第84話 九条蹴鞠は飛べない
エインハラ宮殿
まるで大地が、空に向かって咆哮しているように見えた。
巨大な楕円形の外壁が、白の石灰岩を隙間なく積み上げて天へと伸びている。
四層からなる堅牢なアーチが規則正しく並び、最上部には細密な彫刻が施されている。
もしも元の世界のローマ帝国で、かのコロッセオが完全な形で完成していたなら、きっとこうなっていただろう。
いや、それ以上の威容かもしれない。
外壁の石は鏡のように白く磨き上げられ、帝国の南部の強い陽光を反射して眩しく輝いていた。
単なる娯楽の建物というより、絶対的な強者を至上とする「帝国そのものの意志」が、冷酷な石になったような佇まいだった。
「ユリウス……あの男がいる限り……」
宮殿の周囲には、既に異様なまでの熱気を孕んだ民衆が溢れ返っていた。
無数の屋台が軒を連ね、肉を焼く串焼きの煙が空をくすませ、賭け屋の怒号のような声が飛び交っている。
子供が走り回り、老人が歯のない口を開けて笑い、女たちが身を乗り出して今日の対戦番組を熱っぽく語り合っていた。
『今日は何が出るのか』
『どの異邦人が戦うのか』
『その異邦人は、どれほど強いのか』
空間全体が、異常な熱気に浮かされている。
それは単なる祭りの浮ついた熱ではなく、もっと根の深い、野蛮で血の滾るような熱だった。
「……週末は武道会。せめて舞踏会にして欲しかったですわね」
帝国の民にとって、このエインハラはただの暇つぶしの娯楽施設ではない。
純粋な「強さ」を直接目で見る場所であり、圧倒的な力を信じ、己の血肉にするための神聖な闘技場なのだ。
その熱狂の地の底で。
蹴鞠は、薄暗い空間で静かに向かい合っていた。
土埃の中でも、可憐なドレスの淑女。
豪奢すぎる部屋を与えられて、普段はそこで軟禁されている。
あの男さえいなければ、我が世の春と満喫できたかもしれない。
あの男さえいなければ——
ユリウス・フォン・ヴァルンシュタイン
その名を脳裏で反芻するたびに、蹴鞠の奥歯に力が入る。
選帝侯七家のうちの一人。
ヴァルラとは異なる種類の恐ろしさを持つ男だった。
ヴァルラは余裕だ。余裕があるから恐ろしい。
だがユリウスは違う。
あの男は、蹴鞠を見る目が最初から違った。
品定めではなく、値踏みでもなく。
まるで、鳥籠の中の珍しい鳥を眺めるような目だった。
逃げられないと、完全に確信している目だった。
それが、何よりも蹴鞠の矜持を深く傷つけた。
◇
機会は、思いがけず早く訪れた。
武道会の前日。
見張りの数が普段より明らかに少なかった。
外の喧騒に引き寄せられたのか、それとも単なる手抜かりか。
いずれにせよ、今しかなかった。
蹴鞠は、割り当てられた部屋の窓から外を観察した。
中庭を囲む石壁の上には、槍のように鋭く研がれた鉄の杭が等間隔に突き出ている。
常人なら、あの杭の間を縫って跳び越えることなど、到底できない。
だが、わたくしは常人ではない。
「扉の鍵もなく、見張りも少ない」
蹴鞠は、口の端をわずかに持ち上げた。
「わたくしのスキルを甘く見られたものですわね」
豪奢なフリルの裾を、静かに、しかし確実に持ち上げた。
跳ねるが吉、レベル4。
連続跳躍のたびに乗数的に威力が累積するこの理は、この帝国広しといえど、この局面を想定できる者はいない。
一歩。
床を踏み込んだ瞬間、蹴鞠の身体が音もなく宙に舞った。
窓枠を踏み台に、鋭い鉄杭の列を、フリルを翻しながら鮮やかに跳び越える。
着地した先は中庭の石畳。
そこからさらに跳躍し、外壁へ。
「舐められたものですわね。 このわたくしを——」
完璧だった。
われながら、完璧な脱出だった。
次の踏み込みで、外の喧騒が一気に近づく——
その瞬間だった。
空気が、変わった。
変わったというより、重くなった。
急激に、信じられないほどの重さが、真上から全身に圧し掛かってきた。
まるで、見えない巨人の掌で、上から押し潰されるような感覚。
「っ……!」
蹴鞠の跳躍が、あっけなく殺された。
浮かびかけた身体が、重力に引き戻されるどころか、地面へと叩きつけられる。
ズブリ、という感触があった。
石畳ではなかった。雨上がりで緩んだ土の上だった。
蹴鞠の顔が、ゆっくりと、しかし抗いようなく、泥の中へと押し込まれていく。
——止められない。
スカートが、フリルが、丁寧に手入れされたブロンドの巻き髪が、汚泥に塗れていく。
やがて、額が完全に地面に沈んだ。
完璧な土下座の形だった。
「……ッ!」
声にならない叫びが、喉の奥で詰まった。
怒りではなかった。
屈辱だった。
九条蹴鞠が。
誇り高き令嬢が。
コスプレイヤーとしても、貴族としても、何者にも跪いたことのない蹴鞠が。
泥水の中に、額を押し付けられている。
「どんなお味ですか、お嬢さん」
冷たく、静かな声が上から降ってきた。
靴音が近づいてくる。
「舐めてみたい……とか」
泥に沈んだ視界の端に、磨き上げられた革靴のつま先が見えた。
ユリウスの声は、怒ってすらいなかった。
面倒くさそうでもなかった。
ただ、淡々としていた。
「次は、もっと上質な土を用意しておきましょう」
まるで当然のことを、当然のように告げるだけの声だった。
それが、蹴鞠には一番堪えた。
泥水が、頬を伝った。
涙ではない。
泥水だ。
絶対に、涙ではない。
わたくしは、九条蹴鞠ですもの。
でも、その矜持を支えるはずの言葉が、今は泥の中に沈んで、ひどく遠かった。
◇
半地下の控室は、闘技場の下の岩盤を直接掘って作った粗末な場所だった。
天井が圧迫するほど低く、苔の生えた壁はじっとりと湿っている。
頭上にある格子状の石の隙間からは、外の強烈な光が線となって差し込んでおり、真上を歩く観客席の足元が見えた。
使い込まれた革靴。粗末なサンダル。
あるいは、貴族風の豪奢な長い裾。
それらが絶え間なく動き回っている。
重低音のような歓声と足音が、まだ始まってもいないというのに頭上から容赦なく降ってくる。
帝国の熱気が、石の隙間から控室の中へじわじわと滲み込んできていた。
剛のような、大柄な盾を持つ男が、重い口を開いた。
「いやぁ、まいったな。今日は特に客が多い」
ここは、いつもの近代的な世界ではない。
道中は豪奢な馬車だが、入ると別物だ。
文明レベルが、グンと下がる。
ユリウス曰く、辺境伯の趣味で残されている、古代の世界。
剣闘士とかいう、物騒な興行がまかり通っているのだから、帝国の人権意識はその程度。
だが、金になるらしく男たちは和気あいあいと話をしている。
「で。大トリは、トロルだろ」
「……ええ」
蹴鞠は、表情一つ変えずに短く答えた。
身を包むベルサイユ風の豪奢なドレスが、このカビ臭く薄暗い控室ではひどく場違いなほどに華やかだった。
しかし、彼女の背筋は定規を当てたようにピンと伸びている。
どんな時でも、蹴鞠はいつも通りだった。
「俺も、一緒に戦ってやろうか?」
男が面白がるように、そう言った。
彼の強固な肉体は、この低い天井の下ではあまりにも窮屈そうだった。
「結構ですわ」
蹴鞠は、冷たく即答した。
「冗談だよ。 俺より強いから、大トリなんだろ」
「その通り……ですわ。 わたくしは、決して負けませんわ」
ひどく静かだが、一片の迷いもない強靭な声だった。
男は言葉を詰まらせ、ゆっくりと口を閉じた。
「……吐いちまえば、似合わねぇ場所に来なくていいのによ」
蹴鞠は、幾重にも重なるドレスの裾を、優雅な所作で僅かに直した。
「……わたくしの『仲間』が、倒しているのですから」
そう言った後、蹴鞠は瞑目した。
男は、微かに目を細めた。
「流石は異邦人だな。で、そのお仲間さんの戦いは、いつみられるんだい?」
「それは……」
蹴鞠は自らの口から出た言葉に戸惑っていた。
仲間? どの面を下げて、追放した男を仲間と言ったのか。
それに信じられるものではない。
でも、あのロベールが言っていた。
帝国に到着し、選帝侯であるユリウスと共に馬車から降りた直後のことだ。
あの俗物領主のロベールが、いやらしい愛想笑いを浮かべて、蹴鞠に近づいたのだ。
『——なるべく、余裕勝ちのパフォーマンスで頼むぞ。その方が、君たちにつく身代金が高くなるからな』
『なんですの?』
『速水ってのがトロルを倒したって話はなぁ、エレイン教会の連中も知ってるんだ。だから、お嬢ちゃんも当然の如く楽勝で頼むぜ』
蹴鞠はその時、薄汚い男の言葉に何も答えなかった。
答える必要すらなかったからだ。
だが、ただの一言も聞き逃してはいなかった。
速水駆が、トロルを倒した。
それが事実として、伝わっている。
ロベールが、身代金を吊り上げる為に言っただけ。
ハッタリの可能性は勿論あるし、エレイン教会に大破門を喰らった男の言葉など、聞く耳を持たないだろう。
だけど、蹴鞠は真実だと確信していた。
それは栞と奏の行動原理だ。
二人は、「速水駆が倒した」と思ったから、ソスピロ山に行ったのだ。
「わたくしにも出来ますわ。 問題はスキルをどうやって誤魔化すか……ですわね」
蹴鞠は、ゆっくりと冷ややかな視線を頭上へ向けた。
格子の隙間から、豪華な装飾が施された来賓席の方角が見える。
その並びの中に、ロベールの見慣れた外套の裾がチラついているのが見えた。
「ロベール……」
蹴鞠はすぐに視線を戻した。
自分たちを王都から追放したあの男が、安全な高みの見物で観客席にいる。
あの男にとって、今の自分たちはただの「身代金のついた見世物」でしかない。
それは、最初から分かりきっていたことだ。
今更、顔を顰めて感情を乱すのは下策だ。
蹴鞠は、大きく膨らんだドレスの裾を少しだけ持ち上げた。
「大丈夫か、嬢ちゃん」
「わたくしの為に、盛り上げてくださる?」
剣闘士の男は一瞬、何かを言い返そうしたが、不敵に笑った。
「今日は選帝侯さまの大切なお子さんが、何人か来てるって話だ。盛り上げるに決まってる。 無理すんなよ、嬢ちゃん」
男は勇んで、蹴鞠の前座として立ち上がった。
蹴鞠は、その男の背中に妙な親近感を抱いていた。
ここまで来れば、認めざるを得ない。
あの男は強い。それは。
異邦人の血が混じっているから。
「——あの速水が倒した程度のトロルごときに、このわたくしが負けるわけがないでしょう」
地鳴りのような歓声が、絶え間なく頭上から降ってくる。
石の隙間から差し込む光が、砂埃を舞い上がらせている。
名も知らぬ男が、派手に戦っているらしい。
蹴鞠は、ロベールのいる来賓席の方角を、もう一度だけ氷のような目で見上げた。
それから、誇り高く背筋を伸ばし、頭の中でトロルを思い浮かべた。




