第13話 帰ってきた夜
しばらく抱き合っていたあと、玲音はようやく透真の胸元から顔を上げた。
帰ってきた。
その事実を確かめるように、まだコートを着たままの透真の頬へそっと手を添える。
目の前にいる。
声も聞こえる。
触れれば、ちゃんと温かい。
それなのに、一度、外の事情で突然離れることになったせいなのか、玲音の腕はなかなか透真から離れようとしなかった。
「玲音?」
透真が少しだけ首を傾げる。
「どうしたの」
「……なんでもない」
そう答えながらも、玲音はもう一度その胸へ額を寄せた。
「もうちょっとだけ」
「うん」
透真は何も聞かなかった。
ただ玲音の背中をゆっくり撫でる。
普段なら自分の不安を隠そうとする玲音も、今夜ばかりは強がれなかった。
しばらくして、ようやく身体を離す。
そこで初めて、玲音は透真の顔をじっくり見た。
「透真、お風呂は?」
「まだ」
「疲れてるんじゃない?」
「まあ……ちょっと」
透真は苦笑した。
目元には薄く疲労が滲んでいる。
長い事情聴取を受け、何度も同じ質問へ答え続けたのだろう。
身体に傷はなくても、疲れていないはずがない。
「先にお風呂入ろうか」
透真は少し考えてから言った。
「一緒に」
「……一緒に?」
玲音は一瞬固まった。
それから少しだけ俯く。
「お風呂……一緒に……」
「今さら恥ずかしいの?」
透真がくすりと笑う。
「だって」
「嫌なら別々にするよ」
からかっていた顔がすぐに柔らかくなった。
玲音は首を横に振る。
「嫌じゃないの」
むしろ今夜は、もう透真を一人にしたくなかった。
「……一緒がいい」
その答えを聞いた透真の目が、少しだけ細くなる。
「じゃあ行こう」
玲音の手を取る。
浴室へ向かう間も、その手は離れなかった。
◇
広い浴室には、すでに湯気が満ちていた。
誰かが透真の帰宅後に入れるよう、湯を用意してくれていたのだろう。
水面から柔らかな熱が立ち上っている。
二人で浴室へ入る。
玲音は最初こそ少し照れていたものの、透真の疲れた表情を見ているうちに、恥ずかしさより心配の方が勝っていった。
「無理してない?」
「してないよ」
「本当に?」
「本当に」
「顔、疲れてる」
「それは否定できないな」
透真は困ったように笑う。
玲音は手桶で湯をすくい、そっと差し出した。
「熱くない?」
「ちょうどいい」
「しんどかったら言ってね」
「はい」
妙に素直な返事だった。
玲音は思わず笑う。
「何?」
「透真がちゃんと言うこと聞いてるから」
「僕だって聞く時は聞きます」
「ほんとかな」
「玲音の言うことなら」
さらりと言われ、玲音の頬が少し熱くなる。
透真はその反応を見て、楽しそうに目を細めた。
けれど今夜は、それ以上からかわなかった。
玲音が自分を気遣っていることが、純粋に嬉しいらしい。
「玲音、なんかお母さんみたい」
不意に透真が言った。
「お母さん?」
「すごい世話焼いてくれるから」
「もう。透真が世話が焼けるからでしょう」
玲音はむっとしたふりをする。
「お母さんみたいになっちゃってるのかも」
冗談半分に口へ出し、自分で少し照れた。
透真が瞬きをする。
「それだけ僕が世話焼かせてるってこと?」
「そういうこと」
「じゃあ反省します」
「本当に?」
「……たぶん」
「もう」
二人の間へ、小さな笑い声が落ちた。
その笑いを聞いた瞬間。
玲音はようやく、今日という一日が終わりかけているのだと感じた。
警察。
事情聴取。
透真がいなくなった屋敷。
帰ってこなかったらどうしようという恐怖。
湯気の向こうで、それらが少しずつ遠ざかっていく。
玲音は透真へ寄った。
「……寂しかったの」
ぽつりと告げる。
透真の表情が変わる。
「警察の人たちが来て、透真がいなくなって」
玲音は視線を落とした。
「いつ帰ってくるかわからなかったでしょう?」
「うん」
「ずっと落ち着かなかった」
透真は何も言わず、玲音を抱き寄せる。
今度はからかいも笑いもなかった。
「僕だって」
「透真も?」
「ずっと帰りたかった」
耳元で囁く。
「玲音がちゃんと待ってるかなとか。怖がってないかなとか、ずっと気になってた」
「待ってたよ」
「うん」
「ちゃんと待ってた」
玲音は透真へ腕を回した。
「だから……離さないで」
透真の腕に力が入る。
「離すわけない」
短い返事。
愛情と安心。
そして二度と外の力で引き離されたくないという執着が、その言葉の奥で一つになっていた。
玲音は顔を上げる。
目が合う。
今度は玲音から、そっと口づけた。
触れるだけの短いもの。
透真は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「玲音から来るの、ずるいな」
「愛してるからだもん」
「それ言えば何でも許されると思ってる?」
「だめ?」
「……だめじゃない」
返事は早かった。
「全然だめじゃない」
二人はもう一度、短く唇を重ねる。
本当に戻ってきたことを確かめるように。
ここにいる、と伝えるように。
離れていた時間を、少しずつ埋めるように。
◇
やがて二人は湯船へ浸かった。
玲音は透真のすぐそばへ座る。
透真の長い腕が、自然に玲音を囲った。
傍目には閉じ込めるようにも見える。
けれど今の玲音には、その狭さが落ち着いた。
「ふう……」
玲音が小さく息を吐く。
「やっと落ち着いた」
「僕も」
「今日は長かったね」
「長かった」
少しの沈黙。
水音だけが静かに響く。
外の世界が遠い。
玲音は透真へ寄りかかりながら、ふと笑った。
「私、普段はお姉ちゃんとしてしっかりしてるつもりなのにね」
「お姉ちゃん?」
透真が意外そうな顔をする。
「玲音が?」
「なによ、その反応」
「だって」
少し考えるように天井を見る。
「僕の前ではこんなに甘えん坊なのに」
「それは……透真だからよ」
「へえ」
「なに、その顔」
「嬉しいだけ」
玲音は恥ずかしくなり、透真の胸元へ額を預ける。
「ヒカリの前だと、私がお姉ちゃんだから」
「うん」
「あの子、昔から結構活動的だったし」
玲音の声に懐かしさが混じる。
「ちょっとした怪我とかして帰ってくると、私が大丈夫? って世話焼いてたの」
ヒカリ。
その名前が出た瞬間。
透真の腕が、ごくわずかに強張った。
けれどすぐに元へ戻る。
「そっか」
透真は穏やかに言った。
「いいお姉ちゃんだね」
「そんなことないわよ」
「あるよ」
「でも透真の前だと、私が甘える側になっちゃう」
「それでいいじゃない」
透真は玲音の頭へ顎を乗せた。
「僕しか知らない玲音ってことでしょ?」
「そういう言い方すると、ちょっとずるい」
「またずるいって言われた」
「透真が最初に言ったのよ」
「そうでしたっけ」
「そうです」
玲音は頬を膨らませる。
透真が指先でつついた。
「はいはい。愛してるよ、お姉さん」
「もう」
玲音も笑ってしまう。
「愛してるからだもん。ずるくないもん」
「わかりました」
透真は満足そうに目を細める。
「僕も愛してる」
その一言だけで、玲音の胸はまた温かくなった。
◇
ゆっくり湯を楽しんだあと、二人は寝室へ戻った。
ベッドは綺麗に整えられている。
新しいシーツ。
柔らかな枕。
サイドテーブルには、水差しと二つのグラス。
玲音は透真をベッドへ座らせた。
「はい」
「はい?」
「今日はもう休むの」
「まだ平気だよ」
「だめ」
玲音は腰へ手を当てる。
「疲れてるでしょう?」
透真は少しだけ黙った。
やがて観念したように笑う。
「……はい」
「いい子」
「なんか本当にお姉ちゃんだ」
「透真が世話焼かせるからでしょう」
玲音はグラスへ水を注ぐ。
「少し飲んで」
「ありがとうございます」
「敬語使ってもだめです」
「厳しいな」
それでも透真は素直に水を飲んだ。
玲音は隣へ腰掛ける。
透真はしばらく、手の中のグラスを眺めていた。
いつもの透真なら、沈黙を自分で選ぶことはあっても、こんなふうに言葉を失うことは少ない。
「透真?」
「ん?」
「大丈夫?」
「大丈夫」
少し間を置く。
「ただ、疲れた」
その言葉を聞いて、玲音の表情が柔らかくなる。
無理に「平気」と言わず、疲れたと口にしてくれた。
それが少し嬉しかった。
「じゃあ、一緒に寝ましょう」
玲音は透真の頭へ手を置く。
「疲れたでしょう?」
「うん」
透真は目を閉じた。
撫でられることを拒まない。
むしろ自分から、その手へ頭を預ける。
「事情を聞かれてる間」
ぽつりと透真が言った。
「ずっと玲音のこと考えてた」
玲音の手が一瞬止まる。
「私も」
「本当?」
「うん」
玲音は再び透真の髪を撫でる。
「ずっと透真のこと考えてたわ」
「そっか」
透真は小さく息を吐いた。
そして、そのまま玲音の肩へ頭を預ける。
長い身体の重みが、ゆっくりと伝わってきた。
以前なら、自分の弱さを見せることを嫌がった人。
誰かへ身体を預けることさえ、どこか怖がっていた人。
今はもう、玲音だけには違う。
「重くない?」
「全然」
「嘘」
「嘘じゃないわよ」
玲音は笑った。
「もっと寄りかかっていいのよ」
「甘やかすなあ」
「いいじゃない。今日は特別」
「今日だけ?」
「明日もいいかも」
「じゃあ明後日は?」
「考えます」
「ずるい」
二人で小さく笑う。
笑い声が途切れる頃には、透真の呼吸は少しずつゆっくりになっていた。
玲音はその頭を胸元へ抱き寄せる。
「透真」
「ん……」
「眠い?」
「……ちょっと」
「寝ていいよ」
透真はもう半分、夢の中へ沈みかけていた。
「玲音、いる?」
あまりにも幼い問いだった。
玲音の胸がきゅっと痛む。
「いるよ」
「どこにも行かない?」
「行かない」
迷わず答える。
「ずっとここにいるわ」
その言葉を聞いた途端。
透真の身体から、最後に残っていた力まで抜けた。
「……よかった」
それだけを呟いて、眠りへ落ちる。
まるで糸が切れたようだった。
玲音へ完全に体重を預けたまま。
冷静さも。
計算も。
警察へ向けていた硬い表情も、もうない。
「ほんとに疲れてたのね」
玲音は小さく呟いた。
返事はない。
玲音は透真を起こさないよう肩を支え、ゆっくりと枕へ頭を移した。
長い身体が自然にベッドへ沈んでいく。
布団を掛ける。
それから玲音も隣へちょこんと横になった。
透真の寝顔は穏やかだった。
以前、玲音の膝で眠った時と同じ。
自分のそばなら、深く眠れる。
そのことが玲音には嬉しかった。
同時に。
自分がいなければ、この人はもう眠れないのではないか。
そんな考えが、ほんの一瞬だけ胸をよぎる。
けれど玲音は、それを不安とは呼ばなかった。
必要とされている。
そう思う方が、ずっと幸せだった。
「透真……愛してる」
小さく囁き、瞳を閉じようとした。
その時。
「ん……」
眠った透真が身じろぎする。
長い腕が布団の下から伸び、玲音の腰へ回った。
そのまま、自分の方へ引き寄せる。
「わっ」
玲音は小さく声を漏らした。
けれど透真は起きない。
眠ったまま。
それでも玲音を離すまいとするように、腕だけがしっかりと彼女を抱いている。
玲音は驚いた顔をしたあと、柔らかく笑った。
「もう……」
透真の首へ、そっと腕を回す。
「寝てても離したくないのね」
答えはない。
けれど腕の力が、ほんの少しだけ強くなった気がした。
玲音は幸せそうに目を閉じる。
窓の外では月が雲に隠れ、また現れる。
庭の噴水が遠くで静かな水音を立てていた。
警察が来たことも。
透真が連れていかれたことも。
外の世界が二人の生活へ手を伸ばし始めたことも。
今夜だけは、遠い出来事だった。
守る者と、守られる者。
その境目は、もう以前ほどはっきりしていない。
玲音は透真を安心させる。
透真は玲音を抱き込む。
互いが互いの居場所になっていく。
それは二人にとって、とても甘い幸福だった。
同時に。
どちらか一人がいなくなれば、もう片方まで立っていられなくなりかねないほどの深さへ。
二人は静かに、沈み始めていた。




