56話 温かな水
「ついた。ここをルクに見せたかったんだ」
「……なんだ、ここは」
「何って……お湯だ。温泉ともいう」
歩いて向かったのは、村のはずれにある森の中。
暗くなった道には、そこに向かうまでに何本も松明が刺さっていた。
そして見えたのが、石で縁取りされた中に溜まった、湯気の出ている大量の水。
周囲にも松明が刺さっていて、よく見える。
なんだこれは。
こんなもの、見たこともない。
「まさか、湯を沸かして入れたのか。一つの村で、これほどの湯を野外に用意するなど。薪はどこから出ている」
「違う、これは地面から湧いているんだそうだ。それをこの村の人たちは昔からずっと管理して、こんなに素晴らしい湯舟を作ったんだ」
「聞いていない。これほどの物、なぜ」
「秘密なんだそうだ。信頼のおける近隣の村の人たちにだけ教えて、何十年も守ってたらしい」
アンナは、石のふちに腰かけると裾を太ももまでたくし上げた。
思わず目を逸らすが、彼女は何も気にせず足を中に入れる。
我々のほかに人間の気配はない。
それでも、男がそばにいるのに相変わらずの無防備さ。
これが、あの完璧な移民計画を完遂させた王妃だとは誰も思わない。
「あ~やはりきもちいい……ルクも入ろう。川とそんなに変わらないさ」
「遠慮する。そもそもなぜこのような場所に連れてきた」
「湯治、というものがあるんだそうだ。視察していくうちに仲良くなってな、この湯は、あらゆる病に効くと紹介してもらった」
「ただの熱い水だ。そのような効果があるわけがない」
「でも、私はそれがいいと思った。心の病ともいうべきルクのそれは、薬草なんか効かないだろう?」
「水も、効かないだろう」
「それはそれだ。入ってみないと、いいか悪いかわからない」
到底信じられない。
だが、ここで入らなければアンナがいつまでも粘るだろう。
ここに彼女を置いて、夜の中に一人にする選択肢は初めからない。
頑固な娘だ。
年齢を気にしたことはないが、このような時に彼女が年下だったと思い出す。
ジークも弟といわれてはいたが、我と同じ年齢。
子供時代のアンナには、手を焼いたに違いない。
兄様姉様も、かつての我に、末の弟にこのような感情を抱いただろうか。
膝まで布を持ち上げ、落ちないよう縛る。
アンナの隣に腰かけ、水に足を入れれば全身に震えが走った。
「な、なんだこれは。浴室と違うぞ」
「不思議だろう?足から全身に熱が帯びていくんだ。村では、裸になって全身浸かるのが普通らしい」
「馬鹿な、野営地でもあるまい」
「場所が変われば、常識も変わる。私も入りたい、絶対に気持ちがいいはずだ……だめか?」
「やめろ。女が一人でなにをする、夜は危険だ」
「だろうな。大丈夫、君の見えるところで脱ぐ気はない。嫌なことを思い出すだろう」
アンナはそういうと、空を見上げた。
空には、いくつもの白い点。
暗い夜空の中で、数えるのも馬鹿らしいほどに星があった。
風は冷たいが、湯は温かい。
体に熱が巡る感覚が、しばらくすれば悪くないものになっていく。
形容しがたい。
この感情はなんだ。
このまま、この場で時が止まればと馬鹿げた考えが浮かんで、消す。
誰の目もない。
二人だけで、だが互いに強く、気遣う必要もないからか。
それとも、理解できない何かがあるか。
「ルク、礼を言わせてくれ。私のわがままに、付き合ってくれてありがとう」
「そうした覚えはないが」
「結婚、戦争の全責任、王宮暮らしに移民のこと。ほかにも部屋に押し掛けたって、君は追い出そうとはしなかった」
「帰れと言っても聞かなかったのはアンナだ」
「そうともいう。でも、今日まで優しくしてくれたのは、ルクだ」
「めでたい考えだな」
「そういう君は、他者にした善意を忘れすぎだ。ルクが悪人だったら、ヴァルカンティアのみんなはあそこまで受け入れたりしない」
すべては打算、技術の向上、同盟のため。
確かにいい人間が多かったが、戦争で彼らに最後の突撃をさせたのは我だ。
恨むことはあれど、どこに感謝がある。
それでも、アンナは否定するのだろう。
それをさらに否定するのも、この数か月で疲れた。
黙っていれば、アンナが「なぁ、わがままを聞いてくれないか」と言ってきた。
彼女のわがままに、貴族女のような高価な物ねだりや、男娼の手配、気に入らない相手を蹴落とすなどくだらないものはない。
どうせ異常なほどに些細、あるいはディオメシアに有益なものだ。
彼女が気を遣っているのではなく、心根から無欲で上に立つべき人間。
我に似合わぬほど、高潔な人間。
「なんだ。新しい政策であればあと2か月は間を置け」
「それも捨てがたいけどな、もっと個人的なことだ。先に言っておくが、私は今から君を失望させるぞ」
「すでに失望など、何度も経験している。そこまでの物が言えるとは思えん」
「じゃあ約束してくれないか?私が何を言っても、絶対に離婚しないと」
「この婚姻はすでに国同士で組まれた同盟の証。破棄するほうが難しい」
らしくもないことだ。
アンナが必死に言葉を選んでいる。
思いつくままに行動し、発言し、政策のために大臣や側近にも噛みつくのを見たことがある。
そうしていると、ただの女のように見えた。
我ですら敵わない武力の頂点とは思えない。
「ルク、あのな。私は、君が好きだ」
「そうか。それで何を望む」
「私は、誰に言われたからでもない。私の意志で、私が全部守る、私が必ず終わらせる」
「要件は」
「私は……君の、子供を産んでみたいんだ」
風すら吹かない。
邪魔者は誰もいない。
言葉がただ落ちていく。
湯の効果は本物だったらしい。
いつまでも、血の気が引かない。
体は温かいままだった。




