表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
優しい鳥籠は、鍵をかけない  作者: 雨音 優


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/4

第1話 目覚めと名前の支配

 目を覚ました瞬間、玲音は自分がどこにいるのかわからなかった。

 頬に触れているシーツは、怖いほどなめらかだった。身体を沈めるベッドは広く、天井からは白い薄布が垂れている。天蓋付きの寝台。磨き上げられた調度品。淡い光を透かすカーテン。

 まるで、どこかの高級ホテルの一室のようだった。

 けれど、窓には鉄格子があった。

 その一本一本が、朝の光を細く切り分けている。美しい部屋の中で、そこだけがあまりにも露骨に、外との境界を告げていた。

「おはよう。やっと、目覚めたんだね」

 声がした。

 玲音は息を呑んだ。ベッドの傍らに、知らない男が立っていた。

 背が高い。整った顔立ち。柔らかく微笑んでいるのに、その笑みの奥にあるものが読めない。優しさに似た何かが、静かにこちらを見下ろしていた。

「あっ……あれ? ここはどこ?」

 自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。

 枕元には、玲音のものではないスマホが置かれていた。画面には見慣れないアイコンのアプリが起動している。淡い紫の光が、凪いだ水面のように揺れていた。

「玲音さん、だよね。ずっと探してたんだよ。ようやく会えた」

 男はベッドの端に腰を下ろした。

 近い。

 たったそれだけの動作で、部屋の広さが急に意味をなくした。逃げ場のない寝室の中で、彼との距離だけが濃くなっていく。

「ようやく? 話がみえないんだけど……?」

 玲音は身を起こそうとした。けれど、身体が重かった。手足は動く。縛られているわけではない。それなのに、起き上がろうとするたび、見えない水の中を掻くように力が逃げていく。

 廊下のほうから、微かな人の気配がした。

 けれど足音はない。誰かがいるのか、それとも気配だけが残されているのか、わからなかった。

「怖がらなくていいよ。ここは僕の家。君を連れてきたのは、ちゃんとした理由があるんだ」

 男はそう言って、玲音の顔を覗き込んだ。

 その表情は安堵に満ちていた。長く失くしていたものを、ようやく手の中に戻した人の顔だった。

 でも玲音には、それが少しだけ怖かった。

 まるで、逃げる前から捕まっていたような気がした。

「僕のこと、もう少し知りたくない?」

 彼はゆっくりと距離を詰めた。声が耳に近づく。静かで、低くて、甘い声。

 その頃には、部屋の中に香りが漂い始めていた。

 花の匂いに似ている。けれど花だけではない。甘く、白く、輪郭のない香り。吸い込むたびに、思考の端が少しずつほどけていく。

 玲音は眉を寄せた。

「んっ……なんだか、体が重いよ……なにかした? それに、貴方は……誰なの?」

「ああ、ごめんね。混乱するよね」

 彼は困ったように微笑んだ。

 まるで、迷子の子どもを宥めるみたいに。

 けれど、その瞳の奥には、温度の低い光があった。玲音の震えも、疑問も、恐怖も、すべて最初から計算に含まれているような目だった。

「でも大丈夫。すぐ楽になるから」

 男がスマホの画面に指を滑らせる。

 紫の光が、ゆっくりと明滅した。波のように、呼吸のように、玲音の視界の隅で揺れる。

「ねぇ、僕の名前、呼んでみて?」

 空いた手が、玲音の前髪に触れた。

 驚くほど優しい指だった。乱暴ではない。強くもない。壊れ物に触れるみたいに、そっと額を露わにする。

 その優しさが、かえって怖かった。

「ふわ……? 貴方の名前……?」

「そう、名前。教えてあげるから、そのまま聞いてて」

 香りが濃くなったような気がした。

 空気が重い。胸の奥まで柔らかい霧が入り込んでくる。考えなければいけない。ここがどこなのか。彼が誰なのか。どうして自分はこの部屋にいるのか。

 逃げなきゃ。

 そう思ったはずなのに、その言葉は頭の中で形になる前に溶けた。

「ちょっとリラックスしてもらってるだけ。暴れられると困るからさ」

 彼はスマホを玲音の視界にかざした。

 紫の光が、ゆらゆらと揺れる。

「何もしてないよ。……まだ、ね」

 ふ、と小さく笑う息が、耳にかかった。

 玲音の背筋が震えた。怖い。怖いはずなのに、その声だけがやけにはっきり聞こえる。部屋の輪郭も、自分の身体の重さも、窓の鉄格子さえもぼやけていくのに、彼の声だけが沈まずに残る。

「鷹宮透真。……たくま、って呼んでほしいな」

 たくま。

 その音だけが、妙に鮮明だった。

 一語一語が、玲音の中へ落ちてくる。知らない名前のはずなのに、口にしたことがあるような気がした。ずっと前から呼び慣れていたみたいに、舌の上にその形が残る。

 違う。

 知らない。

 知らない人だ。

 なのに、唇が少しだけ震えた。

「た……たくま……」

 声に出した瞬間、彼の表情が変わった。

 溶けるように、満たされるように、笑みが深くなる。甘くて、優しくて、それなのに底が見えない笑みだった。

「うん。いい子だね、玲音」

 その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。

 褒められた。

 そんなふうに感じてしまった自分に、玲音は遅れて怯えた。いまのは違う。従ったわけじゃない。呼びたかったわけじゃない。

 けれど、否定しようとする思考がうまく掴めない。

 彼の名前を口にした感触が、まだ唇に残っていた。不快なのか、心地よいのかもわからない。ただ、その名前を呼ぶ前と後で、目の前の男が少しだけ近くなってしまったことだけはわかった。

「今から僕が言うこと、全部正しいよ。……わかる?」

 透真の指が、玲音の顎に触れる。

 強引ではない。けれど、逆らう余地を最初から与えない触れ方だった。

 玲音は半ば開いた目で、彼を見上げた。視界が滲む。白い天蓋。紫の光。彼の黒い瞳。全部がゆっくり混ざっていく。

「正しい……の?」

「そう。正しい」

 透真は、こくりと頷いた玲音を見て、花が咲くように笑った。

 その笑顔だけなら、きっと誰も疑わない。

 優しい人だと思うだろう。心配してくれているのだと、信じたくなるだろう。

 でも玲音の胸の奥には、まだ小さな警報が鳴っていた。遠くで、か細く、何度も。

 逃げなきゃ。

 ここにいてはいけない。

 なのにその音は、白い香りの中でだんだん遠ざかっていく。

「もう少し。力抜いていいよ」

 透真が頭を撫でた。

 子どもを寝かしつけるような仕草だった。紫の光が部屋の空気に滲み、カーテンも壁も、彼の指先も、薄い靄の向こうにあるように見える。

「玲音、今どんな気持ち?」

 親指が、玲音の唇の近くをかすめた。

 触れたのか、触れていないのか。曖昧な距離。その近さに息が詰まるのに、離れたいと思う力がうまく出てこない。

「僕は玲音の味方。世界で一番玲音を大切に思ってる人間。だから、僕のそばにいるのが一番幸せなんだよ」

 頬を両手で包まれた。

 掌は温かかった。

 その温かさが、玲音をさらに混乱させた。こんなに怖い状況なのに。知らない部屋で目覚めて、鉄格子のある窓を見て、逃げ道のない場所にいるとわかっているのに。

 どうして。

 どうして、この手に少しだけ安心してしまうのだろう。

 間違っている。

 そう思った。

 けれど、間違っているという言葉にも、もう力がなかった。

「ん……しあわせ……透真 の、そばで……」

 ぼんやりとした声が、自分の口からこぼれた。

 玲音はその言葉を聞いて、誰が言ったのかわからなくなった。自分の声だった。自分の唇が動いた。けれど、その奥にある気持ちが本当に自分のものなのか、もう判断できなかった。

 透真の瞳が揺れた。

「……っ、嬉しい。そう言ってくれるの、ずっと待ってた」

 彼は堪えきれないように玲音を抱き寄せた。

 大きな身体が覆うように近づく。心臓の音が、布越しに伝わる。速い。彼もまた、平静ではないのだと、その鼓動だけが告げていた。

 玲音は抵抗しようとした。

 したはずだった。

 けれど腕は上がらず、指先だけがシーツを弱く掴んだ。怖い。苦しい。けれど、あたたかい。嫌なのに、安心する。安心してしまうことが、何より怖かった。

「ね、返事は?」

 透真は少し身体を離し、玲音の目を正面から覗き込んだ。

 愛情と狂気が溶け合ったような、深い色だった。優しさの形をしているのに、その奥には逃がさないという静かな熱がある。

「じゃあ約束して。どこにも行かないって。僕だけを見るって」

 耳元で囁かれた言葉が、玲音の中へ沈む。

 どこにも行かない。

 僕だけを見る。

 それは命令のようで、祈りのようでもあった。

 透真の腕は緩まない。けれど、その強さは荒々しくなかった。大切なものを抱え込むような、失うことを怖がるような強さだった。

「約束……」

 玲音はぼんやりと呟いた。

 窓の鉄格子が、紫に滲んで見えた。外は明るいはずなのに、この部屋だけ夜の底に沈んでいるみたいだった。

「ん……。透真だけね」

 言ってしまった。

 その瞬間、胸の奥で何かが小さく閉じた。鍵の音にも似ていた。けれど、その鍵をかけたのが彼なのか、自分なのか、玲音にはもうわからなかった。

 透真は玲音の髪をひと房すくい上げた。

「大丈夫、時間はたっぷりあるから」

 彼の声は、ひどく優しかった。

 優しいからこそ、逃げ道を塞ぐ。

「ゆっくり、僕色に染めてあげる」

 髪に落とされた口づけは、羽のように軽かった。

 けれど玲音の中には、重く残った。

 枕元のスマホでは、紫の光がまだ静かに揺れている。画面の片隅に浮かぶ共鳴深度は、まだほんの三割ほどにしか達していなかった。

 それでも玲音は、もう彼の名前を知ってしまった。

 たくま。

 呼んだだけで、胸の奥が痛む名前。

 怖いのに、甘い。

 甘いのに、どこかでまだ、泣きたかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ