109話 前夜の解放
真夜中。
暗い廊下には月光すら差し込まない。
手持ち燭台を片手に、我は一人歩いていた。
人間の気配は、少ない。
多くの使用人には暇を出した。
真意は伝えなかったが、金を積めばほとんどの者は我先に王宮から出て行った。
4人であの話をした後、即座にジークが王宮を出たと知らせが入った。
誰にも見られず脱走することなど容易いだろうが、衛兵に告げて王宮を出るとは奴らしくもない。
ミクサの部屋には、光が漏れている。
どうやら、すぐに民たちと逃げるつもりはないらしい。
鍵は渡した、あとは勝手にするだろう。
数千人の人間など、持て余すばかりだ。
そして、目的の部屋の前。
ノックをするが、返答はない。
構わず扉を開けば、何度見ても異様な空間が広がっていた。
数年前より大きくなったレオンの背中だけが、こちらを向いている。
「入っていいなんて、いってないですけど」
「ここは我の王宮、すべては我の自由だ」
「なんですか?俺エラに今日の出来事を話そうとしてたところなんですけど」
「死んだ相手にか。返る声もないだろう」
「それでも、天国にいる彼女には届いているはずだから」
暖炉の明かりはなく、ただ蝋燭一本だけが照らす部屋の中。
床に散乱するのは、脈絡もない文言が積み重なった手紙。
壁を彩るのは、これまで与えてきたエラの物品。
昼でも光を通さないよう管理された部屋で、レオンは何年もエラと生きている。
その有様は、何度見ても醜い。
この男が、夜明けに決戦の地となるこの王宮に残るとは。
七年前のあの状況からは想像もできない忠義だ。
「真意を聞きたい。なぜ、あの場で自分も王宮から逃げると言わなかった」
「言ったら、何とかしてくれるのか。ソルディアの統治も、愛する人も、全部取り戻せるのか。無理だろう、なら俺はエラと共に死にたい」
「人間は死を恐れるのだろう。逆行している」
「死ねばエラに会えるのに、なぜ恐れるのかわからない」
「戯言だな、天国などない。そういうのであれば、早々に自害していればよかったものを」
「許さなかったのは、ディルクレウス王だろ」
レオンからソルディアを奪ったのも、後妻騒ぎでエラが爆散。
有能故、縛り付けたのもすべて我の采配の末路。
不運な男が解放されるものが死であるなら、生を促すのも意味がない。
持っていた小さな鍵を、レオンに向けて投げる。
こちらを見ずにそれを掴んだレオンは、見慣れた不機嫌な顔でこちらを睨みつけていた。
「エラの倉庫のカギだ。中は好きにしろ」
「……まだ俺に何かやらせるつもりか」
「当日、さりげなく王宮が手薄になるよう兵を配置しろ。反乱軍でもディアーナでも、兵が多くては王宮まで踏み込めん」
「それだけですか?いつもはもっと無理難題吹っ掛けてくるのに」
「これ以上の仕事はない。貴様も自由だ」
「待てよ。待ってください、じゃあなんで鍵なんか」
「不用品だ、勝手にしろ」
どうせ、倉庫にはあって10点ほど。
レオンをこれ以上使う気もない。
褒美にもならないがな。
レオンの部屋を離れ、向かうのはアンナの部屋。
中に入れば、変わらない遺品たちがそこにある。
整然と片づけられた空間は、10年近く維持されていた。
「天国は、あると思うか」
返事はない、わかっている。
だが疑問を出さずにいられなかった。
どれだけ魅力的な場所か、アンナは知っているだろうか。
いや、知らないでほしい。
「地獄の住み心地は、どうだ」
戦いで何人もを死に至らしめた。
ディオメシアは滅ぶとわかっていて、我の側に居続けた。
善行も多い女だったが、何よりも行った悪事がある。
我を、人間にしたことだ。
そんな人間が、天国にいるはずがない。
そうでなければ、君が天国にいたのなら。
地獄しかない我とは、永劫に会うことはない。
「すべてを終わらせる。待っていろ」
部屋を出る前、小さな箱が目に留まる。
アンナに最後にねだられた、髪飾りの箱。
エメラルドと、ガーネットがあしらわれた、ディアーナに宛てたもの。
大きな箱の陰に隠れたそれを拾い上げ、中身を胸元に入れた。
行動に意味はない。
自分でつけるはずもない、ただの装飾品。
だが、それでも。
それを持ち出して自室に戻った。
暖炉の前に腰かけ、髪飾りを火にかざす。
緑と赤の宝石が、周囲を囲む黒の石が、幸せだった頃の色合いを思わせる。
アンナの部屋から何か物品を持ち出したのは、はじめてだ。
この我が、何かを感じ入っているのだろうか。
ようやくすべてが終わる。
夜明け、反乱軍の一掃という名目で兵たちを王宮から追い出す。
空になった王宮に、誰が来るか。
誰が来ようと、誰も来なかろうと、我とディオメシアの王家は終いだ。
だが、それでも最後に。
「ディアーナは、来るか」
本来、この髪飾りはディアーナのもの。
これを直接返せたら。
もう、思い残すことはないのだろう。
鳥のさえずりが聞こえる。
眠った感覚はない、窓の外を見れば空の色が少しずつ光を帯びる。
「時間だ」
鎧、外套、剣。
特に変わることのない戦いの装備を整え、王宮内を進み、兵たちの前へ出る。
この上なく、すがすがしい夜明けが見えた。




