第80話 宝石箱のような街。宝石のような本。
いつもの爽やかすぎる朝だった。
歪に切り取られた高い窓の向こうに、帝国の見知らぬ街並みが果てしなく広がっていた。
中世ロマンなフィニス王国とも、自然豊かなヴァルシア王国とも違う。
圧倒的な歴史の積み重ねによる美しさだった。
重厚な石造りの建物が隙間なく密集し、煤けた瓦の屋根が生き物のように複雑に重なり合っている。
天を刺すような鋭い尖塔の影、それとは対照的に滑らかな曲線を画くドーム状の屋根。
それらの間を、細い路地が迷路の如く走り抜けている。
夜明けの白い朝靄が、まだ眠りから覚めやらぬ街の輪郭を、幻想的に滲ませている。
──錬金術が生まれそうな街だ、と私は思った。
魔法や固有のスキルが厳然と存在するこの世界だ。
石造りの地下室や、屋根の死角に、神秘がひっそりと隠されていても不思議はない。
この古い街並みが、長い歳月をかけて、大いなるものを醸造しているように見える。
私は窓枠にそっと指先をあて、冷徹な目でその光景をただ眺めていた。
身に纏っているのは、今日も部屋に用意されていた豪奢なドレスだ。
黒のビロード地に、息を呑むほど細緻な、銀の刺繍が幾重にも波打って走っている。
袖口には、白いレースが贅沢にあしらわれ、何層にも重ねられたスカートは床に重く、広く広がっていた。
捕らえられた捕虜が、着るような代物ではない。
──でも。
私はドレスの裾を少しだけ持ち上げ、指先で刺繍の細かさを確かめてみた。
完璧だった。職人の執念が宿ったかのような超絶技巧。
どこをどう見ても、一箇所の縫い目すら見当たらない。
もし、自分が捕虜という忌々しい肩書を背負っていなければ。
元の世界にいた頃の私なら、この異国情緒溢れる美しい街並みも、身に纏う高貴な衣装も、間違いなく喉から手が出るほど垂涎の的だったはずだ。
それが、無性に腹立たしかった。
敵の与えた欺瞞の優しさを、素直に喜びそうになっている自分自身が、何よりも一番腹立たしくて仕方がなかった。
不意に、部屋の扉が静かにノックされた。
「黒瀬様、お客様がいらしています」
廊下に控える見張りの、抑揚のない声だった。
私は窓辺から静かに離れ、姿勢を正した。
「どうぞ」
重厚な扉が内側へと開く。
姿を現したのは、ルカだった。
昨晩の舞踏会と全く変わらない、絵画のように柔和な笑みをその端正な顔に浮かべている。
ただ、その手には大切そうに「何か」を抱えていた。
大きな、重厚な本だった。
ずっしりとした質量があるはずなのに、彼はそれを重そうに持つわけでもなく、割れやすい硝子細工でも扱うかのように、丁寧に両手で包み込んでいた。
「おはようございます、黒瀬様」
「……おはよう……ございます」
私は、警戒を孕んだ声で短く応じた。
ルカは静かな足取りで部屋へ入り、部屋中央のテーブルの上に、抱えていた本をそっと置いた。
「昨日お約束した、良い本です。お持ちいたしました」
私は引き寄せられるようにテーブルへと近づき、その本を上から見下ろした。
途端に、喉の奥で息を呑んだ。
表紙。
その佇まいを見ただけで、全身の血が微かに沸き立つのが分かった。
最高級の革で装丁されている。
だが、それは普通の獣の革ではなかった。
深海のように深い紺色に染め抜かれた表面には、眩い金箔が複雑な植物の模様となって押し込まれている。
本の四隅には、息を呑むほど大きな宝石が、まるで守護の印のようにあしらわれていた。
サファイアの青、ルビーの赤、エメラルドの緑。
それらが窓から差し込む朝の光を受けて、妖しく、眩い火花を散らして輝いている。
既視感があった。
私が知っているのは、時祷書だ。
元の世界にいた頃、図書室の美術画集の片隅で見たことがあった。
中世ヨーロッパの限られた王侯貴族だけが所持することを許された、濃密な祈祷のための私的な本。
一ページ一ページに、気の遠くなるような時間をかけて細密画が描かれたという。
それ自体が国家予算に匹敵するような宝石の本。
その偽物。……いえ。本物か偽物かは関係ない。
私の目の前にあるのは、こちらの世界の宝石本なのだ。
「触っても……いいですか?」
「ええ、どうぞ。そのために持ってきたのですから」
私は躊躇しながらも、そっと手を伸ばし、紺色の表紙に指先を触れさせた。
驚くほど滑らかだった。
しっとりとした、肌に吸い付くような革の感触。
私の知る、どんな物質とも異なっていた。
私は細心の注意を払いながら、ゆっくりと重厚な表紙を開いた。
一ページ目。
そこには、私の想像を遥かに超える、鮮烈な色彩の細密画が描かれていた。
純金とラピスラズリの青、そして鮮血のような赤で描かれた、天上の庭園を思わせる複雑な文様。
大輪の花が咲き誇り、生き生きとした蔓が余白を埋める。
その先には今にも羽ばたきそうな小さな鳥の姿がある。
ページの端、わずか一ミリの隙間に至るまで。
製作者の、執念のような意匠が、隙間なく描き込まれていた。
私はさらにページをめくった。
そこには、整然とした文字が並んでいた。
当然、私の知らない言語だ。読めない。
しかし、その一文字一文字が驚くほど美しく均一に揃っている。
だから、直感的に理解できた。
一文字ずつ、誰かが生涯を削るような祈りが込めてられている。
私がまた静かにページをめくった時、不意にその指がピタリと止まった。
美しい挿絵があった。
精緻なタッチで描かれた、明確な「人物画」だった。
見慣れない服を纏った、その人物の立ち姿。
──いや、違う。
私は目を細め、その挿絵を凝視した。
見慣れないはずなのに、強烈な見覚えがあった。
その服の形。ジーンズに、フードのついた上着。
その人物の、どこか世界を斜めに見下ろすような独特の立ち姿。
絵の傍らには、やはり読めない文字が添えられていた。
しかし、その末尾にある数字だけは、私の知るアラビア数字そのものだった。
日付。西暦を思わせる、明確な日付の羅列。
慌てて次のページをめくる。
そこにもまた、別の人物画があった。
やはり、この世界の人間が着るはずのない、見覚えのある「現代」の服を着ていた。
さらにめくる。また。次も、その次も──。
私は弾かれたように顔を上げ、正面に立つ男を凝視した。
ルカを見た。
「これは……」
私の声が、微かに震えていた。
「かつてこの世界に召喚された、異邦人。あなたたちの記録です」
ルカは、どこまでも静かに、穏やかに言った。
その柔和な笑みは、最初から少しも崩れていない。
「帝国には、古い時代からあらゆる事象を詳細に記録する習慣があります。異邦人がこの大陸に現れるたびに、彼らの生きた証と姿を、こうして絵師たちに残させてきたのです」
私は再び本へと視線を落とし、狂ったようにページをめくり続けた。
異邦人が、いた。
一人や二人ではない。何十人、何百人もの人間が、そこに描かれていた。
それぞれが、全く違う服を着ていた。
ブレザー、スーツ、あるいは違う時代の衣服。
「え……」
この過酷な大陸には、私たちと同じ境遇の人間が、何度も、何度も訪れていたのだ。
そして──帝国は、そのすべてを、ずっと陰から監視し、記録し続けていた。
「……これ、全員が異邦人なんですか」
「全員かは分かりません。 ですが、その大部分はそのように伝えられています」
「身に宿した、スキルも?」
「当時の帝国が、観測し、記録できた範囲においては」
私は、ページをめくる手を止められなかった。
一人一人の顔立ちが違った。着ている服が違った。
彼らはみんな、間違いなくこの世界に、無理やり連れてこられた人間だった。
そして──どうなった?
あるページで、私の指が完全に凍りついた。
そのページに描かれた人物は、満面の笑みを浮かべていた。
精緻な絵の中で、元の世界にいた頃のような無邪気な顔で笑っている。
私は、その顔から目を離せなくなり、しばらくの間じっと見つめ続けた。
「……この人たちは、元の世界に、帰れたんですか?」
私は、祈るような気持ちで問いかけた。
ルカは、ほんの少しだけ押し黙った。
「……記録が途絶えている者たちの行方は、探しようがありません。分かりません、としか言えないのです」
ただ、それだけだった。
私は耐えきれなくなり、重い本をバタンと閉じた。
閉じた表紙に埋め込まれた宝石を見る。
青と赤と緑が、変わらぬ朝の光を受けて冷酷に輝いていた。
ルカが静かに歩み寄り、閉じられた本の上にそっと自分の手を触れさせた。
長い指先を表紙の箔押しに置き、それから、ゆっくりと私の目線にその薄桃色の瞳を合わせた。
「──全部、読めましたか?」
私は、即座に答えることができなかった。
風が吹いたわけでもないのに、私の黒い髪が微かに揺れた気がした。
読めないはずは、ないのだ。
この世界に放り出されたあの瞬間から、私たちはなぜかこの世界の文字が読めた。
言葉が完璧に通じた。誰と話しても意味が理解できた。
誰が書いた古い書類であっても、すんなりと読めていたはずだった。
なのに。
なのに、なぜか、あの挿絵の横に添えられていた文字だけが──どうしても読めなかった。
挿絵の形ははっきりと見えた。
人物画の輪郭も分かった。日付の数字も正確に認識できた。
それなのに、文字の並びだけが、私の意識からするりと滑り落ちて抜けていってしまう。
意味が、どうしても脳に入ってこない。
目で追っているはずなのに、文字の形がただの無意味な紋様として、脳に拒絶されている。
そんなおぞましい感覚だった。
「……読めませんでした。文字が、すり抜けて」
私が告げると、ルカは「そうですか」とだけ静かに言った。
驚いた様子は、微塵もなかった。
最初から、この反応が返ってくることを知っていた顔だった。私が読めずに困惑する瞬間を、彼はじっと待っていたのだ。
「なぜ、読めなかったのだと思いますか?」
私は、ルカの顔を見つめ返した。
相変わらずの柔和な笑み。
でも、その青い瞳の奥だけは
──世界の深淵を覗き込むような、恐ろしいほどの真剣さに満ちていた。
私は閉じた表紙の宝石を見つめ、必死に思考を巡らせた。
「……あの文字は、私たちとは違う、別の異邦人が書いたものだから……?」
私が絞り出した仮説に、ルカは何も答えなかった。
ただ、その口元の笑みが──ほんの少しだけ、深く、妖しくなった。




