくらでもある」
顎に添えられた手が、玲音の視線を逃がさない。
赤い光が、二人の間で小さく揺れている。
玲音は何かを言おうとした。
ヒカリ。
仕事。
家。
外の空気。
どれも大切なはずだった。
でも透真の手は温かくて、声は優しくて、その優しさに縋りたくなる自分がいた。
間違っている。
でも、寂しかったのかもしれない。
違う。
そう思った次の瞬間には、透真の瞳が近くにあった。
「僕を選んでくれたら、ヒカリちゃんには会わせてあげてもいいよ」
玲音の息が止まる。
「でも仕事は辞めて。ここにいて」
鎖には見えない言葉だった。
むしろリボンのように柔らかく、希望の形をしていた。
ヒカリに会える。
その一言だけが、玲音の胸の奥で小さく光る。
でもその光の周りを、透真の声がゆっくり包んでいく。
ここにいて。
僕を選んで。
そうすれば、会わせてあげる。
玲音は答えられなかった。
答えなかったのか、答えられなかったのかも、わからなかった。
赤い光が揺れる。
白い香りが沈む。
透真の指が、祈るように玲音の指を包んでいた。
優しくて、甘くて、逃げ道のない手だった。




