81話 別れ
アンナの体に障らぬように、呼び寄せた専属使用人たちが手を尽くす。
王宮医も呼び寄せ、体を診せる。
慌ただしい中で、我は片時も離れずアンナの手を握っていた。
意識が朦朧としている彼女の、まだ熱い手は握り返してくれない。
呼び掛けること以外、何もできない。
「アンナ、アンナ。我を見ろ」
「陛下、そのまま呼び掛けてください。王妃様、頭の位置を変えますね。専属のどなたか、気つけの薬草をとってください!!」
「なぜこんなことに……!!アンナ様、アンナ様!!」
「動け!!まだ、まだ大丈夫だきっと!!血、血をきれいにしないと。アンナ様のお召替えを」
混乱は、まだこの部屋の中だけだ。
寝室の中だけでおさまるはずだ、そうだろう。
ただの、発作のはずだ。
まだアンナには時間があるはずだろう。
……いや、わかっている。
これは、発作ではない。
アンナが飲んでいたカップ、なみなみと注がれた茶。
そこから、漂ってきたのは嗅いだことのない香り。
隙を見て舌に一滴乗せれば、覚えのある強い毒気。
蘇る我には問題がないが、病に侵され弱ったアンナの身には、致命的であろう。
「……うる、さい」
「アンナ、目が」
「ヒュー……ふうっ……これ、は。もう、だめだな」
不意に、アンナの手が握り返してくる。
弱弱しく、昔多くのヴァルカンティア人を伸したとは思えない力。
その言葉をひねり出すようにつぶやくと、閉じていた瞳が開いていく。
瞳の緑が、やけに美しかった。
「アンナ、無理をするな。毒が」
「わかってるよ、ルク……私は、もうだめだ」
「アンナ様何をおっしゃいますか!!我々専属使用人は、まだ」
「最後に、命令、だ。私の、身を、っととのえて、げほっ」
体を起こそうとするアンナを支える。
手に伝わる震えは、寒気、恐怖、病、毒、どれによるものなのか見当もつかない。
一つだけ、何度も死んで蘇った我ならばわかる。
アンナは、じきに死ぬ。
我を置いて、すべてを遺して。
それは、そんなことは許されない。
お前が、我のそばにいることを選んだ。
ならば、何があっても生きるべきだろう。
「王宮医、今すぐすべての医者を呼べ」
「るく、いい」
「今更隠す必要もない、金もいくらでもかけるがいい」
「いいから」
小さく引かれた袖。
たったそれだけだが、止めるには十分だ。
体はすぐに死ぬだろうに、アンナの視線だけは生気を放っている。
それは、どうしようもない。
その目を見てしまえば、我が折れる以外の選択肢などない。
やめろというのか。
君を生かすためのすべてを、何より君の生存を望む我に。
「着替えを、あと、寝台も。それから……ディアーナを、ここに」
「やめろアンナ。休め」
「私の、ヴァルカンティアの血が、時間をくれてるんだ……あの子に、言うことが、ある」
「治療すれば持ち直す」
「それは、ないよ。……あるなら、ルクはそんな顔、しない」
すべて、アンナの言うとおりだった。
王宮医も手の施しようがないと言い、着替えさせられていくアンナを前に何もできないまま立ち尽くす。
アンナの専属たちは優秀だ。
数分後には、血の惨状の気配一つない。
だが、片付け忘れられた毒入りカップだけが忌々しくそこにあった。
そして、着替え終えたアンナは部屋から出ろと言った。
言葉を発することも辛い中での命令に、王宮医も専属使用人たちも従わざるを得ない。
二人になった部屋の中、蠟燭の明かりだけが揺らめいていた。
アンナの横たわる寝台に近づけば、彼女は我に手を伸ばす。
再度手を握り、顔を見た。
死ぬ顔だ、だがこれ以上に美しい死に向かう顔を見たことがない。
「誰にやられた、首を斬る」
「……私はな、ここで死ぬ運命なんだ」
「戯言を。王妃に毒を盛って許されるとでも思うのか」
「あの子はな、泣いてたよ」
「誰だ」
「……なぁ、ごめんルク。まだ、野望には遠いのに」
「話を逸らすな」
「最期なんだ、いいたいこと、言わせてくれ。ディアーナが来たら、君にも部屋を出てほしいんだ」
「死ぬのに、よく回る口だ」
「はは……君には、死ぬとこ、見られたくない、なぁ……」
アンナの言うことの意味が、わからない。
なぜ毒を盛った人物を庇う、運命など意味がないものをここで言う。
復讐すらさせないつもりか。
死ぬというのによく回る口は、どうして死を恐怖しない。
なぜ、言わない。
なぜ。
「なぜ、我を恨まない。我の側にいなければ、こうは」
「ない」
「……アンナ」
「不幸せだったことは、一度もない」
「馬鹿げた怪物の、妻だぞ」
「ディオメシアを、愛せたのは、ルクのおかげ」
「言え、罵ればいい。お前のせいだと言え、我は、お前を守れないただの……」
「わたしの、愛する、ひと」
神がいるのであれば、実に恨むべきはお前か。
温かな手をしたアンナを、我の人生唯一手にした感情を。
千切るように奪う理由が、どこにある。
アンナの手を離し、彼女を見下ろす。
様変わりした、我が妻。
死の前まで、目が離せないほどに気高く、ディオメシアのため、不死の呪いを解くために奔放に動き回った女。
かける言葉がどれも適切ではない。
愛してると返すことも、我々の関係であればそれすら安い。
アンナへ向ける感情は、我が獲得した感情は、すべて君がいてこそ。
君が、我を人間にした。
それが、どれほど罪深いことか。
「お父様。これはいったい、何をされているのですか」
寝室の扉が開いた。
そこには、アンナが呼んだディアーナが立っている。
ここまでだというのか。
我に死ぬ姿を見られたくないと、ディアーナが来たら部屋を出ろと。
叶えたくない願いを、なぜ望むのだろう。
大国ディオメシア王、ディルクレウスに言うことを聞かせられる人間は、君だけだ。
それは、比類ない偉業。
かける言葉は、口からついたように出て行った。
「ではな、アンナ。大義であった」
民のために施策を行った王妃、戦争終結のため自らも戦った戦士。
我の側で、野望を共有した片割れ。
その言葉だけで、充分。
部屋を出るときに、ディアーナとすれ違う。
小さな娘、我が呪いから開放すべき、アンナに似た娘。
必ず、呪いを無効化する。
何をしてでも、この国を壊すことになろうとも、民から恨まれようとも。
アンナと願った未来のため。
気が付けば、日付が変わっていた。
ディアーナの誕生日は、アンナの命日になるのだな。
涙は、何故か出てこなかった。




