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優しい鳥籠は、鍵をかけない  作者: 雨音 優


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15/18

第15話 忘れた名前

 先ほど見えた人影が気になりながらも、玲音はもう一度、風に揺れるコスモスへ視線を落とした。

 整えられた庭の中で、そこだけが妙に自由だった。

 芝生も、生垣も、噴水も。

 すべてが誰かの意思で正しい場所に置かれているような庭で、その花だけが好き勝手に風へ身体を預けている。

 以前、この屋敷にいた奥様の頃から残っている花。

 透真が庭を作り替えた時にも、抜かせなかった花。

「……そうなのね」

 玲音はゆっくり立ち上がった。

 透真は、どうやってこの屋敷を手に入れたのだろう。

 もともと別の主人がいたという。

 その奥様を、この使用人は知っている。

 そして透真は、その人の残した花を消さなかった。

 考えれば考えるほど、自分が知らない透真の時間が、この屋敷にはあまりにも多く残っている気がした。

 けれど、玲音の中にはそれらを結びつけるものがない。

 知りたい。

 そう思った。

 同時に、知らないままの方がいいような気もした。

 胸の奥で生まれたその曖昧な感覚に、玲音はわずかに俯く。

 その時だった。

「玲音様」

 後ろから呼ばれた声が、硬かった。

 玲音が振り返る。

 若い使用人の顔から、先ほどまでの穏やかさが消えている。

 彼女の視線は、玲音ではなく、その向こうへ向いていた。

「中に入りましょう」

「え?」

 玲音も振り返る。

 屋敷を囲む塀の近く。

 生垣と木々の隙間に、三つの影があった。

 スーツ姿の男たち。

 一人が、こちら側へ顔を向けたように見えた。

 その瞬間。

 玲音の胸の奥に、昨日の記憶が冷たい水のように流れ込んできた。

 知らない男たち。

 玄関ホール。

 低い声。

 そして、透真が連れていかれた扉の向こう。

「……あの人たち」

「こちらへ。早く」

 若い使用人が玲音の手を取った。

 普段なら決して乱暴には触れない彼女が、今はためらう余裕さえないようだった。

「えっ……ええ」

 玲音も踵を返す。

 背後で、男たちが動いた。

 一人。

 続いて二人。

 三人とも、明らかに屋敷の方へ歩き始めている。

「あの男の人たちは?」

 走りながら玲音が尋ねる。

「わかりません。ただ……」

 若い使用人の息が少し上がる。

「透真様から、見知らぬ方が来た場合は、絶対に扉を開けないよう申しつけられています」

 その言葉に、玲音はそれ以上聞けなくなった。

 透真がそう言ったのなら。

 きっと理由がある。

 そう思った瞬間、自分でも不思議なくらい疑問が引いていく。

 二人が裏側の出入口から屋敷へ駆け込んだ直後。

 正面玄関のチャイムが鳴った。

 一度。

 屋敷全体へ響くほど、妙にはっきりした音だった。

 玲音の肩が跳ねる。

 二度目。

 今度は長い。

「玲音様、大丈夫です」

 若い使用人が玲音の前へ出た。

「私が対応します。奥のお部屋へ」

「……うん」

 玄関の向こうから男の声が聞こえる。

「すみません。警察の者ですが、少しお話を伺いたいだけです」

 警察。

 その言葉だけで、玲音の胸が縮んだ。

 昨日。

 透真はいなくなった。

 帰ってくるまで、何時間も。

 何をされているのかもわからず。

 ただ待つしかなかった。

 あの冷たい時間が、一瞬で身体の奥へ戻ってくる。

「玲音様」

「……ありがとう」

 促されるまま、玲音は奥へ向かった。

 扉が閉まる。

 一人になる。

 それなのに、玄関の会話は途切れ途切れに聞こえてきた。

「先日こちらへ伺った者です。鷹宮透真さんはいらっしゃいますか」

「鷹宮様は本日外出しております」

「そうですか」

 紙の擦れる音がする。

「では、こちらについて確認を。この敷地周辺で撮影されたものなんですが」

 少し間があった。

「女性が写っている。かなり不鮮明ですがね」

 玲音は無意識に、自分の腕を抱いた。

「こちらに女性が滞在している可能性があると考えています」

「……存じ上げません」

 若い使用人の声だった。

 玲音は息を止めた。

 私。

 そう思った。

 警察は自分を探している。

 以前にもそうだった。

 そして今。

 自分がこの屋敷にいることを、彼女は否定した。

 普通なら。

 なぜ、と疑問に思うはずだった。

 どうして隠すのか。

 何のために。

 けれど玲音の中に浮かんだのは、そうした問いではなかった。

 ――見つかったら。

 透真はどうなるの。

 また連れていかれる?

 今度も帰ってくる?

 それとも。

「では、中を確認させていただくわけにはいきませんか」

 低く、穏やかな刑事の声。

「もちろん任意で構いませんので」

 玲音の呼吸が浅くなる。

 中へ来る。

 ここへ。

 見つかる。

 何を怖がっているのか、自分でももうわからなかった。

 警察なのか。

 透真を失うことなのか。

 自分が何かを知らないことなのか。

 ただ。

 身体だけが先に答えを出した。

「逃げないと……」

 唇から零れた声に、自分自身が驚いた。

 逃げる。

 誰から?

 警察から。

 なぜ?

 そこまで考える余裕はなかった。

 玲音は部屋を出た。

 玄関とは反対方向へ進む。

 屋敷の使用人たちは、警察への対応で前方へ集まっているらしい。

 いつもなら必ず誰かの気配がある廊下が、妙に静かだった。

 心臓の音だけがうるさい。

 奥の扉。

 裏手へ続く出入口。

 玲音は一瞬だけ躊躇した。

 透真は、門の外へ出ないでと言っていた。

 朝。

 優しい声で。

 額へキスをして。

 待ってて、と。

「……ごめんなさい」

 誰に謝ったのか、自分でもわからなかった。

 扉を開ける。

 冷たい秋風が、頬を撫でた。

 ◇

 庭へ出た瞬間、世界の色が変わったように感じた。

 屋敷の中より明るい。

 空が高い。

 風が直接肌へ触れる。

 玲音は走った。

 先ほどまで眺めていたコスモスの横を通り過ぎる。

 花が風で揺れた。

 まるで、行きなさいと背中を押すように。

 生垣の影へ入る。

 枝が服へ触れる。

 それでも止まらない。

 どこへ向かっているのかなんて考えていなかった。

 ただ。

 あの玄関から離れたい。

 警察から離れたい。

 それしかなかった。

 いつもなら人の目があるはずの場所にも、今は誰もいない。

 警察対応で生まれた一瞬の空白。

 玲音はそこを抜けてしまった。

 気づいた時には。

 庭ではなく。

 知らない道に立っていた。

「……え?」

 玲音の足が止まる。

 静かな住宅街。

 細い道路。

 見知らぬ塀。

 見知らぬ家。

 少し離れたところに電柱。

 屋敷は。

 玲音は振り返った。

 木立の向こう。

 遠くに、屋根だけが見える。

「こんなに……」

 離れたの?

 どうやって?

 呼吸が乱れていた。

 手のひらが冷たい。

 頭の中まで風に晒されたように、急に空白が広がる。

「透真……」

 その名前だけが口から落ちた。

 反射だった。

 怖い時に呼ぶ名前。

 安心したい時に呼ぶ名前。

 愛している人の名前。

 ――そのはずだった。

「……透真?」

 玲音は呟く。

 妙だった。

 音は知っている。

 舌も、その発音を覚えている。

 けれど。

 意味だけがない。

「……誰だっけ」

 自分の声が、遠く聞こえた。

 知っているはずなのに。

 知らない。

 そんなはずはないと思うのに、頭の中のどこを探しても確かな輪郭が掴めない。

 男の顔が浮かぶ。

 優しく笑っている。

 料理を作っている。

 自分の髪を撫でている。

 左手へ指輪を通している。

 抱きしめている。

 そして。

 ひどく冷たい目で何かを見ている。

 知らない部屋。

 閉じた扉。

 光。

 香り。

 声。

 どれが本当なの。

「なに……これ……」

 玲音は頭を押さえた。

 記憶が崩れている。

 というより。

 違う記憶同士が、同じ場所を奪い合っているようだった。

 左手に何かが光る。

「……指輪?」

 銀色の細い輪。

 どうして自分がこんなものをしているのだろう。

 見た瞬間に胸が温かくなった。

 同時に、身体の奥が震えた。

 嬉しい。

 怖い。

 愛しい。

 逃げたい。

 矛盾した感情が一度に胸へ押し寄せ、玲音は息を詰めた。

 自分の服を見る。

 上質な生地。

 足元には、自分なら簡単には買わないような靴。

「これ……私の服?」

 財布がない。

 携帯電話もない。

 何も持っていない。

 どうして。

 私は何をしていたの。

 どこから来たの。

「おうちに……」

 玲音は小さく呟いた。

「帰らなくちゃ」

 けれど。

 家とは、どこだっただろう。

 さっきまでいた屋敷?

 違う。

 いや、違わない。

 自分の家だった気がする。

 でも。

 もっと別の場所へ帰らなければいけないような気もする。

 実家?

 一人で暮らしていた部屋?

 それとも、どこでもない。

 ただ元の自分がいた場所。

 答えは出なかった。

 玲音は冷たい空気を大きく吸う。

「落ち着いて……」

 困った時。

 知らない場所で。

 お金もなくて。

 帰る場所もわからないなら。

「……交番」

 それは、不思議なくらい自然に浮かんだ。

「やっぱり、交番かな……」

 警察が怖いという感覚が、その瞬間だけ遠ざかっていた。

 困った時に助けを求める場所。

 玲音の中に昔からあった、ごく普通の常識。

 それだけが、霧の中から浮かび上がっていた。

 ◇

 屋敷では。

 玲音がいないとわかった瞬間、空気が一変していた。

 若い使用人の顔から血の気が引く。

 執事は警察への対応を続けながら、別の使用人へ短く指示を出した。

 すぐに透真へ連絡が入る。

 玲音がいない。

 その言葉を聞いた瞬間。

 透真は、その後の説明をほとんど聞いていなかった。

「いつから」

 短く尋ねる。

 必要なことだけを確認し、通話を切った。

 それまでの予定をすべて打ち切る。

 屋敷周辺の状況を追う。

 どちらへ向かった可能性があるのか。

 それだけを絞る。

 思考は異様なほど冷静だった。

 胸の中だけが、まったく冷静ではなかった。

 玲音がいない。

 その事実だけで。

 昔から身体の奥に沈んでいた、どうしようもない恐怖が目を覚ましていた。

 また。

 いなくなる。

 誰かが。

 自分を置いて。

 透真はその感覚を、考える前に押し潰した。

 見つける。

 それ以外は、見つけてから考えればいい。

 ◇

 十字路の先に、青い看板が見えた。

「……あった」

 玲音の胸が少しだけ緩む。

 交番。

 そこまで行けばいい。

 誰かに話を聞いてもらえばいい。

 自分が誰なのか。

 どこから来たのか。

 何が起きているのか。

 一人で考え続けるより、きっといい。

 一歩。

 玲音が交番の方へ進もうとした時。

 その手前に停まっていた黒い車の扉が開いた。

 男が降りる。

 長身。

 スーツ。

 黒い髪が、風にわずかに乱れる。

 玲音の身体が強張った。

 知らない。

 知らない人。

 そう思った。

 なのに。

 心臓だけは、その人を知っているように激しく打ち始めた。

「玲音」

 名前を呼ばれた。

 優しい声だった。

 胸の奥が痛んだ。

 男は早足でこちらへ近づいてくる。

「帰ろう、玲音」

 玲音は動けない。

「風邪ひくよ」

 その声を。

 知っている。

 気がする。

 でも。

 どこで?

「……あ」

 記憶が一気に弾けた。

 大きな屋敷。

 朝食。

 笑う子どもたち。

 銀色の指輪。

 膝の上で眠る男。

 抱きしめられた夜。

 知らない部屋。

 目覚めた朝。

 怖い。

 安心する。

 逃げたい。

 そばにいたい。

 相反するものが一度に押し寄せる。

「あ……あ……」

 玲音は頭を押さえ、その場へしゃがみ込んだ。

「玲音」

 男の足が止まった。

 一瞬。

 彼の顔から、すべての表情が消えた。

 透真には、その視線の意味がわかった。

 玲音は自分を見ている。

 いつもなら。

 帰ってきただけで笑う。

 名前を呼ぶ。

 抱きつく。

 その玲音が今は。

 自分を見て怯えている。

「大丈夫」

 透真はゆっくりしゃがんだ。

 すぐに手を伸ばさない。

 玲音の視線と高さを合わせる。

「怖くないよ」

 声はどこまでも柔らかかった。

 だからこそ。

 玲音の中の何かが、余計に混乱した。

「あの……」

 玲音は後ろへ少し身体を引く。

「私、大丈夫ですから」

 透真の眉が、ごく僅かに動いた。

「交番で……事情を話して」

 玲音は必死に言葉を繋ぐ。

「自分で帰りますから」

「玲音」

「あの……」

 怖い。

 なぜかわからない。

 この人を見ていると、安心したい気持ちと逃げたい気持ちが同時に湧いてくる。

「どなたか知りませんが」

 玲音は震える声で言った。

「私、大丈夫です」

 時間が止まったようだった。

 透真は何も言わない。

 ただ。

 玲音を見ている。

 その目の奥で何かが砕けた。

 ――どなたか。

 言葉の意味が、遅れて透真の中へ沈んでいく。

 知らない人。

 自分は、玲音の世界にいない。

 嫌われたのではない。

 拒絶されたのでもない。

 もっと悪い。

 存在したことそのものを、忘れられている。

「……そっか」

 透真は立ち上がった。

 口元だけが、ごく薄く笑う。

「忘れちゃったんだ」

 笑っているのに。

 目だけが、ひどく冷たかった。

 いや。

 冷たいのではない。

 玲音を失う恐怖を、必死で凍らせているように見えた。

 玲音はそれを見て、立ち上がった。

「……いや」

 身体が先に動いた。

 逃げなければ。

 踵を返す。

 けれど。

 その先に一人の男が立っていた。

 知らない男。

 男は一度だけ透真へ視線を向けた。

 偶然そこにいる人間ではないことだけは、玲音にもわかった。

 玲音は足を止めた。

 前には透真。

 後ろには男。

 静かな道。

 交番は見えているのに。

 そこまでの距離が、急にひどく遠く感じられる。

「どいてください」

 返事はない。

「人、呼びますから!」

 声が裏返る。

「あの……叫びますよ!」

 透真の顔に、ほんの一瞬だけ苦しそうな色が浮かんだ。

「玲音」

「来ないで」

 今度は、はっきり言った。

 拒絶。

 その一言に。

 透真の瞳が揺れた。

 園長の声が蘇る。

 ――あの子みたいな思いをさせるんじゃないよ。

 玲音の声も。

 ――捨てない。

 ――ずっとそばにいる。

 ――愛してる。

 優しい記憶ばかりが、残酷なほど鮮明だった。

 だからこそ。

 透真には受け入れられなかった。

 玲音が自分から離れようとしている現実を。

「ごめんね」

 透真が言った。

 その声は、ひどく静かだった。

「ちょっとだけ我慢して」

 玲音の中で警鐘が鳴る。

「いや……」

 透真が取り出した端末を見た瞬間、覚えのないはずの嫌な感覚が頭の奥に蘇った。

 身体が拒絶する。

「やめて……」

 玲音は首を振った。

 逃げようとする。

 けれど道は塞がれている。

 透真の顔にも、もう余裕はなかった。

 怒っているようで。

 怯えているようで。

 泣きそうにも見えた。

「思い出させてあげる」

 玲音の視界に淡い光が滲んだ。

 そこから先。

 時間はうまく繋がらなくなった。

 知らない人。

 愛している人。

 怖い人。

 守ってくれる人。

 逃げたい。

 帰りたい。

 そばにいてほしい。

 触れられたくない。

 抱きしめてほしい。

 矛盾した感情が一つの身体の中でぶつかり合う。

「……いや……」

 自分の声さえ、遠い。

 その時。

 別の声がした気がした。

 ――お姉ちゃん。

 玲音の胸が痛んだ。

 ヒカリ。

 笑う顔。

 怒った顔。

 泣きながら、自分を見つめていた妹。

 これは本当に聞こえた声ではない。

 記憶だ。

 ずっと自分の中に残っていたもの。

 忘れたくないと抗う、玲音自身の一部。

「玲音」

 透真の声が重なる。

「僕の名前、わかる?」

 玲音は目を上げる。

 霧の向こうにいるような男の顔。

 その輪郭が。

 少しずつ。

 意味を取り戻していく。

 朝。

 笑顔。

 指輪。

 抱擁。

 料理。

 眠る横顔。

 大切な人。

「……とお……」

 喉が震えた。

「透真……」

 透真の呼吸が止まる。

 そして。

 深く、長く息を吐いた。

 それは安堵と呼ぶには、あまりにも切実だった。

「うん」

 透真が玲音の頬へ手を添える。

 今度は、玲音の身体はすぐには動かなかった。

「そうだよ」

 透真の指先が震えている。

「僕だよ」

「透真……」

「うん」

 抱き寄せられる。

 腕は優しい。

 力任せではない。

 なのに。

 その抱擁の中には、決してもう離さないという硬さがあった。

 玲音からは、さっきまでの拒絶の力が抜けていた。

 さっきまで何を怖がっていたのか。

 どうして逃げようとしたのか。

 すでに輪郭が崩れ始めていた。

「帰ろう」

 透真が耳元で言う。

「……うん」

 その返事が出た瞬間。

 透真は初めて、本当に玲音を見つけたような顔をした。

 ◇

 車の後部座席で。

 玲音は透真の肩へ頭を預けていた。

 窓の外の景色が静かに流れていく。

 見知らぬ住宅街。

 知らない道。

 玲音はぼんやりそれを眺めた。

「私……」

 声にすると、頭の奥が少し痛んだ。

「どうして外にいたんだろう」

 透真の腕が、玲音の肩を抱く。

「怖いことがあったんだよ」

「怖いこと……?」

「うん」

 それ以上は言わなかった。

 思い出そうとする。

 冷たい風。

 知らない道。

 交番の青い看板。

 走った気がする。

 誰かから逃げた。

 怖かった。

 そして。

 透真を見た時。

 ほんの一瞬。

 もっと強く怖かったような――

「……っ」

 玲音が眉を寄せる。

「無理に思い出さなくていい」

 すぐに透真が言った。

「玲音」

「……うん」

「僕はここにいるから」

 優しい声。

 いつも安心する声。

 だから玲音は、力を抜いた。

 透真の肩へもう少し深く寄りかかる。

「透真……」

「いるよ」

 透真の腕が少しだけ強くなる。

 安心する。

 胸がほどけていく。

 それなのに。

 玲音の心のほんの奥。

 手の届かない場所で。

 小さな恐怖だけがまだ消えずに残っていた。

 ――どうして。

 透真の声を聞くと、こんなにも安心するのだろう。

 どうして。

 その安心が、少し怖いのだろう。

 玲音は答えを見つけられないまま、ゆっくり目を閉じた。

 その奥で。

 また。

 遠い声が聞こえた気がする。

 ――お姉ちゃん。

 懐かしい。

 忘れたくない。

 とても大切な声。

 けれど名前を呼ぶ前に、意識は深い霧へ沈んでいった。

 ◇

 屋敷へ着く頃。

 玲音は透真へ寄りかかり、静かな寝息を立てていた。

 透真は起こさなかった。

 ただ、その寝顔をじっと見つめている。

 戻った。

 玲音は自分の名前を呼んだ。

 自分へ身体を預けている。

 それでも。

 安堵は完全ではなかった。

 今日。

 玲音は自分を忘れた。

 自分から逃げた。

 自分を見て。

 知らない人を見る目をした。

 その事実だけが、胸の奥へ鋭く残っている。

 透真は玲音の左手を取った。

 薬指には銀色の輪。

 二人だけの約束。

 玲音が嬉しそうに何度も眺めていた指輪。

 親指で、そっとその輪をなぞる。

「……玲音」

 眠る彼女は答えない。

「もう大丈夫だから」

 優しく囁いた。

 玲音を安心させるための言葉。

 けれど。

 それ以上に。

 自分自身へ言い聞かせるための言葉だった。

 もう二度と。

 あんなふうに忘れられることだけは、耐えられない。

 もう二度と。

 自分の知らない場所へ消えていく玲音を、見たくない。

 その思いが愛なのか。

 恐怖なのか。

 執着なのか。

 透真自身にも、もう分けられなかった。

 眠る玲音の記憶の底では。

 冷たい秋風と。

 交番の青い看板と。

 逃げなければならないと感じた恐怖が。

 消え損ねた夢の欠片のように、静かに残り続けていた。



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