第11話 おままごとじゃなくて
青葉園の玄関を出ると、子どもたちは待ち構えていたように一斉に集まってきた。
園長の言葉は、まだ玲音の胸へ小さな棘を残していた。
けれど、透真と繋いだ手の温もりに触れると、その棘はすぐに「自分が支えてあげなければ」という思いへ変わっていった。
「お姉さん、こっち!」
「おままごとしよ!」
「ずるい! 俺が先に約束した!」
五人、六人、それ以上。
小さな手が玲音のスカートを引き、別の子は背中へよじ登ろうとする。
近くでは青葉園の職員が子どもたちを見守り、危なくないよう声をかけていた。
玲音は戸惑いながらも、子どもたちを拒まなかった。
「ふふっ。じゃあ、みんな一緒におままごとしましょ」
「やったー!」
玲音は子どもたちに引かれ、園庭の遊び場へ連れていかれる。
少し離れた木陰にいた透真は、その様子を黙って見ていた。
玲音が困っていないか。
子どもたちに引っ張られて転ばないか。
視線だけは一瞬も離れない。
「お姉さんがママね!」
一人の女の子が玲音へ玩具の皿を渡した。
「じゃあ、パパは?」
「とうま!」
「とうまがパパ!」
透真が目を見開く。
「僕?」
「パパ役やって!」
「はいはい」
拒む気はないらしく、透真は観念したように園庭へ歩いてきた。
木陰へ座り、子どもが差し出した玩具のカップを受け取る。
大きな身体で小さな皿を持つ姿は少し不慣れで、けれど不思議と自然だった。
「ママ、ごはんできたよ!」
「ありがとう。美味しそうね」
「パパにもあげて!」
「はい、透真」
玲音が玩具の料理を差し出す。
透真は真面目な顔でそれを受け取った。
「いただきます」
「ほんとに食べちゃだめだよ!」
「わかってる」
子どもたちの笑い声が園庭へ広がる。
「ねえ、ママ」
一人の子が、玲音へそっと耳打ちした。
「本当にとうまと結婚するの?」
「そうね」
玲音は透真を見て、くすくす笑う。
「もう、結婚するって約束したのよ」
「そしたら毎日一緒だね!」
「うん。毎日ずっと一緒にいられるものね」
透真がわかりやすく視線を逸らした。
「とうま、顔赤い!」
子どもたちが一斉に笑う。
「うるさいな」
透真は長い髪で耳を隠すように顔を俯けた。
木の棒をマイクに見立てた男の子が、透真の前へ立つ。
「パパはママのこと好き?」
透真は玲音を見た。
冗談として答えることもできた。
けれど、口から出た声には迷いがなかった。
「……ああ、好きだよ」
「きゃー!」
黄色い歓声が上がる。
玲音も頬を赤らめた。
「じゃあ、指輪あげる!」
女の子が、小さな箱から玩具の指輪を取り出した。
ピンク色のビーズが付いた、安いプラスチック製の指輪。
けれど子どもたちの表情は大真面目だった。
「ママ、指出して!」
玲音が左手を差し出す。
薬指へ、小さな指輪がはめられた。
「これで結婚!」
「パパとママだ!」
玲音は薬指を見つめ、柔らかく笑った。
「可愛い指輪。ありがとう」
透真は、その指輪から目を離さなかった。
昨日の朝、玲音は自分の妻になると言った。
それなのに、その約束を示すものはまだ何もない。
子どもの玩具でさえ、玲音の薬指にあるだけで、ひどく心を揺らした。
透真は胸の奥へ生まれた衝動を、黙ったまま抱え込んだ。
◇
遊び疲れた子どもたちは、昼寝の時間になっても、なかなか玲音から離れようとしなかった。
「ママ、一緒に寝て」
「子守歌、歌って」
職員が園庭の木陰へ敷物を広げ、眠そうな子どもたちを座らせる。
玲音も職員へ確認してから、子どもたちと一緒に横になった。
一人が腕へしがみつき、もう一人は服の裾を握る。
ぎゅうぎゅうに囲まれた玲音は、困ったように笑いながらも、優しく一人ずつ頭を撫でた。
「じゃあ、子守歌を歌ってあげるね」
穏やかな声が、園庭へ流れ始める。
秋風が木々を揺らし、葉の隙間から落ちる光が、玲音と子どもたちの上で静かに揺れていた。
最初はきゃっきゃとはしゃいでいた声も、歌が進むにつれて少なくなる。
「ママ……あったかい……」
幼い声が呟く。
一人、また一人と瞼を閉じた。
五分も経たないうちに、子どもたちは規則正しい寝息を立て始める。
透真は少し離れた場所へ腰を下ろし、その光景を見つめていた。
玲音の周りで眠る子どもたち。
優しく髪を撫で、静かに歌う姿。
それは、透真が得られなかった家庭の光景にも見えた。
同時に、遠い昔の記憶を呼び起こしていた。
「園長先生が言ってた子も」
透真がぽつりと言う。
「最初は、こうやって歌ってくれたんです」
玲音は歌を止めずに、透真へ視線を向けた。
幼い頃の透真が、四歳の少女へ執着した。
ほかの誰とも遊ばせず、自分だけを見ているように求めた。
少女が泣いても、離そうとしなかった。
けれど玲音には、透真が最初から少女を支配したかったわけではないように思えた。
優しい歌を聞き、自分へ笑いかけてくれた。
その温もりを失うことが、怖くなったのではないか。
失うくらいなら、どこにも行けないように抱え込んだ。
園長の警告は、玲音自身へ向けられたものでもある。
けれど玲音は、それを透真から離れるべき理由ではなく、透真を救わなければならない理由として受け取っていた。
玲音は透真へ身体を寄せ、その肩へそっと頭を預けた。
「あなたがそばにいてくれれば、もう二度とあんな思いはしないよ」
透真の目が揺れた。
自分が離れなければいい。
愛し続ければ、透真はもう誰かを無理に囲わなくても済む。
玲音はそう信じていた。
「……僕もです」
透真は玲音の肩を抱いた。
「玲音がいるから、またここへ来られた」
子どもたちを起こさないよう、声は低い。
風が凪ぎ、園庭に静けさが満ちる。
一人の子どもが、玲音の服の裾を握ったまま眠っていた。
透真はその小さな手を見つめ、何も言わず目を細めた。
「帰りましょうか」
しばらくして、玲音の耳元で囁く。
「……この景色、覚えておきたいから」
玲音は頷いた。
二人は職員へ子どもたちを任せ、起こさないよう慎重に立ち上がった。
園長へ挨拶をし、青葉園を後にする。
「今日はありがとう」
玲音は透真と手を繋ぎながら歩いた。
「子どもたちも、すごく喜んでた」
「玲音が来てくれたからですよ」
「あなたと結婚する、おままごともできたしね」
玲音は薬指に残る玩具の指輪を見て笑う。
透真は繋いだ手へ、少しだけ強く力を込めた。
「おままごとじゃなくて」
玲音が顔を上げる。
透真の目は笑っていなかった。
冗談を言っている声ではなかった。
「本番にしますか」
「えっ」
玲音の頬が赤くなる。
透真は少し先にある商店街へ目を向けた。
店先に、小さなアクセサリー店が見えた。
「玲音。あの店の前で、少し待っててもらえますか」
「どこか行くの?」
「すぐ戻ります。僕から見えるところにいてください」
玲音は店の正面にあるベンチへ座った。
ガラス張りの店内から、玲音の姿がよく見える。
「わかった」
透真は店の中へ入っていく。
店員と話しながらも、何度もガラス越しに玲音の姿を確認していた。
夕陽が街を橙色に染めている。
買い物客の声。
自転車のベル。
どこかの店から漂う焼き菓子の香り。
玲音は玩具の指輪へ触れながら、透真の戻りを待った。
しばらくして、透真が戻ってきた。
その手には、小さな箱が握られている。
「おかえり」
玲音は立ち上がった。
「遅かったけど、何してたの?」
「開けてみてください」
透真はベンチへ座り、箱を玲音の膝へ置いた。
促されるまま蓋を開ける。
中には、細い銀色のリングが収められていた。
小さな石が一つだけ埋め込まれ、夕陽を受けて静かに光っている。
「これって……」
玲音は自分の薬指にある玩具の指輪を見る。
「さっき、子どもたちにもらったものと同じ……?」
「さすがに、あれとは違いますよ」
透真は口元だけで笑った。
「正式な婚約指輪は、改めて用意します」
「じゃあ、これは?」
「約束の指輪です」
透真は玲音の左手を取った。
「昨日の朝、結婚するって言ってくれたでしょう」
「うん」
「それを、なかったことにされたくないから」
玲音の薬指から、子どもたちにもらった玩具の指輪をそっと外す。
それを大切に箱の脇へ置き、新しいリングを指へ通した。
「サイズを調整できるものなので、合うと思います」
細身の指輪は、玲音の薬指へ吸い込まれるように収まった。
玲音は自分の左手を見つめた。
婚約が、急に現実味を持ったように感じる。
昨日の朝に交わした言葉。
子どもたちの無邪気なままごと。
それらが、指にある小さな重みへ変わっていた。
「あ、ありがとう」
玲音の頬が赤くなる。
「大切にするね」
「大切にするのは僕の方です」
透真は指輪をはめた玲音の手を、包み込むように握った。
「玲音も、この約束も」
玲音の胸が大きく鳴る。
「これで本当に、おままごとじゃなくなったみたいだね」
「みたい、じゃなくて」
透真が顔を近づける。
吐息が触れそうなほど近い。
「本気ですよ」
二人はしばらく、互いの目を見つめたまま動かなかった。
先に耐えられなくなったのは玲音だった。
「あ、あのね」
視線を逸らし、顔を真っ赤にする。
「そろそろ帰ろうか」
「……そうですね」
透真は名残惜しそうに手を離した。
立ち上がりながら、赤い耳を隠すように首元へ触れる。
二人は再び手を繋ぎ、車へ向かった。
夕焼けは少しずつ紫色へ変わり始めていた。
二人の影が、地面の上で寄り添うように揺れている。
◇
帰りの車内でも、透真は信号で止まるたび、玲音の左手へ視線を向けていた。
「どうして、そんなに私の指輪ばかり見てるの?」
玲音が不思議そうに尋ねる。
「似合ってるなと思って」
透真は前を向いたまま答える。
信号で車が止まると、玲音の手を取り、その甲を親指で静かになぞった。
「似合ってるかどうかはわからないけど」
玲音は空いている手で、指輪へ触れる。
「でも、嬉しいよ」
「嬉しいなら、よかった」
信号が青へ変わる。
透真は名残惜しそうに玲音の手を離し、ハンドルへ戻した。
それは婚姻の証明ではない。
正式な婚約指輪でもない。
玲音を法的に繋ぎ止める力など、まだ何もない。
それでも、指輪がそこにあるだけで透真は安心した。
玲音が自分を選んだことを、目に見える形で確かめられるからだった。
屋敷へ着く頃には、空はすっかり暗くなっていた。
門灯が灯り、車を迎える。
玄関では、無名の使用人たちが頭を下げて待っていた。
「おかえりなさいませ。お夕食の準備が整っております」
「ありがとう。二人分、頼む」
靴を脱ぎながら、透真が答える。
使用人の視線が、玲音の左手へ一瞬だけ向けられた。
けれど何も口にはせず、静かに下がっていった。
食卓には豪華な料理が並べられていた。
二人は向かい合って座る。
玲音は食事へ手をつけず、何度も指輪へ目を落としていた。
「食欲、ないですか?」
透真が心配そうに見る。
「違うの」
玲音は恥ずかしそうに笑った。
「さっきの指輪が、すごく嬉しくて。食欲より、そっちへ意識がいっちゃう」
透真の表情が緩む。
「食べてもらわないと困ります」
ナイフで肉を一切れ切り、玲音の皿へ移した。
「倒れたら、僕が泣きますよ」
「じゃあ、お言葉に甘えていただくね」
食事は穏やかに進んだ。
青葉園の子どもたちの話。
どの子が一番甘えん坊だったかという話。
透真へ何度もよじ登っていた子。
子守歌を聞きながら、真っ先に眠った子。
玲音がデザートまで食べ終えると、透真は満足そうに頷いた。
「そろそろお風呂に入って、寝なくちゃね」
時計は既に午後十時を回っている。
「先にどうぞ。僕は後で入ります」
「そう? じゃあ、お先に失礼するね」
玲音は脱衣所へ向かった。
服を脱ぎ、バスルームへ入る。
湯気が鏡を曇らせる。
左手の薬指にある銀色の指輪が、白い湯気の向こうでぼんやりと光った。
まるで新婚夫婦みたい。
そう思っただけで、玲音の頬が熱くなる。
廊下から、透真の足音が近づいてきた。
「玲音、タオル足りてますか」
脱衣所の外から声がする。
「替えのバスタオルは、棚の上段にありますから」
「うん。ちゃんと持ったから大丈夫だよ。ありがとう」
少し驚きながら返事をする。
「わかりました」
足音が遠ざかっていく。
わざわざ確認に来るなんて、律儀な人。
玲音はそう思い、指輪へ触れながら笑った。
風呂から上がると、寝室には着替えが用意されていた。
肌触りのよいルームウェア。
柔らかなタオル。
ベッドのシーツも新しいものに替えられている。
使用人が整えたのか。
それとも透真が指示したのか。
枕元には、小さなメモが置かれていた。
『おやすみなさい。今日はありがとうございました。』
几帳面な文字で、それだけが書かれている。
玲音は思わず口元を緩めた。
メモの裏へ、返事を書く。
『こちらこそありがとう。おやすみ。』
枕元へ置き、ベッドへ寝転がる。
「今日は本当に楽しかったな」
左手を持ち上げ、指輪を眺める。
青葉園。
園長の言葉。
子どもたちの笑顔。
透真の過去。
そして、約束の指輪。
さまざまな出来事があったはずなのに、玲音の胸へ最も強く残ったのは、透真との未来を約束された幸福だった。
◇
その頃、透真は自室のベッドへ横たわっていた。
暗い部屋を、スマートフォンの光だけが青白く照らしている。
画面には共鳴コードのアイコンが表示されていた。
指を伸ばす。
けれど、押さない。
今日、園長に過去を暴かれた。
玲音が自分から離れる可能性を、ほんの一瞬でも恐れた。
それでも玲音は、自分を擁護した。
過去を知れて嬉しいと言った。
そばにいれば、もう二度と同じ思いはしないと約束した。
透真は共鳴コードのアイコンを見つめる。
玲音の言葉を信じたい。
けれど、停止も削除もできない。
自分から離れないための最後の安全装置を、まだ手放すことはできなかった。
透真の親指は、アイコンの上を滑る。
そして、画面を閉じた。
代わりに検索欄を開く。
『正式な婚約指輪』
『結婚指輪 オーダー』
『指輪 サイズ 測り方』
検索結果が次々と表示される。
今日渡したものは、その場の感情で選んだ約束の指輪だった。
次は、もっと確かなものを。
誰が見ても、玲音が自分の婚約者だとわかるものを。
共鳴コードを使わずとも、玲音が自分を選んだのだと信じられるものを。
透真は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「絶対に、幸せにするから」
それは誓いだった。
同時に、玲音の未来を自分以外には渡さないという宣言でもあった。
同じ屋敷の中では、玲音が約束の指輪をはめたまま眠っている。
銀色の輪は、玲音にとって幸福の印だった。
透真にとっては、愛する人が離れないと確かめるための印。
二人の約束は、同じ形をしていた。
けれど、その内側に込められた意味は、まだ完全には同じではなかった。




