49話 二人だけの秘密
悪夢だった。
あの出来事だけは、忘れられない。
愚王に、戦争を始める名目にされた遠征。
少ない人数で、わざと国境を越えさせられたこと。
側近たちが、死にかけの体を気にもせずに薬を飲ませてきたこと。
無傷のツキに薬を飲ませた奴らが、強引に、上にのせてきて。
いやだ、いやだやめろ。
起きろ、起きろ起きろ!!
「っああっ!!」
ゴンっ!!
「っだぁぁあ!?いたっ!!」
体を、強引に起こす。
すると、額にとてつもない痛みが襲う。
なんだ今の音は。
頭が痛む、声の主はわかっている。
暗く、ろうそくの明かり一つが灯った寝台の上。
アンナ嬢が、額を抑えて右側にうずくまっていた。
わずかに見える光が、彼女の怒ったような顔を浮かび上がらせる。
「いきなり起き上がらないでくれ……頭突き苦手なんだ」
「何をしている」
「看病以外に何がある。ずっと隣に居たのに」
「何のために」
「ルクが行くなっていうからだろう!?」
小声で叫ぶとは、器用だ。
今は何時だ、窓の外はわずかに明るい。
夜明けが近いということは、手合わせから何時間も経っているのか。
アンナ嬢はなにかぶつぶつ言いながら、手桶で布を濡らして絞っている。
そんなもの、この部屋にはなかったはずだ。
「それはどうした」
「側近に見つからないように、調達したんだ。呼んでほしくなかったんだろう?」
「まさか、ずっとここにいたのか」
「なんでいなくなると思ったんだ?心配したのに、起き抜けで頭突きはひどいじゃないか」
知らなかった一面だ。
アンナ嬢は、どうやら世話を焼く質らしい。
宰相の娘として、世話を焼かれるのが当然だろう。
だが、悪くない。
このように看病をしてもらったのは、いつ以来か。
頭にのせられた布は、弱弱しい女の手では到底ないほどに水が絞られている。
ここまでとは、アンナ嬢はやはり怪力だ。
「王妃の役目に看病はない」
「普通にルクが心配だったんだ。聞きたいこともあるからな」
「なんだ。言ってみろ」
「ツキって、誰だ?さてはルクを怖い目に遭わせた奴か?」
「なぜその名を」
「しきりに言ってたぞ、散々謝って、ツキ、ツキって。女か?女だな??私は妻として、夫を苦しめる女を成敗してもいいと思うんだ」
隣に、寝台に座る彼女の声音が変わる。
怒らせた、それに近い声音だ。
その上、戦う際の殺気が漏れ出ている。
理解できない。
意識を失う時も、眠っているときも、何をしたか覚えていない。
殺気を出すまで、何がアンナ嬢を怒らせたんだ。
「怒っているのか」
「もちろんだ。あと女の名前を出されると胸がぐしゃぐしゃになる」
「なんだそれは」
「私がしたくてルクと結婚したのに、ほかの女をそうやって呼ぶのはなしだろう。嫉妬させたくてやってるのか?」
「身に覚えがない。我は何を言った」
「しらを切るのか?じゃあ聞かせてもらおうか、ツキって何者だ?」
「アンナ嬢が知る必要はない」
「ある。間違いなく、君はその女に関する何かで苦しんでる。教えてくれないなら、メイド長でも、誰でもいいから聞き込みをするぞ」
アンナ嬢は、妙に勘がいい。
まさか、ツキのことを探られる日が来るとは思わない。
彼女がいなくなったのは数年前。
まだ働いている使用人も、覚えているだろう。
彼女の行動力があれば、側近にも話を聞きに行く可能性がある。
もしそこで、詳細に語られたら。
あの日のディルクレウスという愚かな少年が、使用人だったツキと何をしたのか。
それを、彼女はどう聞いてしまうのだろう。
何度目だ、心臓が痛い。
病か?心臓の病で死のうが、蘇生されてしまうだろう。
苦痛は、鈍いとはいえ感じたくはないものだが。
「なんとか言ったらどうだ」
「言ったら、君は不快になる」
「言わなくても十分不快なんだ」
「知らないほうがいい」
「なぜだ。何を怖がってるんだ?そんなに知られたくない秘密か」
「そうだ」
「誰が困るんだ」
「……誰、が」
「そう、誰のために口をつぐむ?母様が言っていたんだ。『秘密を抱えるものは、誰のために抱えているのかを考えろ』と」
誰のために、この秘密を抱えているのだろう。
ツキのためか?
もう、生きているか死んでいるかもわからないのに。
国のためか?
いいや、それも正しくはない。
アンナ嬢のためか?
そうだ、もし知ったら軽蔑する。
事態を防げなかった、動けなかった、情けなくも一人の女性を……。
「アン、ナ嬢、のために」
「私が知ったことで、どうなる。不快になるだけならどうだっていい。だって、ルクに関係ないだろう」
「頼む、聞くな」
「いいや聞くぞ。優しさで聞かないなんて、私にはできない。私は、ルクの痛みも一緒に抱えたい」
「しかし」
「口をつぐむのは、自分のためだろう。私は、そんなに頼りない人間か?」
自分のためだと。
この人間以下の体に、そんな本能があるはずはない。
アンナ嬢に言えば、不快になる。
軽蔑し、後悔し、王妃になったことを嘆き、逃げ出したいと思うだろう。
それを止める権利など、ありはしない。
アンナ嬢の手が、我の手を握る。
あたたかく、硬く、強く、気高い手だ。
「……話した後で、ヴァルカンティアに帰りたいのであればひそかに手配しよう」
「逃げない。君の側にいる」
「なぜそこまでする」
「君が私を、見てくれたから」
「美しいものを見ない人間は、いない」
「そういうところだぞ」
背中に添えられた手が、温かい。
もう記憶も遠い、兄姉の誰かの手も、温かいものだった。
自分のため、という言葉の真意は理解できそうもない。
だが、気づいてしまった。
おそらく我は、この女性を投げだせない。
「……誰にも、言うな。誰にも」
「もちろん。二人だけの秘密だ」
空が白み始める中、語る己の声はどこか遠く聞こえる。
アンナ嬢は、止まろうが、息を切らせようが、ただ聞いていた。
握られた手が、離せなかった。
側近が起こしに来るまで。
何を勘違いしたのか、妙に機嫌のいい側近もどうでもいい。
一晩中寝付けなかっただろうアンナ嬢の髪が、朝の光に輝いている。
手を離し難かったのは、初めてのことだった。




