52話 変化した呼び名
「ルク、聞いてくれ。私はな、君が思うほど清くないんだ」
コルセットもつけていない、寝間着の彼女の体温だった。
背後から、肩回りを両腕で包むような温度。
窓を見れば、アンナ嬢が無防備に、我の背中に張り付いているのが見えた。
警戒していた嫌悪の記憶は、襲ってこない。
彼女の力強い腕が、逃げることを許してはくれない。
「は、離せ。なにをする」
「話を聞く限り、ルクのトラウマは正面から体温を感じたことだ。なら、後ろからなら大丈夫かもしれないだろう?」
「よせ、話を聞いていたか。嫌いだと言っただろう」
「嫌いだよ。私の好きな人をけなす人は、誰であろうと嫌いだ」
「君が、汚れる」
「私はな?トラウマを持ってるって知っても、どうにかルクと触れ合いたくてずるがしこくなるくらいには、純粋じゃない」
触れたい、と言うか。
散々不幸に巻き込まれておいて、それを望む。
多くの場合、夫婦というものは男が女に触れるものだろう。
そして男が女を蹂躙するから、汚すから、不幸は生まれる。
だから、触れたくなかった。
誰も巻き込みたくはない。
誰も抱くつもりはない、愛すつもりもない。
一週間前のあの夜に、それを君は頷いて聞いてくれただろう?
「これ以上、触れるな。腕を折るぞ」
「触れないよ。一度に進めたら、ルクが辛いのはわかる」
「なぜここまでする。我が何をしたという」
「きっと、君が『どうでもいことだ』って切り捨ててしまうような、些細なこと。その積み重ねだよ、覚えてないかい?」
思い出す限り、アンナ嬢との記憶は手合わせばかりだ。
負けのほうが多く、アランやジークのほうが強かったことも多い。
戦争でも、情けなく力を借りた。
輿入れの後も、アンナ嬢を側近たちから完全に守れてはいない。
だが、アンナ嬢は我の頭に顎を置き、機嫌が良さそうに語り始める。
「ルクは、私のロマンス小説好きを笑わなかっただろう?しかも、それに一瞬付き合ったうえで、話にも乗ってくれた」
「笑う理由はない。話に乗ったことで君を楽しませた覚えもない」
「それに、私がどんなに無礼に言っても、態度が変わらなかった」
「変える理由もない」
「いつも、気にかけてくれただろう。武闘会でも、戦争の責任をすべて被ってくれたのも、王宮で過ごしやすいようにメイド長をつけてくれたのも」
「だから、なんだ。アンナ嬢の好む、物語の王子にはなれない」
明るく、強く、カリスマ性があり、女を恋に落とす手腕もある。
そのような登場人物に、なれそうもない男だ。
むしろ、アンナ嬢のほうがすべて当てはまる。
なぜ逆を行く男に、ここまで寄るのか。
説明を聞こうが、納得はできない。
ひどい貧乏くじだ。
それを掴み取りに来るアンナ嬢は、人を見る目だけが壊滅的にない。
「あれは現実じゃないだろう?なんでそうなる」
「アンナ嬢の理想だろう」
「でも、理想の世界にルクはいないだろう?私と、一緒に新しい世界を見てくれる王は、君だけだ」
「先ほどから、別の人間の話をしていないか」
「いーや。君がいいんだ。それに、君も私がいいだろう?」
「なんだ、それは。一言も言っていない」
「鈍感もここまでくると筋金入りだな。ルクのほうがヒロインみたいだ」
「からかっているのか」
「事実だよ」
アンナ嬢は、宣言通りそれ以上の接触をしなかった。
腕は包み込んだまま、指を動かすこともなく、背中は温かい。
何故か、毒が抜けたようだ。
痛みも苦痛も、今はない。
ようやく呼吸ができる。
「いい加減離せ。何のつもりだ」
「嬉しくてな。ルクの言葉は本当にわかりづら過ぎる、求婚もここまでくると暗号じゃないか」
「何?どこに求婚があった」
「わかってないなら言わない。週に一回求婚させようと思っていたが、ここまで愛されてはうぬぼれてしまうな」
「アンナ嬢、話を聞け」
「でも、不満がある。夫として、妻の不満を聞くのは勤めじゃないか?ん?」
実に扱いづらい。
数秒前まで機嫌が良かったと思えば、不満を口にする。
後ろをとられていると顔が見えないが、言葉にからかいが見えた。
大した度胸だ。
慣れない異国で、政策に口を出したかと思えば、こうして翻弄する。
すでに移民政策は、反論の余地もなく承認した。
まだ要望を出すのか。
アンナ嬢は想像よりも、強欲らしい。
「なんだ。移民政策は承認したぞ」
「それは王妃としてのお願いだ。今度は、妻としての要望さ」
「何が違う」
「全然違う。聞きたいんだが、ルクはいつまで私を『アンナ嬢』なんて他人のように呼ぶつもりだ」
「問題があるか」
「大ありだ。考えたんだが、私が信頼を得られなのは、君がいつまでもそういう呼び方をするからじゃないか?」
「すでに一週間で課題を達成しておいて、何を言う」
大臣からの後押しに、専属使用人の登用。
提案書は、あの側近すら渋い顔で認めた。
後は時間の問題だ。
だというのに、呼び方の変更を求めるだと。
何の意味がある。
「支障はない」
「私が嫌だ。どこの世界に、妻をそう呼ぶ夫がいる?ふつうは呼び捨てにしたり、愛称で呼ぶものだ」
「普通を押し付けるのか。この異常な王に」
「いいから、一度呼んでみてくれ。アンナとアンナ嬢なら、前者のほうが呼びやすいだろう」
どんなにこちらが眉を寄せようと、アンナ嬢は背後にいるので見えない。
不満を言おうが、取り下げるとも思えない。
このままでは、呼ぶまで、朝になっても離さないだろう。
困りはしないが、彼女に徹夜はさせたくない。
一度呼べば、満足するか。
久方ぶりのため息が出た。
アンナ嬢といると、生きている仕草が増えて仕方がない。
「もう遅い。呼んだら部屋に戻れ」
「わかった。さあ、頼む」
「……アンナ」
一言だ。3つの音のみのそれが、何になる。
だが、予想外に部屋は静まり返った。
本人からの返答がない。
不満だというのか?要望に従わせておいて。
いつまでも解かれない腕にしびれを切らせて、振り向いた。
アンナ嬢の顔は、真っ赤になっている。
「どうした。熱があるなら、使用人を呼ぶぞ」
「べ、別に熱はない!!」
「そうか、では出ていけ」
「出ていくさ!!お、う、あの!!」
「なんだ、夜だぞ。騒がしい」
アンナ嬢は腕をほどき、すぐに部屋を出る。
だが直前、こちらを振り向いた。
熱がないのならば構わないが、なんだというのか。
何度か口を開閉させた彼女は、小さな声で何かを言った。
聞こえなかったので聞き返すと、大きな声で帰ってくる。
「これからは、そう呼んでくれ!!わかったな、おやすみ!!」
強く閉められた扉。
残された茶会の道具たち。
まだ体温の残る背中。
すべて放り出して、部屋を出て行った。
「片付けくらいしろ、アンナ」
彼女がいなくなった部屋は、少し寒い。




