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優しい鳥籠は、鍵をかけない  作者: 雨音 優


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第10話 囲い込む子

「お詫びに、今から夕飯を作りますね。何がいいですか?」

 透真は玲音の手を取り、痺れた足を庇うようにゆっくりと立たせた。

 五時間近くも膝を貸していたのだから、立ち上がったばかりの玲音の足元は、まだおぼつかない。

 透真は腰へ手を添え、彼女がしっかり立てたことを確かめてからも、すぐには離さなかった。

「えっ、本当?」

 玲音は嬉しそうに笑う。

「うーん。じゃあ、透真の得意な料理が食べたいわ」

「僕の得意料理ですか」

 透真は少し考え、腕まくりをした。

「じゃあ、肉じゃがで」

「肉じゃが?」

 玲音には少し意外だった。

 この広い屋敷と、隙のない透真の姿から想像するなら、もっと手の込んだ洋食や、名前も知らない料理が出てきそうな気がしたからだ。

 けれど透真は冷蔵庫から、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉を取り出し、慣れた手つきで調理台へ並べていく。

 包丁を握る姿も様になっていた。

「孤児院にいた頃、唯一まともに作れたのがこれだったんですよね」

 鍋へ出汁を張りながら、透真が何気なく言う。

「みんなに好評で」

 玲音は瞬きをした。

 孤児院。

 透真の過去にそんな場所があったことを、彼自身の口から聞くのは初めてだった。

 問い詰めるようにすれば、また心を閉じてしまうかもしれない。

 そう思い、玲音はカウンター席へ腰を下ろし、いつも通りの柔らかな声で答えた。

「ふふっ。みんな、喜んで食べてくれてたんじゃない?」

「小さい子たちが取り合いしてました」

 透真は玉ねぎを薄く切りながら、懐かしそうに目を細めた。

「おかわりの嵐で」

 その表情は、玲音の知らない透真だった。

 冷たい仕事の顔でも、完璧な恋人の顔でもない。

 もう戻れない場所を思い出している、年相応の青年の顔だった。

「僕が一番年上だった時期があって、毎週日曜に作る係だったんです」

 炒めた牛肉の香りがキッチンへ広がる。

「……あの子たち、元気にしてるかな」

 自然に零れた言葉だった。

 透真は自分で口にしてから、少し驚いたように瞬きをした。

 過去を思い返すことそのものを、普段は避けているのだろう。

「今も会いに行ったりするの?」

「最近は、何度か」

 透真は鍋を混ぜながら答えた。

「長いこと顔を出してなかったんですけど。寄付を持っていったり、少し子どもたちと遊んだり」

「そうなのね」

 玲音は嬉しそうに身を乗り出した。

「じゃあ、今度、私も連れていって」

 透真の手が止まった。

 ほんの一瞬だけだった。

 外へ行きたいという希望。

 けれどそれは、透真から離れるためではない。

 透真と一緒に、透真の過去を知る場所へ行きたいという願いだった。

 拒む理由を探す心と、玲音に自分を知ってほしいという心が、透真の中で静かにせめぎ合う。

「……いいですよ」

 やがて透真は答えた。

「ただし、必ず僕と一緒です」

「もちろんよ」

「帰りも一緒です。それから、園長先生は少し厳しい人なので、驚かないでくださいね」

「透真を育ててくれた人だものね。なんだか、ドキドキするわ」

 玲音は楽しそうに笑う。

 透真は複雑な表情で鍋へ視線を戻した。

 育ててくれた人。

 その表現は、完全には正しくない。

 園長は透真を、愛情だけで包み込んだ人ではなかった。

 規則を守らせ、悪いことをすれば叱り、時には無理やり誰かから引き離した。

 透真にとってあの人は、優しい親というより、危うい子どもだった自分を見張り続けた人に近い。

 けれど、あの場所がなければ、今の自分が存在していなかったことも確かだった。

「肉じゃが、いい匂いね」

 玲音は嬉しそうに目を細めた。

「何かお手伝いしちゃうわよ」

「今日は座っててください」

「でも」

「膝枕で五時間も寝かせたお詫びです」

 少し申し訳なさそうな顔で言われ、玲音はくすりと笑った。

「じゃあ、お言葉に甘えようかな」

 しばらくして、透真は肉じゃがを小皿へ取り、味を確かめた。

「うん。いい感じ」

 自画自賛ではなく、確かめるような口調だった。

 玲音のために作ったものが、きちんと美味しくできているか。

 そのことだけを気にしているようだった。

「はい、お待たせ」

 湯気の立つ肉じゃがが、食卓へ置かれる。

「わあ、美味しそう」

 玲音もいそいそとご飯と味噌汁を用意した。

「ご飯は私がよそうね。透真も早く座って、いただきましょう?」

「はい」

 二人は向かい合って座り、手を合わせた。

「いただきます」

 高価な器に盛られた、どこにでもある家庭料理。

 けれど玲音には、それがとても特別なものに見えた。

 透真が過去に誰かへ作った味を、今は自分のために作ってくれている。

 一口食べると、甘辛い出汁がじゃがいもの中まで染み込んでいた。

「うん。美味しい」

「味、濃くないですか?」

 透真は自分の食事よりも、玲音の反応ばかりを見ている。

「大丈夫。じゃがいもにもちゃんと味が染みてるし、本当に美味しいよ」

「よかった」

 透真の肩から、目に見えて力が抜けた。

 玲音は箸を進めながら、時折、透真の横顔を盗み見る。

 青葉園の話をしていた時の透真は、いつもよりも近く感じられた。

 彼の中に閉ざされた扉が、ほんの少しだけ開いたようだった。

 食事を終え、玲音は二人分の食器を洗った。

「じゃあ、私はお部屋に戻るね」

「はい。今日もゆっくり休んでください」

 透真が答える。

 けれど、食事の間に浮かんでいた穏やかな表情が、ほんの少しだけ曇った。

「うん。おやすみなさい」

 玲音は透真の頬へ、そっと口づけた。

「また明日ね、透真」

「……おやすみなさい、玲音」

 透真は頬へ手を当てたまま、階段を上がっていく玲音の背中を見送った。

 二階で扉が閉まる音がする。

 リビングには、透真だけが残った。

 つい先ほどまで玲音の笑い声があった空間が、急に広く感じられる。

 昼間は、自分の膝ではなく、玲音の膝で眠った。

 捨てないと言われた。

 いつでもまたしてあげると、指切りまでした。

 それなのに一人になると、不安は静かに戻ってくる。

「……逃げないよな」

 誰に聞かせるでもなく、透真は呟いた。

 返事はない。

 当然だった。

 透真はスマートフォンを取り出した。

 画面には、共鳴コードの表示が浮かんでいる。

『共鳴状態:深化継続』

 もう積極的な操作は、ほとんど必要ない。

 日々の会話。

 抱擁。

 食事。

 何度も交わされる「好き」と「ずっと一緒」。

 それらが玲音の中へ自然に積み重なり、透真を中心とした幸福を、さらに深く根づかせている。

 それでも透真は画面を閉じられなかった。

 玲音の言葉を信じたい。

 自分を愛しているのだと、心から思いたい。

 けれど共鳴コードを止めてしまえば、玲音がいつか我に返るのではないかという恐怖が消えない。

 愛されるために使ったはずのものが、今では透真自身の不安を抑えるための鎖にもなっていた。

 しばらく画面を見つめた後、透真はスマートフォンを伏せた。

 夜が深まっていく。

 使用人たちの巡回も終わり、屋敷が完全な静寂へ沈んだ頃。

 透真は自室へ戻らず、毛布を一枚持って二階へ向かった。

 玲音の部屋の前で足を止める。

 ノックはしなかった。

 そっと扉を開ける。

 玲音は、既に眠っていた。

 月明かりが白いシーツを淡く青く染めている。

 透真はベッド脇へしゃがみ込み、掛け布団から出ていた玲音の足へ、持ってきた毛布を重ねた。

「足、出てたよ」

 囁くように言う。

 玲音は目を覚まさない。

 幸せそうに瞳を閉じ、夢と現実の間を漂っている。

 透真はその寝顔を、長い間見つめていた。

「おやすみ、玲音」

 ようやく立ち上がり、音もなく部屋を出る。

 彼の優しさは本物だった。

 同時に、閉じた扉を許可なく開け、眠る玲音の無事を確かめなければ安心できないことも、本物だった。


 ◇


 翌朝。

 玲音が目を覚ますと、足元に見覚えのない毛布が掛けられていた。

 そっと畳み、枕元へ置く。

 誰が掛けたのか、考えるまでもなかった。

「透真ったら」

 玲音は小さく笑い、寝室を出た。

「おはよう、透真。今日もいい朝ね」

 階段を降りると、甘い香りが漂ってきた。

 キッチンでは、フライパンの上でパンケーキが焼けている。

「おはようございます。よく眠れました?」

 透真がキッチンから顔を出した。

「うん、ぐっすり。パンケーキ?」

「はい。朝から少し重いかなと思ったんですけど」

 透真は焼き上がったパンケーキを二枚重ね、メープルシロップとホイップクリームを添えた。

「どうぞ」

「わあ、とってもいい匂い」

 玲音はいつものカウンター席へ座り、楽しそうに足を揺らす。

「透真も隣で食べよう?」

「じゃあ、遠慮なく」

 二人で手を合わせ、パンケーキを口へ運ぶ。

「美味しい。ふわふわね」

「今日はうまくいきました」

「透真は料理の才能があるのね」

「孤児院のおかげですかね」

 透真は照れくさそうに、パンケーキの端をフォークでつついた。

「あそこで基礎を覚えたから」

 昨夜に続き、また青葉園の話が出た。

 玲音が聞きたがったからなのか。

 膝枕の温もりが、まだ心に残っているからなのか。

 いずれにしても、透真の中で閉ざされていた記憶が、少しだけ柔らかくなっているようだった。

「そうだ。今日、行きますか?」

「どこへ?」

「孤児院」

 玲音の顔が明るくなる。

「うん。行きたい!」

「じゃあ、支度しましょうか」

 透真は答えた後、何かを考えるようにフォークを止めた。

「ただし」

「うん?」

「僕から離れないって約束してくださいね」

 表情は真剣だった。

「園には、急に人へ懐く子もいますから」

「大丈夫よ。透真と一緒にいるわ」

「帰りも必ず一緒です」

「昨日も聞いたわ」

 玲音はくすくす笑う。

 口元へホイップクリームがついていた。

「あ、待って。クリームついてる」

 玲音は透真の口元へ手を伸ばし、指先でクリームを拭った。

 そのまま何気なく舐め取る。

 透真の動きが止まった。

「……ありがとうございます」

 咳払いを一つする。

 耳の先まで赤くなっているのが、朝の光の中ではっきりと見えた。

「どういたしまして」

「三十分後に玄関で」

 透真は逃げるように食器を片づけ始めた。

「着替えてきます」


 ◇


 三十分後。

 透真は黒いシャツとスラックス姿で、玄関ホールの壁へ寄りかかって待っていた。

 玲音が階段を降りてくる。

 選んだのは、黒いワンピースだった。

「黒、似合いますね」

 透真が短く言う。

「ありがとう」

 玲音は嬉しそうに笑った。

「行きましょう。車で二十分くらいです」

 黒いセダンが屋敷の門を滑り出す。

 玲音は助手席へ座り、窓の外を眺めていた。

 街路樹は少しずつ色づき始めている。

「窓、開けますか?」

「うん。開けてほしいな」

 玲音は窓から入る風に髪を揺らしながら、移り変わる景色を眺めた。

 実家へ向かう時とは違う道。

 久しぶりに、急かされることなく見る街の景色。

 コンビニの看板。

 信号待ちの人々。

 犬を散歩させる老人。

 どこにでもある光景が、屋敷で過ごす時間の長くなった玲音には、新鮮に映った。

「人もいっぱいいるのね」

「身を乗り出すと危ないですよ」

 透真は苦笑する。

 信号で車が止まるたび、隣に座る玲音の横顔へ視線を向けていた。

 玲音が外の世界へ興味を示す。

 本来なら、不安になる光景だった。

 けれど今、玲音は透真の隣にいる。

 自分と一緒に、自分の過去へ向かっている。

 その事実が、かろうじて透真の心を落ち着かせていた。

「あの建物、見えますか」

 信号で止まり、透真が前方を指さした。

 住宅街の奥に、古びた二階建ての建物が見える。

 門の横には、『青葉園』と書かれた看板が掛かっていた。

「あそこです」

 車を駐車場へ入れる。

「……変わってないな」

 透真は小さく呟いた。

 駐車場には数台の自転車と、小さな三輪車が並んでいる。

 門の内側から、子どもたちの笑い声が聞こえた。

「緑がいっぱいね」

 玲音は車を降り、施設を見上げる。

「古いけど、すごく優しい場所って感じがするわ」

「優しい場所、ですか」

 透真は門へ手を掛けたまま、少しだけ躊躇した。

 その時だった。

「あっ! とうまだ!」

 甲高い声が園庭から響く。

 五歳ほどの男の子が、裸足のまま飛び出してきた。

「とうまー!」

 その後ろから、女の子と男の子が続く。

「今日も来てくれたの!?」

「今日も遊んでくれる?」

 子どもたちは一斉に透真へ飛びついた。

「よお。元気だったか」

 先ほどまでの緊張した表情はどこへやら、透真はしゃがみ込み、子どもたちを受け止める。

 一人を抱き上げ、もう一人の頭を撫でる。

 子どもたちの前にいる透真は、屋敷で見るどの顔とも違っていた。

「今日は挨拶だけ。ごめんな」

「えー!」

「もっと遊んでよ!」

 透真へよじ登っていた子が、玲音の存在に気づく。

「ねえ、この人だれ?」

 大きな目で玲音を見上げる。

「とうまのお嫁さん?」

 透真が固まった。

「えっ」

 玲音も目を瞬く。

「ふふっ。お嫁さんになる約束をしてるの」

 玲音は柔らかく笑った。

「そしたら毎日、透真と一緒にいられるものね」

「ほら! とうま、顔赤い!」

 子どもたちが声を上げて笑う。

「変なこと言うなって」

 透真は耳を赤くし、子どもの頭へ顔を埋めるようにして誤魔化した。

 園庭の奥から、杖を突く音が近づいてくる。

「鷹宮」

 低く、よく通る声だった。

「来るなら連絡くらいしなさい」

 白髪の老婦人が、鋭い目で透真を見ていた。

 エプロン姿で、片手には杖を持っている。

 透真は子どもたちを地面へ降ろすと、すぐに背筋を伸ばした。

「すみません、先生」

 園長は玲音へ視線を移す。

「おやまあ。鷹宮が女の人を連れてくるなんてね」

 玲音を上から下まで見る。

 服装だけでなく、表情や立ち方まで見抜こうとしているような視線だった。

「その子、誰だい?」

「僕の大切な人です」

 透真は真っ直ぐ答えた。

 園長の目が細くなる。

「大切な人、ねえ」

「玲音と申します」

 玲音は深く頭を下げた。

「よろしくお願いします」

「礼儀正しい子だね」

 園長はしばらく玲音を見つめ、それから園舎へ顎を向けた。

「中に入りな。お茶くらい出すよ」


 ◇


 青葉園の中は、古い木造の建物ながら、隅々まで清潔に整えられていた。

 廊下の奥から何人もの子どもが顔を覗かせる。

 園長が一睨みすると、慌てて姿を隠した。

 三人は小さな応接室へ通された。

 簡素な机と、パイプ椅子。

 豪華さはないが、不思議と落ち着く空間だった。

「座んなさい」

 園長は二人の前へ茶を置くと、自分も杖を支えにしながら椅子へ腰を下ろした。

「で、鷹宮。どういう風の吹き回しだい?」

「別に。たまには顔を出そうかと思って」

 透真は湯呑みを手に取ったが、口はつけない。

 園長は鼻で笑った。

「嘘が下手な子だねえ」

「嘘なんか」

「あんたがここへ来る時は、何か抱えてる時だよ。昔からそうさ」

 図星だったのか、透真は黙り込んだ。

 園長は玲音へ顔を向ける。

「玲音さんだったね。この子と暮らしてるのかい?」

「はい。その通りです」

 玲音は気後れしそうになりながらも、はっきりと答えた。

 園長の目は、再び透真へ戻る。

「……鷹宮」

 湯呑みを置く音が、静かな部屋へ響いた。

「あんた、また誰かを囲い込んでるんじゃないだろうね」

 空気が変わった。

 玲音は目を丸くする。

「囲い込むって……どういう意味ですか?」

 透真は動かなかった。

 ただ、湯呑みを握る指先が白くなっている。

 園長は深く息を吐いた。

「この子はね、昔、ここで一番小さかった子に執着したことがあるんだよ」

 玲音を真っ直ぐ見つめる。

「四歳の女の子だった」

 透真の顔から、表情が消える。

「あの子を独り占めして、ほかの子と遊ばせなかった。あの子が笑いかける相手も、自分だけでなければ気が済まなかった」

 園長の声には怒りだけでなく、古い疲れが滲んでいた。

「あの子が泣いても離そうとしなかった。離れて過ごすことをこの子に受け入れさせるまで、三か月かかったんだ」

 玲音は隣に座る透真を見た。

 透真は俯き、何も言わない。

 現在の彼からは想像しにくい話のはずなのに、完全に違うとも思えなかった。

 ヒカリの言葉が、ふいに蘇る。

 監禁。

 外へ出してもらえない。

 友人と連絡が取れない。

 それでも玲音の心は、疑いより先に透真を守ろうとした。

「でも、今の私たちは、その話とは違います」

 玲音が口を開く。

 透真が驚いたように顔を上げた。

「透真は私を助けてくれたんです」

「助けた、ねえ」

 園長の目が鋭くなる。

「私は囲われていません」

 玲音は毅然とした声で続けた。

「自分の意思で、透真と一緒に暮らしています」

 園長は玲音を見つめた。

 長年、傷ついた子どもたちを見てきた目だった。

 自分の意思だと信じている人間の言葉と、本当に自由な人間の言葉の違いを、見極めようとする目。

 やがて園長は、杖の先で床を一度叩いた。

「玲音さん。あんたがそう言うなら、今は信じておくよ」

 今は。

 その言葉には、明確な留保があった。

「でもね、鷹宮」

 園長の目が透真を射抜く。

「あの子みたいな思いをさせるんじゃないよ」

 透真は何も答えなかった。

 ただ、しばらくして小さく頷いた。

 その顔には、普段の冷静さも、他人を見下ろす余裕もなかった。

 過去を暴かれた恥ずかしさ。

 玲音が離れてしまうかもしれない恐怖。

 園長に叱られていた頃の、少年のような脆さが滲んでいた。

 園長は二人を順番に見た。

「最近、一人で何度も顔を出して、寄付まで置いていくようになった。長いこと連絡もよこさなかった子がだ」

 透真は目を逸らす。

「何かあったんだろうってことくらい、馬鹿でもわかるさ」

 園長は、もう話は終わりだというように手を振った。

「子どもたちが待ってる。行ってやりな」

 園長が応接室を出ていく。

 扉が閉じると、二人きりになった部屋へ時計の音だけが残った。

 透真はようやく冷めた茶へ口をつけた。

「……すみません」

「どうして謝るの?」

「嫌な話を聞かせた」

 透真の声は小さかった。

 玲音は首を横に振る。

「ううん。あなたの過去のことを知れて、嬉しいわ」

「嬉しい?」

「過去があったから、今のあなたがいるんだもの」

 玲音は透真の手へ、そっと自分の手を重ねた。

 透真の指は、微かに震えていた。

「そう言ってくれるのは、玲音だけです」

 園長の言葉は、玲音の中へ小さな棘として残っていた。

 あの子みたいな思いをさせるんじゃないよ。

 けれど玲音は、その言葉を透真から離れる理由にはしなかった。

 むしろ、昔の透真をもう孤独にさせないために、自分がそばにいなければならないと思った。

 窓の外から声がする。

「お姉さん、まだー?」

「遊ぼうよー!」

 玲音は微笑んだ。

「たくさん遊んであげなくちゃね」

「……そうですね」

 透真は立ち上がる。

「戻りましょうか。あの子たち、待ってる」

 玲音の手を取る透真の指には、いつもより強い力が込められていた。

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