第121話 空位の反乱
オレたちは栞を一人残して、廊下に出た。
しばらく重い沈黙が続いた後、ルカが静かに言った。
「やはり、彼女にはバレますよね。魂の話が作り事だと」
「そりゃな」
オレは自嘲気味に笑った。
「ってか。誰も帰られてない……て、マジかよ」
「帰りたい……ですか」
ルカが、オレの顔を覗き込むように言った。
「栞様も同じでしたね」
「当然だろ!」
オレは思わず声を荒げた。
「このままだとオレ、あのシグルドってやつの兄弟にさせられるんだぞ! 冗談じゃない!」
ルカが、目を丸くしてオレを見た。
それから、ふふっ、と堪えきれないように笑った。
横で聞いていた凜も、クスクスと笑い声を漏らした。
オレは、二人を怪訝な顔で見た。
「何がおかしいんだよ」
まぁ、とオレは密かに思った。
彫刻のフリをして尖塔の屋根に立ってるようなヤツ。
あれの兄弟になるのは、まぁ嫌だろ、と思った。
◇
暫くすると扉が開いた。
当然だが、栞が一人で出てきた。
誰も、すぐには声をかけられなかった。
玲が壁から背中を離し、剛が腕を組み直した。
舞が、不安そうに蹴鞠の袖をそっと引いた。
蹴鞠は扇を開いて何か言いかけたが、すぐに口を閉じた。
栞は、廊下へ一歩踏み出して、ピタリと止まった。
壁の模様でも数えているような、焦点の合っていない目だった。
落ち込んでいるのかもしれない。
深く、深く何かを思考している目だった。
オレたちのことなんて見ていない。
周りの空気を完全に遮断して、彼女の頭の中だけが、別の高次な回路でフル回転している。
「……栞」
舞が、おずおずと小さく呼んだ。
「うん」
返事はした。でも、顔は上がらなかった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
ルカが空気を読んで静かに一歩引き、凜がその隣で栞をじっと観察していた。
「行けそう?」
玲が、短く聞いた。慰めも同情も、余計なことは何もつけなかった。
栞はちょっとだけ間を置いて、「ええ」と言った。
そのまま、迷いのない足取りで歩き出した。
みんなが後ろに続いた。オレも続いた。
栞の背中を見ながら、何か気の利いたことを言った方がいいのかなとは思った。
でも、栞の思考の中に、オレたちは今、いない。
廊下を歩きながら、意識は全然別のところを飛んでいる。
そういう顔だった。邪魔したくなかった。
「……ねえ」
蹴鞠がオレのパーカーの袖を引き、耳打ちしてきた。
「何か言葉をかけなくていいんですの?」
「何かって。教えてくれよ」
「何かを考えるのが、駆の仕事ですの」
「いや、だって。あいつ、考えてるから」
蹴鞠は少し不満そうに黙ってから、ため息混じりに「……そうですわね」と言った。
栞の背中は、どこまでも真っ直ぐだった。
◇
教会の廊下の角を曲がったところで、先頭を歩いていたルカがふいに立ち止まった。
「……え」
ルカの声が漏れた。
ただ、彼の声の先には誰もいなかった。
さっきまではいた。
この神聖な教会の要所要所に必ず立っていた近衛兵も、僧侶も、立ち働く従者たちも。
その全てが幻のように消え去っていた。
壁の燭台の炎だけが虚しく揺れていて、人気のない廊下がやけに広く、薄ら寒く見えた。
「ルカ様?」
凜が、不安そうに呼んだ。
ルカは答えなかった。
誰もいない廊下の先を見て、自分たちが来た方角を振り返り、また前を見た。
その柔和な顔に、初めて明確な焦りが浮かんでいた。
「……何かがあったのよ」
栞が、唐突に言った。
誰に向けた言葉でもなかった。でも、全員の耳に届いた。
「アタシたち異邦人のお披露目も、皇帝の始末も、これで全部済んだ」
今なら間違いないと確信できる。
誰も殺さない、殺そうとしない、ただのお披露目。
如月栞の読み解くが吉は確保が決定。
あとは、誰を取るかのレース。
極めつけが、皇帝ネクトールを、貴族の誰もが、こっちの世界の誰もが手を汚さずに、殺害だ。
「あとは、この国の『新しい皇帝』を選ぶだけ。そのための人間が、今、外で動いているのよ」
ルカの背中が、ビクッと強張った。
「……申し訳ありません」
ルカは、振り向きもせずにそれだけ言って、猛然と走り出した。
凜が、オレたちを一瞬だけ振り返った。
それから、無言ですぐにルカの後を追って駆け出した。
オレたちも走った。
誰もいないアルカエルムの廊下を、巨大な陰謀の気配を背中に感じながら、出口に向かって全力で駆け出した。
◇
オレたちも走った。
誰もいないアルカエルムの廊下を、巨大な陰謀の気配を背中に感じながら、出口に向かって全力で駆け出した。
外へと続く巨大なバルコニーに出た瞬間だった。
「おおおおおおおおおおおッッ!!」
空気を震わせ、石造りのアルカエルムを根底から揺るがすような、凄まじい大音声が下界から響き渡った。
数千、数万の人間が同時に上げる咆哮。兵士たちの、血生臭い『勝ち鬨』だった。
ルカの足が、もつれるように止まった。
「あ……」
バルコニーの手すりにすがりついたルカは、眼下に広がる帝都の中心街を見下ろし、そのまま糸が切れたように膝から崩れ落ちた。
大理石の床に膝を打ちつけ、両手で顔を覆う。
「父、上が……マクシミリアンが……」
ルカの口から、絶望に塗れた嗚咽が漏れた。
勝ち鬨が上がった場所。
中央領の執政官であり、ルカの父親であるルカ・フォン・マクシミリアンが滞在していたはずの政庁の方角だった。
つまり、そういうことだった。
新しい皇帝を決めるための最初の血祭りとして、一番権力を持っていた執政官が、真っ先に何者かの手によって討たれたのだ。
栞が、冷酷な足取りで、崩れ落ちたルカに歩み寄った。
「誰がやったの。中央の兵力を一瞬で制圧できる勢力はどこ」
栞の声には、微塵の同情もなかった。
盤面の駒を数えるような、ただ事実だけを求める冷たい尋問だった。
ルカは答えられなかった。
肩を震わせ、ただ床に突っ伏している。
栞が、さらに一歩踏み込み、ルカの胸ぐらを掴み上げようと手を伸ばした。
「答えなさい。貴方の父親を殺したのは——」
ガキン、と弾かれた栞の手。
しかし、栞の顔には怒りも焦りも浮かんでいなかった。
彼女の青い瞳は、突きつけられた凜の短剣ではなく、もっと深く、もっと残酷な『盤面』の全体像を見下ろしていた。
「……そう……ね」
栞が、ぽつりと呟いた。
凜から一歩だけ距離を取り、静かに息を吐く。
「そういうことね。アタシたちは完全に、盤面の上で踊らされていた」
「何を言ってるの」
凜が短剣を構えたまま、鋭く問い返す。
栞は凜を無視し、大理石の床に這いつくばるルカを見下ろした。
「皇帝が居なくなった瞬間を、ずっと狙っていたのよ。ゲームのように順番も決まっていた……」
その言葉に、オレは息を呑んだ。
「奴らは、アタシたち異邦人が選帝侯のキーワードを全て集め、あの部屋で皇帝の命を絶つその一瞬を、息を潜めて待っていた。皇帝という『絶対の楔』が消滅し、帝国の指揮系統に空白が生まれる、その完璧なタイミングをね」
ルカが、虚ろな瞳をわずかに栞へ向けた。
「だから……執政官である貴方の父親が、真っ先に狙われたのよ」
栞の声は、氷のように冷たく、そして残酷なほど論理的だった。
「ルカ。考えてみなさい。本来なら、アタシたち異邦人が皇帝の部屋に向かうこの重大な局面に、最高権力者である執政官の彼が、ここアルカエルムにいないはずがない。彼はここにいるはずだった。でもいないのは、なぜ? 読み解くが吉、レベル5でしょう」
ルカの唇が、カタカタと微かに震えた。
「……父上は、各領主の軍旗が帝都に迫っているという急報を受け……その対応と、中央軍の再配置の指揮を執るために、政庁へ……」
栞が、容赦なく言葉を叩きつけた。
「北のフィニスも、南のランルフも。外ではためいているあの軍勢は、執政官であるマクシミリアンのみを狙ってる。混乱させ、その後の対応を遅らせる為に、ね」
剛が「あっ」と低く声を漏らした。
「旗は陽動か……!」
「ええ」
栞が頷いた。
「そして、アタシが皇帝を殺し、帝国のシステムが揺らいだ絶妙なタイミングで、手薄になった政庁を強襲した」
「なんで、そんな回りくどいことを……」
オレはたまらず口を挟んだ。
「皇帝を殺すのが目的なら、皇帝だけを狙えばいいだろ! なんでわざわざ執政官から殺すんだよ!」
「さっきも言った。混乱させるためよ」
栞がオレを睨んだ。
「皇帝が死んだという異常事態の直後、すぐに指揮系統を引き継ぎ、帝都の軍事力を統率できる人間は執政官であるマクシミリアンしかいない。その『頭』を真っ先に落とすことで、中央の政治力と防衛機能を一瞬で完全に麻痺させたのよ」
「つまり、完璧に練られたクーデターだ」
ゲーマーたちが分析する。
オレは、背筋に氷柱をねじ込まれたような寒気を感じた。
「今、帝都の兵士たちは誰の命令を聞けばいいのか分からず、完全な大混乱に陥っているはずよ。皇帝が死に、執政官も死んだ。北と南からは大軍が迫っている。……これほど完璧な『盤面崩壊』はないわ」
栞の解説に、バルコニーは水を打ったように静まり返った。
オレたちは、頭が真っ白になった。
自分たちが必死に勝ち取ってきた勝利。
帝国の扉を開けるための戦い。
全て見えざる敵の『計画の一部』として利用されていたことを理解した。
異邦人が皇帝を殺すのを、あいつらは舌舐めずりしながら待っていたのだ。
「……誰が、そんな真似を」
玲が、腰の剣の柄を強く握りしめながら唸った。
「分からない」
栞が首を振った。
「でも、これほど大規模な軍隊を展開し、同時に政庁の精鋭を無音で全滅させられる勢力。帝国の内情を完全に把握し、アタシたちの行動すら計算に入れている人間……」
凜が、構えていた短剣の切っ先を、ゆっくりと下げた。
彼女の漆黒の瞳にも、絶望的な状況の全貌が見え始めていた。
彼女はルカを庇うように立ちながらも、その背中は小さく震えていた。
「ルカ様……」
凜が、縋るようにルカの肩に触れた。
ルカは、力なく床に手をついたまま、眼下の帝都を見下ろしていた。
彼が守りたかったもの。彼が執政官の息子として、皇帝を繋ぎ止めてまで維持しようとしていた帝国の秩序。
それが、たった今、音を立てて完全に崩壊したのだ。
風が、ゴォォォォッと不気味な音を立ててバルコニーを吹き抜けた。
「アレ……は」
玲が声を上げた
「フィニスっ!」
遠く北の空で、フィニス王国の青い旗が揺れている。
「南はランルフ……ね」
蹴鞠も吐き捨てるように言った。
南の空で、ランルフの赤い旗が揺れていた。
◇
姿なき敵の気配が、冷たい風となってバルコニーを吹き抜けていく。
絶望的な沈黙が落ちる中、栞が静かに動いた。
彼女の冷徹な視線が、床に這いつくばるルカから、彼を庇うように立つ凜へと移った。
「あの本を見せて」
栞が、スッと右手を差し出して言った。
声のトーンは全く変わっていなかった。感情の乗っていない、ただ最適解だけを求める冷たい要求だった。
凜が、ビクッと肩を震わせた。短剣を握りしめる手が、血の気が引いて白くなっている。
「……今はやめて」
凜が、絞り出すように言った。
その漆黒の瞳には、かつての親友への明確な拒絶と、傷ついたルカを守ろうとする必死な感情が浮かんでいた。
「今じゃないわよ」
栞は、差し出した手を引っ込めなかった。
「ルカの心が回復するのを待っている暇なんて、アタシたちには一秒もない。このままじゃ全員死ぬのよ」
「だからって……!」
「あの本が絶対に関係ある」
栞が、凜の言葉を容赦なく遮った。
「貴方がルカから見せてもらったという時祷書。帝国の記録。アタシたちが探していた答え、この盤面をひっくり返したクーデターの首謀者に繋がるピースが、必ずその記述の中に隠されているはずよ」
「だから、今は!」
凜が、悲痛な声で叫んだ。
その声は、バルコニーの冷たい空気に痛々しく響いた。
「ルカは今、お父様を亡くしたばかりなのよ! 目の前で、帰る場所を全部奪われたの! アナタには……栞には、人の心がないの!?」
オレは、たまらず二人の間に割って入ろうと一歩踏み出した。
「栞、いくらなんでも今は——」
「マリアの家に」
唐突に、低く掠れた声が響いた。
オレも、栞も、凜も、一斉に声の主を見下ろした。
床に崩れ落ちていた、ルカだった。
彼は大理石の床から、ゆっくりと、ゼンマイ仕掛けの人形のように顔を上げた。
絶望で焦点が合っていなかった薄桃色の瞳に、
何かおぞましい真実に辿り着いてしまった者の、強烈な戦慄が宿っていた。
「マリアの……家に……」
ルカが、うわ言のように同じ言葉を繰り返した。




