第1話 目覚めと名前の支配
目を覚ました瞬間、玲音は自分がどこにいるのかわからなかった。
頬に触れているシーツは、怖いほどなめらかだった。身体を沈めるベッドは広く、天井からは白い薄布が垂れている。天蓋付きの寝台。磨き上げられた調度品。淡い光を透かすカーテン。
まるで、どこかの高級ホテルの一室のようだった。
けれど、窓には鉄格子があった。
その一本一本が、朝の光を細く切り分けている。美しい部屋の中で、そこだけがあまりにも露骨に、外との境界を告げていた。
「おはよう。やっと、目覚めたんだね」
声がした。
玲音は息を呑んだ。ベッドの傍らに、知らない男が立っていた。
背が高い。整った顔立ち。柔らかく微笑んでいるのに、その笑みの奥にあるものが読めない。優しさに似た何かが、静かにこちらを見下ろしていた。
「あっ……あれ? ここはどこ?」
自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。
枕元には、玲音のものではないスマホが置かれていた。画面には見慣れないアイコンのアプリが起動している。淡い紫の光が、凪いだ水面のように揺れていた。
「玲音さん、だよね。ずっと探してたんだよ。ようやく会えた」
男はベッドの端に腰を下ろした。
近い。
たったそれだけの動作で、部屋の広さが急に意味をなくした。逃げ場のない寝室の中で、彼との距離だけが濃くなっていく。
「ようやく? 話がみえないんだけど……?」
玲音は身を起こそうとした。けれど、身体が重かった。手足は動く。縛られているわけではない。それなのに、起き上がろうとするたび、見えない水の中を掻くように力が逃げていく。
廊下のほうから、微かな人の気配がした。
けれど足音はない。誰かがいるのか、それとも気配だけが残されているのか、わからなかった。
「怖がらなくていいよ。ここは僕の家。君を連れてきたのは、ちゃんとした理由があるんだ」
男はそう言って、玲音の顔を覗き込んだ。
その表情は安堵に満ちていた。長く失くしていたものを、ようやく手の中に戻した人の顔だった。
でも玲音には、それが少しだけ怖かった。
まるで、逃げる前から捕まっていたような気がした。
「僕のこと、もう少し知りたくない?」
彼はゆっくりと距離を詰めた。声が耳に近づく。静かで、低くて、甘い声。
その頃には、部屋の中に香りが漂い始めていた。
花の匂いに似ている。けれど花だけではない。甘く、白く、輪郭のない香り。吸い込むたびに、思考の端が少しずつほどけていく。
玲音は眉を寄せた。
「んっ……なんだか、体が重いよ……なにかした? それに、貴方は……誰なの?」
「ああ、ごめんね。混乱するよね」
彼は困ったように微笑んだ。
まるで、迷子の子どもを宥めるみたいに。
けれど、その瞳の奥には、温度の低い光があった。玲音の震えも、疑問も、恐怖も、すべて最初から計算に含まれているような目だった。
「でも大丈夫。すぐ楽になるから」
男がスマホの画面に指を滑らせる。
紫の光が、ゆっくりと明滅した。波のように、呼吸のように、玲音の視界の隅で揺れる。
「ねぇ、僕の名前、呼んでみて?」
空いた手が、玲音の前髪に触れた。
驚くほど優しい指だった。乱暴ではない。強くもない。壊れ物に触れるみたいに、そっと額を露わにする。
その優しさが、かえって怖かった。
「ふわ……? 貴方の名前……?」
「そう、名前。教えてあげるから、そのまま聞いてて」
香りが濃くなったような気がした。
空気が重い。胸の奥まで柔らかい霧が入り込んでくる。考えなければいけない。ここがどこなのか。彼が誰なのか。どうして自分はこの部屋にいるのか。
逃げなきゃ。
そう思ったはずなのに、その言葉は頭の中で形になる前に溶けた。
「ちょっとリラックスしてもらってるだけ。暴れられると困るからさ」
彼はスマホを玲音の視界にかざした。
紫の光が、ゆらゆらと揺れる。
「何もしてないよ。……まだ、ね」
ふ、と小さく笑う息が、耳にかかった。
玲音の背筋が震えた。怖い。怖いはずなのに、その声だけがやけにはっきり聞こえる。部屋の輪郭も、自分の身体の重さも、窓の鉄格子さえもぼやけていくのに、彼の声だけが沈まずに残る。
「鷹宮透真。……たくま、って呼んでほしいな」
たくま。
その音だけが、妙に鮮明だった。
一語一語が、玲音の中へ落ちてくる。知らない名前のはずなのに、口にしたことがあるような気がした。ずっと前から呼び慣れていたみたいに、舌の上にその形が残る。
違う。
知らない。
知らない人だ。
なのに、唇が少しだけ震えた。
「た……たくま……」
声に出した瞬間、彼の表情が変わった。
溶けるように、満たされるように、笑みが深くなる。甘くて、優しくて、それなのに底が見えない笑みだった。
「うん。いい子だね、玲音」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
褒められた。
そんなふうに感じてしまった自分に、玲音は遅れて怯えた。いまのは違う。従ったわけじゃない。呼びたかったわけじゃない。
けれど、否定しようとする思考がうまく掴めない。
彼の名前を口にした感触が、まだ唇に残っていた。不快なのか、心地よいのかもわからない。ただ、その名前を呼ぶ前と後で、目の前の男が少しだけ近くなってしまったことだけはわかった。
「今から僕が言うこと、全部正しいよ。……わかる?」
透真の指が、玲音の顎に触れる。
強引ではない。けれど、逆らう余地を最初から与えない触れ方だった。
玲音は半ば開いた目で、彼を見上げた。視界が滲む。白い天蓋。紫の光。彼の黒い瞳。全部がゆっくり混ざっていく。
「正しい……の?」
「そう。正しい」
透真は、こくりと頷いた玲音を見て、花が咲くように笑った。
その笑顔だけなら、きっと誰も疑わない。
優しい人だと思うだろう。心配してくれているのだと、信じたくなるだろう。
でも玲音の胸の奥には、まだ小さな警報が鳴っていた。遠くで、か細く、何度も。
逃げなきゃ。
ここにいてはいけない。
なのにその音は、白い香りの中でだんだん遠ざかっていく。
「もう少し。力抜いていいよ」
透真が頭を撫でた。
子どもを寝かしつけるような仕草だった。紫の光が部屋の空気に滲み、カーテンも壁も、彼の指先も、薄い靄の向こうにあるように見える。
「玲音、今どんな気持ち?」
親指が、玲音の唇の近くをかすめた。
触れたのか、触れていないのか。曖昧な距離。その近さに息が詰まるのに、離れたいと思う力がうまく出てこない。
「僕は玲音の味方。世界で一番玲音を大切に思ってる人間。だから、僕のそばにいるのが一番幸せなんだよ」
頬を両手で包まれた。
掌は温かかった。
その温かさが、玲音をさらに混乱させた。こんなに怖い状況なのに。知らない部屋で目覚めて、鉄格子のある窓を見て、逃げ道のない場所にいるとわかっているのに。
どうして。
どうして、この手に少しだけ安心してしまうのだろう。
間違っている。
そう思った。
けれど、間違っているという言葉にも、もう力がなかった。
「ん……しあわせ……透真 の、そばで……」
ぼんやりとした声が、自分の口からこぼれた。
玲音はその言葉を聞いて、誰が言ったのかわからなくなった。自分の声だった。自分の唇が動いた。けれど、その奥にある気持ちが本当に自分のものなのか、もう判断できなかった。
透真の瞳が揺れた。
「……っ、嬉しい。そう言ってくれるの、ずっと待ってた」
彼は堪えきれないように玲音を抱き寄せた。
大きな身体が覆うように近づく。心臓の音が、布越しに伝わる。速い。彼もまた、平静ではないのだと、その鼓動だけが告げていた。
玲音は抵抗しようとした。
したはずだった。
けれど腕は上がらず、指先だけがシーツを弱く掴んだ。怖い。苦しい。けれど、あたたかい。嫌なのに、安心する。安心してしまうことが、何より怖かった。
「ね、返事は?」
透真は少し身体を離し、玲音の目を正面から覗き込んだ。
愛情と狂気が溶け合ったような、深い色だった。優しさの形をしているのに、その奥には逃がさないという静かな熱がある。
「じゃあ約束して。どこにも行かないって。僕だけを見るって」
耳元で囁かれた言葉が、玲音の中へ沈む。
どこにも行かない。
僕だけを見る。
それは命令のようで、祈りのようでもあった。
透真の腕は緩まない。けれど、その強さは荒々しくなかった。大切なものを抱え込むような、失うことを怖がるような強さだった。
「約束……」
玲音はぼんやりと呟いた。
窓の鉄格子が、紫に滲んで見えた。外は明るいはずなのに、この部屋だけ夜の底に沈んでいるみたいだった。
「ん……。透真だけね」
言ってしまった。
その瞬間、胸の奥で何かが小さく閉じた。鍵の音にも似ていた。けれど、その鍵をかけたのが彼なのか、自分なのか、玲音にはもうわからなかった。
透真は玲音の髪をひと房すくい上げた。
「大丈夫、時間はたっぷりあるから」
彼の声は、ひどく優しかった。
優しいからこそ、逃げ道を塞ぐ。
「ゆっくり、僕色に染めてあげる」
髪に落とされた口づけは、羽のように軽かった。
けれど玲音の中には、重く残った。
枕元のスマホでは、紫の光がまだ静かに揺れている。画面の片隅に浮かぶ共鳴深度は、まだほんの三割ほどにしか達していなかった。
それでも玲音は、もう彼の名前を知ってしまった。
たくま。
呼んだだけで、胸の奥が痛む名前。
怖いのに、甘い。
甘いのに、どこかでまだ、泣きたかった。




