第81話 キラキラの王子様
宝石が散りばめられた本。
どの宝石にも当てはまらない、薄桃色の瞳。
ルカは目を閉じて、ゆっくりと首を横に振った。
少女のように長く美しい白金髪が、さらりと肩の上で揺れる。
「嘘です」
「え……?」
「わたしには、あの文字が完璧に読めます」
「……っ!」
「そして」
ルカは、愛おしげに時祷書の表紙を見つめた。
「貴女のご友人もどうやら──あの文字を、正確に読み解けるらしい」
その言葉が、鋭利な刃物となって私の胸の真ん中に突き刺さった。
友人。
そして、読み解ける。
──栞だ。
栞の身に宿る固有のスキル、「読み解くが吉」。
頭脳明晰な彼女が、この帝国において異常なまでに目を付けられている。
彼女が隔離されている本当の理由が、今、完璧に繋がってしまった。
凄まじい焦燥感と、栞への対抗心が、私の理性を一瞬にして焼き切った。
気づいたときには、私は衝動的に口を開いていた。開いてしまっていた。
「私のスキルだって、凄いんです!」
激しい声が、部屋の静寂を切り裂いて響いた。
「『突き刺すが吉』! 私は、鋭利なモノさえ手に持てば、この世界のどんなに硬いモノであっても、なんでも完璧に突き通すことができます! だから、私のことだって──!」
そこで、言葉がピタリと途切れた。
激した自分の高い声だけが、冷え切った部屋の空間に虚しく残響している。
私は、大きく目を見開いたまま固まった。
絶対に、自分のスキルを名乗ってはならない。
あれほど、栞に強く言われていたはずなのに。
──言ってしまった。
敵の、それも選帝侯の血を引く男の目の前で、自分の手の内を完璧に晒してしまった。
この屋敷だって、ルカの両親の家だというのに。
頭の芯が、一瞬にして極寒の氷水に浸されたように冷えていく。
罠だったのだ、と遅まきながら気づいた。
あえて栞の香りを嗅がせて、彼女の能力の重要性を語ることで、私のプライドと対抗心を巧妙に引き出したのだ。
なんて狡猾で、恐ろしい男だろう。
私は自分の軽率さを呪い、血がにじむほどに唇を強く噛み締めた。
「……っ!」
恐る恐る、ルカの顔を見た。
彼は──。
やはり、いつも通りの柔和な笑みを浮かべていた。
罠に嵌めたことを勝ち誇るような、どこかの誰かが見せるようにアンニュイさもない。
人間の醜い歪みとは無縁、無垢すぎる笑みしかなかった。
その純粋すぎる、透明すぎる瞳を細くして、ルカは言った。
「とても、素敵なスキルですね」
鈴を転がすような、静かな声だった。
「わたしの持つ、薄汚れた力とは大違いです」
「え……」
私は、裏切られた衝撃に震えながら、ルカの顔を凝視し続けた。
勝ち誇っていない。嘲笑ってもいない。
本当に純粋に、私の力を素晴らしいと称賛している。
そんなフローレスな顔をしていた。
おおよそ、人には似つかわしくない顔。
「……大違い、とは、どういう意味ですか」
私の声は、恐怖と悔しさで微かに震えていた。
「文字を、世界の記録を読み解く力。この力は、自分で言うのも何ですが、本当に恐ろしい力なのです」
ルカは、自嘲気味に言葉を紡ぐ。
「この力を極めていくと……。貴女たちの言葉で言うと、レベル5までいくと。最終的には、目の前にいる人間の心まで、すべて読み解けてしまうんです」
私は、息を止めた。
「え……?」
「ええ、そうなのです」
「心を……?」
「紡がれる文字も、発せられる言葉も、微細に動く表情の裏側も──突き詰めていけば、その人間が抱える醜い本音のすべてが、読むつもりがなくとも読めてしまう」
ルカの息遣いが聞こえる。
とても静かで、滑らかな音。
「それが、わたしの力の本質なのです」
私は、目の前に立つルカという存在の異常性に、背筋が完全に凍りつくのを感じた。
今この瞬間。
ルカは私の表情から、私の心から、一体どれほどの思考を読み解いているというのだろうか。
そう考えただけで、全身の毛穴が恐怖で逆立つ。
「だったら……栞は……」
私の制止を振り切り、言葉が勝手に口をついて出た。
「帝国は、栞をどうするつもりですか……!」
ルカが、真っ直ぐに私を見た。
一秒の間。彼はただ無言で私を見つめ──
それから、ひどく悲しそうに、儚く微笑んだ。
いつもの柔和な笑みのはずだった。でも、明らかに違っていた。
ううん。違う。分かってしまった。
押し寄せる世界の悪意と、己の運命に対する諦めを、必死に喉の奥で堪えているような、そんな歪な微笑みだった。
ルカはゆっくりと俯いた。
少女のように長い金髪が、彼の端正な横顔に暗い影を落とす。
「さて……」
消え入りそうな、静かな声だった。
「父上は、あの傲慢な皇帝陛下は、彼女をどうするつもりでしょうかね」
私は、何も言えなかった。
「過去を、現在を、未来を読み解く力は、この帝国において決して絶やしてはならない絶対的な力です」
ルカは、自身の影に向かって語りかけるように続けた。
「何故ならそれこそが、皇帝という座に一番近いとされる力だから……ですよ」
部屋が、不気味なほどの静寂に包まれた。
窓の向こうには、朝靄に煙る帝国の美しい街並みが、変わらず冷酷に佇んでいる。
私は、ルカの言葉の意味を必死に考えていた。
この不条理な世界は、これからも異邦人を呼び続けるのだろう。
何百年、何千年先も、自分たちの都合で元の世界から人間を拉致し続ける。
そのたびに、異邦人たちはこの地に文字を残す。
絶望の言葉を残す。世界の真理に迫る記録を残す。
「どう……して」
その暗号化された記録を——
だからこそ世界のすべてを——
帝国にとって——
そして──
「どうして? その……わたしにも」
「違っ……違います」
思考が止まる。
考えなければならないものが、すり抜ける。
絶対に、間違いなく、重大な話なのに。
この世界の謎、異邦人が知らないといけないのに。
私は思ってしまったのだ。
元の世界にいた頃、漫画や小説の知識として知っていたのだ。
他人の心を完全に読み解くことができる人間が、権力者から一体どんな扱いを受け、どんな末路をたどるのか。
例外なく、都合のいい道具として利用される。
精神を、その魂のすべてを極限まで消耗させられる。
そして、権力者はソレに、大切なものを絶対に触らせはしない。
最後には──
私は、目の前のルカを見つめた。
彼は、深く俯いたまま微動だにしない。
美しい長い髪が顔を隠し、濃い影となって、彼を世界から断絶させている。
『父上はどうするつもりでしょうか』
その言葉は、選帝侯の息子という高貴な身分で言う言葉だろうか。
自分自身の運命に対してすら、何一つ抗う手段を持たない者の言葉ではないだろうか。
だとすれば、あまりにも無力な悲鳴だった。
その瞬間。そう、ここで。
私の胸の奥底で、何かが猛烈な勢いで燃え上がった。
静かに、でも確実に、明らかに、絶対的に、揺るぎようがなく
すべてを焼き尽くすほどの、強烈な焔となって、存在し始めた。
愛用の細身剣は、今日は取り上げられている。
ルカが来る。 ルカは帝国にとって大切な存在だから、いつもと違う。
「黒瀬凜……。スキルは突き刺すが吉」
栞の戒めを破り、自分のスキルもすべて暴露してしまった。
私は、ただの無力な捕虜だ。
でも──
「私を」
私は、迷いなく口を開いた。
「ルカ様のおそばに、居させてください」
凍りついていた部屋の空気が、微かに揺らいだ。
ルカが、弾かれたように顔を上げた。
出会ったあの日から、彼の顔から初めて「いつもの笑み」が完全に消え去っていた。
彼にしては珍しく、驚いていた。
他人の心をすべて読み解けるはずの彼が、今、目の前の少女が放った本心の言葉に、ただ、純粋に驚愕していた。
「……それは、一体、どういう……」
「私の身に宿る理は……」
私は、一歩も引かずに言葉を重ねた。
「鋭利なモノさえあれば、この世界のどんな理不尽であっても、なんでも完璧に突き通すことができます」
私は、ルカの薄桃色の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「だから──」
罠なんて、関係なかった。
私は、こんな生き方がしたかったのだ。
「もし、ルカ様にとって必要ならば。私はそのすべてを、代わりに突き通してみせます」
私の顔を、ルカがじっと見つめる。
長い、長い、時間が止まったかのような沈黙の中。
私の心の奥底までを、その固有の理で必死に読み解こうとするかのように、見つめ続けていた。
やがて──
彼の端正な顔に、ゆっくりと笑みが戻ってきた。
それは、しばらく前まで私を騙していた、アレとは違う。
あの仮面のような笑みでは、決してなかった。
ルカを縛り付けていたすべての絶望と孤独が、
一瞬にして綺麗に溶け去ってしまったかのような、ひどく無防備な微笑みだった。
「……突き刺すが吉」
ルカは、私のスキルの名を、愛おしそうに何度も繰り返した。
「本当に……最高に素敵なスキルですね」
もう一度、彼は同じ言葉を口にした。
今度の声は、さっきまでのどの言葉よりも、ずっと、あたたかかった。




