第14話 残された花
朝の気配が、ゆっくりと寝室へ入り込んでいた。
カーテンの隙間から細い光が差し込み、白いシーツの上を淡く照らしている。
遠くから聞こえる小鳥のさえずりに、玲音の瞼がかすかに動いた。
「んぅぅ……」
一度だけ薄く目を開く。
けれどまだ眠気の方が勝っていたらしい。
隣にある温もりを確かめるように少しだけ身体を寄せると、そのまま再び目を閉じた。
透真はもう起きていた。
昨夜、眠ったまま玲音を抱き寄せた腕は、朝になっても彼女の腰へ回ったままだった。
すやすやと眠る玲音をしばらく見つめる。
警察署へ同行した昨日。
帰宅した自分へ泣きながら抱きついてきた玲音。
離さないで、と言った声。
それらを思い出すように、透真は玲音の額へ静かに口づけた。
その時。
サイドテーブルの上で、スマートフォンが低く震えた。
画面には番号が表示されていない。
非通知。
透真の目から、柔らかさが消えた。
玲音を起こさないよう腕を慎重に外す。
その瞬間、玲音が小さく身じろぎした。
透真は動きを止める。
けれど玲音は目を覚まさず、透真のいた場所へ頬を寄せただけだった。
それを見届けてから、透真はスマートフォンを手に取る。
ベランダへ出て、ガラス戸を静かに閉めた。
「……何」
低い声。
ほんの数秒前まで玲音へ向けていたものとは、まるで別人だった。
電話の相手は、裏組織で外部情報を扱っている人物だった。
昨日の警察介入を受け、夜通し周辺の動きを追わせていた。
相手の報告を、透真は黙って聞く。
警察側は、屋敷の登記だけではなく、以前の所有関係まで調べ始めている。
かつてこの屋敷を誰が所有していたのか。
そこから何が変わったのか。
玲音に関する周辺照会も続いている。
まだ決定的な材料には届いていない。
だが。
網は確実に狭くなっていた。
透真は煙草を一本取り出した。
日常的に吸うわけではない。
それでも、強い苛立ちや焦りを押し込めたい時だけ、時折こうして火をつけることがあった。
朝の冷たい空気の中へ、細い煙が溶けていく。
「あとどのくらいかかる?」
相手の返答を聞く。
透真は目を細めた。
「……うん。わかった」
一度、寝室を振り返る。
カーテン越しの光。
ベッドで眠る玲音。
それだけで、冷えていた顔がほんの一瞬緩んだ。
だが視線を戻した時には、また硬いものへ変わっていた。
「じゃあ今日の午後に」
短くなった煙草を灰皿へ押しつける。
「場所はいつものところで」
通話を切った。
画面が暗くなる。
透真はそのまま数秒、ベランダに立っていた。
警察は、どこまで迫ってくるのか。
屋敷の過去へ辿り着けば、余計なものまで掘り起こされる。
玲音のことだけでは済まなくなる可能性もある。
それでも。
寝室へ戻り、玲音の寝顔を見た途端。
考えることは一つに集約された。
玲音を失わない。
そのためなら、何を整えるべきか。
何を切り離すべきか。
誰と会うべきか。
透真の中では、すでに順序が組み上がり始めていた。
◇
「玲音」
ベッド脇へ腰を下ろす。
「そろそろ起きる時間だよ」
「ん……」
玲音は布団を顎まで引き上げたまま、薄く目を開いた。
「朝……?」
「朝です」
透真の姿を認めると、玲音の顔がふっと緩んだ。
「おはよう、透真」
「おはよう」
玲音は眠たそうな目のまま、両腕を少し広げる。
「おはようのぎゅーしてくれる?」
透真が一瞬、黙った。
「朝からそれ?」
「だめ?」
「だめなわけないでしょ」
ベッドへ膝をつき、玲音を布団ごと抱きしめる。
「わっ」
玲音は嬉しそうに笑った。
ぎゅう、というより。
包み込むような抱擁だった。
透真はすぐには離れない。
玲音もその胸元へ頬を寄せ、安心したように目を閉じた。
「……あったかい」
「玲音、また寝る気?」
「ちょっとだけ」
「だめです」
「けち」
「朝ごはんが待ってるから」
そう言いながらも、透真自身が玲音を離そうとしない。
玲音はそれに気づき、くすくす笑った。
「透真も離してないじゃない」
「これは別」
「ずるい」
「知ってます」
ようやく腕が緩む。
透真は玲音の乱れた髪を手で整えた。
「朝ごはん食べたら、今日は少し出かけるから」
玲音の表情が止まる。
「……出かけるの?」
「うん」
「私も?」
透真はすぐには答えなかった。
その短い間だけで、玲音には答えがわかった。
「連れて行ってくれないの?」
責める声ではない。
ただ、少し寂しそうだった。
透真は目を細める。
「今日は僕だけ」
「そう……」
「すぐ帰ってくるから」
頭をくしゃりと撫でる。
「昨日みたいにはならないよ」
その一言で、玲音の胸に残っていた不安を見抜かれていたのだとわかった。
「……うん」
玲音は透真へ抱きつく。
「じゃあ、いってらっしゃいする」
「まだ朝ごはんも食べてないけど」
「予約」
「何それ」
透真が笑った。
◇
朝食はいつも通り、二人で取った。
トースト。
スクランブルエッグ。
サラダ。
果物。
コーヒー。
昨日の疲れが残っているはずなのに、透真はいつもより少し多めに食べていた。
午後のことを考えているのかもしれない。
玲音は向かいから、その様子を何度も見ていた。
「そんなに見られると食べづらいんだけど」
「だって」
「何?」
「今日もちゃんと帰ってくるよね?」
透真の手が止まった。
「帰ってくるよ」
「夕方?」
「そのくらいになると思う」
透真はコーヒーカップを置いた。
「何か欲しいものある?」
「欲しいもの?」
「帰りに買ってくる」
玲音は少し考えた。
ケーキ。
花。
本。
何か答えれば、透真はきっと買ってくる。
けれど。
「……ん」
玲音は上目遣いに透真を見る。
「早く帰ってきてね」
「それは欲しいものじゃないでしょう」
「私にはそうなの」
そして、少し照れたように笑った。
「透真が帰ってきてくれるだけでいいの」
透真は黙った。
ほんの数秒。
それから困ったように笑う。
「反則だよ、それ」
「どうして?」
「そんなこと言われたら出かけたくなくなる」
「じゃあ行かない?」
「それはだめ」
「やっぱり」
玲音は少し頬を膨らませる。
透真は席を立ち、その横へ回った。
「必ず帰ってくる」
玲音の額へ、長い口づけを落とす。
「待ってて」
「うん」
玲音は目を閉じる。
その言葉だけで、胸の奥のざわつきが少し和らいだ。
同行するかどうかを決める権利は、最初から玲音にはなかった。
透真は行く。
玲音は待つ。
以前なら、その不自由さがもっと明確な形を持っていたのかもしれない。
けれど今の玲音は、そこへ疑問を向けない。
帰ってきてくれるなら、それでいい。
そう思えてしまうこと自体が、どれほど深く彼女の世界が変わっているのか。
玲音本人だけが、それを知らなかった。
◇
玄関で透真がコートを羽織る。
使用人たちが静かに見送っていた。
「じゃあ、行ってくる」
「うん」
「何かあったら使用人に言って」
「わかった」
「庭くらいなら出てもいいけど、門の外には行かないで」
「うん」
あまりにも自然な口調だった。
恋人へ留守番を頼むように。
けれどそこにあるのは、やはり許可だった。
玲音はそれを気にする様子もなく笑う。
「いってらっしゃい、透真」
「いってきます」
もう一度額へ触れるだけのキス。
透真はコートの裾を翻し、屋敷を出ていった。
午後の会合までに、先に確認しておかなければならないことがいくつかあった。
車のエンジン音が遠ざかる。
やがて完全に聞こえなくなった。
玄関の向こうに残った静寂を、玲音はしばらく見つめていた。
◇
何かをしよう。
そう思った。
本でも読もうか。
部屋を片づけようか。
使用人に何か手伝えることがないか聞こうか。
けれど、どれも落ち着かなかった。
透真が出ていってから、まだ一時間も経っていない。
それなのに屋敷が妙に広い。
玲音はリビングで紅茶を口へ運んだ。
温かな香り。
いつもと同じ味。
それでも視線は何度も時計へ向かう。
「まだ十時……」
思わず呟き、苦笑する。
夕方まで、まだ随分ある。
昨日は警察とともに屋敷を離れ、いつ戻るかもわからなかった。
今日は自分から出かけただけ。
帰ると約束してくれた。
頭ではわかっている。
それでも胸のどこかが、透真の不在をずっと数えていた。
「あの、玲音様」
声をかけられ、玲音は顔を上げた。
昨日も身の回りを気遣ってくれた、三十歳前後の使用人だった。
「お庭をお散歩されますか?」
「お庭?」
「今日はお天気も良いですし。少し気分転換になるかと」
玲音は窓の外を見る。
澄んだ空。
柔らかな日差し。
確かに部屋の中で時計ばかり見ているよりはいいかもしれない。
「じゃあ、ちょっとお散歩してみようかな」
「はい」
「ありがとう」
玲音は紅茶を飲み終え、席を立った。
◇
庭へ出ると、秋の陽射しが柔らかく降り注いだ。
芝生は短く刈り揃えられ、薔薇の生垣が曲線を描いている。
中央の噴水から落ちる水が一定の間隔で音を立て、その周りを小さな鳥が飛び回っていた。
美しい。
けれど改めて眺めれば、あまりにも整っている。
木の位置。
花壇の幅。
小道の曲がり方。
偶然に見えるものまで、すべて計算されているようだった。
「こちらのお庭」
少し後ろを歩く使用人が言った。
「今の配置は、透真様がご自分で考えて大きく整えられたんですよ」
「透真が?」
玲音は驚いて振り返った。
「はい」
「庭まで?」
「細かなところは庭師が行いますけれど、全体をどうするかはかなり細かくご希望を出されていました」
「なんだか……透真らしいかも」
玲音は笑った。
余計なものがなく。
整然としていて。
美しいけれど、少し近寄りがたい。
どことなく、本人に似ている。
そう考えながら歩いていた時だった。
「あ……」
玲音が足を止める。
庭の端。
整った生垣と花壇の間に、淡い桃色が揺れていた。
コスモス。
何本もまとまって咲いている。
ほかの場所とは違い、どこか無造作だった。
高さも揃っていない。
花の向きもばらばら。
風に吹かれるまま、それぞれが好きな方を向いている。
透真が作った秩序の中で、そこだけが取り残されたように自由だった。
「かわいい……」
玲音はしゃがみ込み、花びらへそっと指を近づけた。
「ここだけ、雰囲気が違うのね」
「あ、それは……」
使用人の声が少し曇る。
「何?」
「以前のご主人の奥様がいらした頃から残っているものなんです」
玲音は顔を上げる。
「以前のご主人の……奥様?」
「はい」
使用人はコスモスを見る。
「お庭を作り替えた時、一度は抜く話も出たんですけれど」
「抜かなかったの?」
「透真様が」
少し間を置く。
「そのままにしておけ、と」
玲音はもう一度コスモスへ目を戻した。
「透真が……」
不思議だった。
これほど庭全体を自分の形へ作り替えた人が。
明らかにそこだけ違う花を、わざわざ残した。
「この花、透真にとって何か特別なのかな」
「それは……」
使用人は答えなかった。
答えられないのか。
知らないのか。
その表情からは読み取れない。
玲音は花を傷つけないよう、そっと茎のそばへ手を添えた。
秋風に、コスモスが揺れる。
「あなたは、透真がこの屋敷の主人になる前から、ここにいたの?」
何気なく尋ねる。
「はい」
「じゃあ、その奥様のことも知ってる?」
使用人の目が、わずかに揺れた。
「……存じ上げています」
「どんな人だったの?」
すぐには返事がなかった。
噴水の音が、やけに大きく聞こえる。
やがて使用人は、遠い記憶を見るように目を細めた。
「とても……優しい方でした」
過去形。
その言い方に、玲音は何かを感じた。
「でした……?」
問い返しかける。
その瞬間。
庭の奥で。
何かが動いた気がした。
玲音は反射的に顔を向ける。
「……?」
「どうされました?」
「今……」
少し離れた木々の向こう。
生垣の切れ目。
そこに、誰かが立っていたような。
ほんの一瞬。
人影らしきものが見えた気がする。
玲音は目を凝らした。
風に枝が揺れる。
葉が擦れ合う。
けれど、人の姿は見えない。
「誰か……いた?」
小さく呟く。
使用人も同じ方向を見た。
「人、ですか?」
「うん。今、あそこに……」
玲音は立ち上がった。
胸の奥に、ごく小さな違和感が生まれる。
透真のいない庭。
以前の奥様の話。
抜かれずに残ったコスモス。
そして。
木々の間に見えた、正体のわからない影。
柔らかな秋の日差しは、何も変わらず庭へ降り注いでいた。
それなのに。
さっきまで美しいだけだった庭が、急に別の顔を見せ始めた気がした。




