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優しい鳥籠は、鍵をかけない  作者: 雨音 優


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13/19

第13話 帰ってきた夜

 しばらく抱き合っていたあと、玲音はようやく透真の胸元から顔を上げた。

 帰ってきた。

 その事実を確かめるように、まだコートを着たままの透真の頬へそっと手を添える。

 目の前にいる。

 声も聞こえる。

 触れれば、ちゃんと温かい。

 それなのに、一度、外の事情で突然離れることになったせいなのか、玲音の腕はなかなか透真から離れようとしなかった。

「玲音?」

 透真が少しだけ首を傾げる。

「どうしたの」

「……なんでもない」

 そう答えながらも、玲音はもう一度その胸へ額を寄せた。

「もうちょっとだけ」

「うん」

 透真は何も聞かなかった。

 ただ玲音の背中をゆっくり撫でる。

 普段なら自分の不安を隠そうとする玲音も、今夜ばかりは強がれなかった。

 しばらくして、ようやく身体を離す。

 そこで初めて、玲音は透真の顔をじっくり見た。

「透真、お風呂は?」

「まだ」

「疲れてるんじゃない?」

「まあ……ちょっと」

 透真は苦笑した。

 目元には薄く疲労が滲んでいる。

 長い事情聴取を受け、何度も同じ質問へ答え続けたのだろう。

 身体に傷はなくても、疲れていないはずがない。

「先にお風呂入ろうか」

 透真は少し考えてから言った。

「一緒に」

「……一緒に?」

 玲音は一瞬固まった。

 それから少しだけ俯く。

「お風呂……一緒に……」

「今さら恥ずかしいの?」

 透真がくすりと笑う。

「だって」

「嫌なら別々にするよ」

 からかっていた顔がすぐに柔らかくなった。

 玲音は首を横に振る。

「嫌じゃないの」

 むしろ今夜は、もう透真を一人にしたくなかった。

「……一緒がいい」

 その答えを聞いた透真の目が、少しだけ細くなる。

「じゃあ行こう」

 玲音の手を取る。

 浴室へ向かう間も、その手は離れなかった。

 ◇

 広い浴室には、すでに湯気が満ちていた。

 誰かが透真の帰宅後に入れるよう、湯を用意してくれていたのだろう。

 水面から柔らかな熱が立ち上っている。

 二人で浴室へ入る。

 玲音は最初こそ少し照れていたものの、透真の疲れた表情を見ているうちに、恥ずかしさより心配の方が勝っていった。

「無理してない?」

「してないよ」

「本当に?」

「本当に」

「顔、疲れてる」

「それは否定できないな」

 透真は困ったように笑う。

 玲音は手桶で湯をすくい、そっと差し出した。

「熱くない?」

「ちょうどいい」

「しんどかったら言ってね」

「はい」

 妙に素直な返事だった。

 玲音は思わず笑う。

「何?」

「透真がちゃんと言うこと聞いてるから」

「僕だって聞く時は聞きます」

「ほんとかな」

「玲音の言うことなら」

 さらりと言われ、玲音の頬が少し熱くなる。

 透真はその反応を見て、楽しそうに目を細めた。

 けれど今夜は、それ以上からかわなかった。

 玲音が自分を気遣っていることが、純粋に嬉しいらしい。

「玲音、なんかお母さんみたい」

 不意に透真が言った。

「お母さん?」

「すごい世話焼いてくれるから」

「もう。透真が世話が焼けるからでしょう」

 玲音はむっとしたふりをする。

「お母さんみたいになっちゃってるのかも」

 冗談半分に口へ出し、自分で少し照れた。

 透真が瞬きをする。

「それだけ僕が世話焼かせてるってこと?」

「そういうこと」

「じゃあ反省します」

「本当に?」

「……たぶん」

「もう」

 二人の間へ、小さな笑い声が落ちた。

 その笑いを聞いた瞬間。

 玲音はようやく、今日という一日が終わりかけているのだと感じた。

 警察。

 事情聴取。

 透真がいなくなった屋敷。

 帰ってこなかったらどうしようという恐怖。

 湯気の向こうで、それらが少しずつ遠ざかっていく。

 玲音は透真へ寄った。

「……寂しかったの」

 ぽつりと告げる。

 透真の表情が変わる。

「警察の人たちが来て、透真がいなくなって」

 玲音は視線を落とした。

「いつ帰ってくるかわからなかったでしょう?」

「うん」

「ずっと落ち着かなかった」

 透真は何も言わず、玲音を抱き寄せる。

 今度はからかいも笑いもなかった。

「僕だって」

「透真も?」

「ずっと帰りたかった」

 耳元で囁く。

「玲音がちゃんと待ってるかなとか。怖がってないかなとか、ずっと気になってた」

「待ってたよ」

「うん」

「ちゃんと待ってた」

 玲音は透真へ腕を回した。

「だから……離さないで」

 透真の腕に力が入る。

「離すわけない」

 短い返事。

 愛情と安心。

 そして二度と外の力で引き離されたくないという執着が、その言葉の奥で一つになっていた。

 玲音は顔を上げる。

 目が合う。

 今度は玲音から、そっと口づけた。

 触れるだけの短いもの。

 透真は少し驚いた顔をして、それから笑った。

「玲音から来るの、ずるいな」

「愛してるからだもん」

「それ言えば何でも許されると思ってる?」

「だめ?」

「……だめじゃない」

 返事は早かった。

「全然だめじゃない」

 二人はもう一度、短く唇を重ねる。

 本当に戻ってきたことを確かめるように。

 ここにいる、と伝えるように。

 離れていた時間を、少しずつ埋めるように。

 ◇

 やがて二人は湯船へ浸かった。

 玲音は透真のすぐそばへ座る。

 透真の長い腕が、自然に玲音を囲った。

 傍目には閉じ込めるようにも見える。

 けれど今の玲音には、その狭さが落ち着いた。

「ふう……」

 玲音が小さく息を吐く。

「やっと落ち着いた」

「僕も」

「今日は長かったね」

「長かった」

 少しの沈黙。

 水音だけが静かに響く。

 外の世界が遠い。

 玲音は透真へ寄りかかりながら、ふと笑った。

「私、普段はお姉ちゃんとしてしっかりしてるつもりなのにね」

「お姉ちゃん?」

 透真が意外そうな顔をする。

「玲音が?」

「なによ、その反応」

「だって」

 少し考えるように天井を見る。

「僕の前ではこんなに甘えん坊なのに」

「それは……透真だからよ」

「へえ」

「なに、その顔」

「嬉しいだけ」

 玲音は恥ずかしくなり、透真の胸元へ額を預ける。

「ヒカリの前だと、私がお姉ちゃんだから」

「うん」

「あの子、昔から結構活動的だったし」

 玲音の声に懐かしさが混じる。

「ちょっとした怪我とかして帰ってくると、私が大丈夫? って世話焼いてたの」

 ヒカリ。

 その名前が出た瞬間。

 透真の腕が、ごくわずかに強張った。

 けれどすぐに元へ戻る。

「そっか」

 透真は穏やかに言った。

「いいお姉ちゃんだね」

「そんなことないわよ」

「あるよ」

「でも透真の前だと、私が甘える側になっちゃう」

「それでいいじゃない」

 透真は玲音の頭へ顎を乗せた。

「僕しか知らない玲音ってことでしょ?」

「そういう言い方すると、ちょっとずるい」

「またずるいって言われた」

「透真が最初に言ったのよ」

「そうでしたっけ」

「そうです」

 玲音は頬を膨らませる。

 透真が指先でつついた。

「はいはい。愛してるよ、お姉さん」

「もう」

 玲音も笑ってしまう。

「愛してるからだもん。ずるくないもん」

「わかりました」

 透真は満足そうに目を細める。

「僕も愛してる」

 その一言だけで、玲音の胸はまた温かくなった。

 ◇

 ゆっくり湯を楽しんだあと、二人は寝室へ戻った。

 ベッドは綺麗に整えられている。

 新しいシーツ。

 柔らかな枕。

 サイドテーブルには、水差しと二つのグラス。

 玲音は透真をベッドへ座らせた。

「はい」

「はい?」

「今日はもう休むの」

「まだ平気だよ」

「だめ」

 玲音は腰へ手を当てる。

「疲れてるでしょう?」

 透真は少しだけ黙った。

 やがて観念したように笑う。

「……はい」

「いい子」

「なんか本当にお姉ちゃんだ」

「透真が世話焼かせるからでしょう」

 玲音はグラスへ水を注ぐ。

「少し飲んで」

「ありがとうございます」

「敬語使ってもだめです」

「厳しいな」

 それでも透真は素直に水を飲んだ。

 玲音は隣へ腰掛ける。

 透真はしばらく、手の中のグラスを眺めていた。

 いつもの透真なら、沈黙を自分で選ぶことはあっても、こんなふうに言葉を失うことは少ない。

「透真?」

「ん?」

「大丈夫?」

「大丈夫」

 少し間を置く。

「ただ、疲れた」

 その言葉を聞いて、玲音の表情が柔らかくなる。

 無理に「平気」と言わず、疲れたと口にしてくれた。

 それが少し嬉しかった。

「じゃあ、一緒に寝ましょう」

 玲音は透真の頭へ手を置く。

「疲れたでしょう?」

「うん」

 透真は目を閉じた。

 撫でられることを拒まない。

 むしろ自分から、その手へ頭を預ける。

「事情を聞かれてる間」

 ぽつりと透真が言った。

「ずっと玲音のこと考えてた」

 玲音の手が一瞬止まる。

「私も」

「本当?」

「うん」

 玲音は再び透真の髪を撫でる。

「ずっと透真のこと考えてたわ」

「そっか」

 透真は小さく息を吐いた。

 そして、そのまま玲音の肩へ頭を預ける。

 長い身体の重みが、ゆっくりと伝わってきた。

 以前なら、自分の弱さを見せることを嫌がった人。

 誰かへ身体を預けることさえ、どこか怖がっていた人。

 今はもう、玲音だけには違う。

「重くない?」

「全然」

「嘘」

「嘘じゃないわよ」

 玲音は笑った。

「もっと寄りかかっていいのよ」

「甘やかすなあ」

「いいじゃない。今日は特別」

「今日だけ?」

「明日もいいかも」

「じゃあ明後日は?」

「考えます」

「ずるい」

 二人で小さく笑う。

 笑い声が途切れる頃には、透真の呼吸は少しずつゆっくりになっていた。

 玲音はその頭を胸元へ抱き寄せる。

「透真」

「ん……」

「眠い?」

「……ちょっと」

「寝ていいよ」

 透真はもう半分、夢の中へ沈みかけていた。

「玲音、いる?」

 あまりにも幼い問いだった。

 玲音の胸がきゅっと痛む。

「いるよ」

「どこにも行かない?」

「行かない」

 迷わず答える。

「ずっとここにいるわ」

 その言葉を聞いた途端。

 透真の身体から、最後に残っていた力まで抜けた。

「……よかった」

 それだけを呟いて、眠りへ落ちる。

 まるで糸が切れたようだった。

 玲音へ完全に体重を預けたまま。

 冷静さも。

 計算も。

 警察へ向けていた硬い表情も、もうない。

「ほんとに疲れてたのね」

 玲音は小さく呟いた。

 返事はない。

 玲音は透真を起こさないよう肩を支え、ゆっくりと枕へ頭を移した。

 長い身体が自然にベッドへ沈んでいく。

 布団を掛ける。

 それから玲音も隣へちょこんと横になった。

 透真の寝顔は穏やかだった。

 以前、玲音の膝で眠った時と同じ。

 自分のそばなら、深く眠れる。

 そのことが玲音には嬉しかった。

 同時に。

 自分がいなければ、この人はもう眠れないのではないか。

 そんな考えが、ほんの一瞬だけ胸をよぎる。

 けれど玲音は、それを不安とは呼ばなかった。

 必要とされている。

 そう思う方が、ずっと幸せだった。

「透真……愛してる」

 小さく囁き、瞳を閉じようとした。

 その時。

「ん……」

 眠った透真が身じろぎする。

 長い腕が布団の下から伸び、玲音の腰へ回った。

 そのまま、自分の方へ引き寄せる。

「わっ」

 玲音は小さく声を漏らした。

 けれど透真は起きない。

 眠ったまま。

 それでも玲音を離すまいとするように、腕だけがしっかりと彼女を抱いている。

 玲音は驚いた顔をしたあと、柔らかく笑った。

「もう……」

 透真の首へ、そっと腕を回す。

「寝てても離したくないのね」

 答えはない。

 けれど腕の力が、ほんの少しだけ強くなった気がした。

 玲音は幸せそうに目を閉じる。

 窓の外では月が雲に隠れ、また現れる。

 庭の噴水が遠くで静かな水音を立てていた。

 警察が来たことも。

 透真が連れていかれたことも。

 外の世界が二人の生活へ手を伸ばし始めたことも。

 今夜だけは、遠い出来事だった。

 守る者と、守られる者。

 その境目は、もう以前ほどはっきりしていない。

 玲音は透真を安心させる。

 透真は玲音を抱き込む。

 互いが互いの居場所になっていく。

 それは二人にとって、とても甘い幸福だった。

 同時に。

 どちらか一人がいなくなれば、もう片方まで立っていられなくなりかねないほどの深さへ。

 二人は静かに、沈み始めていた。


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