第116話 イシュタルデイズの戦い。栞
ユリウスの金属の要塞を後にして、オレたちは次の屋敷へと向かっていた。
石畳を叩く足音だけが、やけに規則的に響いている。
蹴鞠のアイアン・ヒール・ドライバーで四個目のキーワードを手に入れた。
それでも、オレたちの間の空気は決して明るくなかった。
「あ……えっと」
「なに?」
帝国の底知れなさ、そして選帝侯たちの異常性。
現在進行形で、全く感じない。
だが、栞は違う。
ボディブローのように精神を削られていた。
「だから、栞は」
オレは、少し前を歩く栞の背中を見た。
華奢な背筋はピンと伸びていて、いつも通りに見える。
だが、次に向かうのはマリアの屋敷だ。
『祈られた男女の妊娠率百パーセント』という、帝国の血統維持の要。
栞の『読み解くが吉』を帝国がどれほど欲しがっているか、栞自身が一番よく分かっているはずだった。
オレは早足で距離を詰め、彼女の横に並んだ。
「行かなくていいだろ」
オレの問いに、栞の足が一瞬だけ止まりかけた。
だが、すぐに元のペースに戻る。彼女は小さく息を吐き、ちらりとこちらを見た。
「駆こそ……」
栞の青い瞳が、オレの顔を伺うように細められた。
何かを言い淀むような、彼女にしては珍しい表情だった。
「……ううん。なんでもない」
「なんでもないってなんだよ」
「だから、なんでもないって言ってるでしょ」
冷たいようで、どこか不器用な突き放し方だった。
フィニスで決別していた時とは違う。
お互いのスキルと命を預け合っているのに、近すぎて少しぎこちない、微妙な距離感。
オレが頭を掻いて黙り込んだ、その時だった。
ふわりと、風に乗って奇妙な匂いが漂ってきた。
「……甘い匂いがしますわね」
後方を歩いていた蹴鞠が、扇で鼻を覆いながら言った。
確かに、甘かった。
花のような、果実が熟れたような、あるいは濃厚な香水のような匂い。
ヴァルラのお花畑で嗅いだむせ返るような植物の匂いとは違う。
もっと人工的で、脳の奥を直接とろけさせるような、胸がざわつく甘い香りだった。
角を曲がると、次の屋敷が見えてきた。
そこは、マリア・フォン・ハイリゲンクロイツの居城。
遠目には宗教施設のような、真っ白で清潔な建物だった。
だが、建物の正面ゲートに置かれているものが、ひどく異様だった。
純白の大理石で彫られた、巨大な『聖母像』。
その表面はなぜか油でも塗ったかのようにピカピカに磨き上げられ、不自然なほどテカテカと光を反射している。
神聖さよりも、どこか生々しくて、狂信的な空気が漂っていた。
この奥に、あの笑顔のマリアがいる。
オレはピカピカの聖母像を見上げながら、次に待ち受けるものの底知れなさを肌で感じ取っていた。
今までの選帝侯の居城とは全く違う。
とにかく、明るかった。
白い壁、白い床、白い天井。
壁の一面が巨大なガラス窓になっていて、これでもかというほど帝都の光が入る。
至る所に手入れの行き届いた生花が飾られ、上質な香が漂っていた。
どこを見ても清潔で、穏やかで、居心地がよかった。
——だからこそ、これまでで一番怖い場所だった。
マリアが、花々に囲まれるようにして立っていた。
やわらかい笑顔だった。
あのエレイナス・クロニカの砦で、栞を監禁し、冷酷に選択肢を与えながら精神的に追い詰めた時と、全く同じ完璧な笑顔だった。
因みに栞情報だが、7人の中で唯一の既婚者。
「は? この情報は本当なのか」
「えぇ。ヴァルシア王は飲まれたというより、自ら飛び込んだのよ」
夫は元ヴァルシア王国王子であるルイス。
王国の王位継承権を持つ人間が、帝国の一貴族に婿入りしている。
「帝国の法律だと、男系のみが王。ヴァルシアの再建は最初から不可能だった」
マリアの隣には、彼女の母親アグネスがいる。
彼女は静かな目をしていた。
豪華なドレスは着ておらず、普段なら誰の目にも留まらないような地味な立ち姿だった。
でも、彼女がマリアの『前』に立っている。その一点だけが、全てだった。
「いらっしゃい」
マリアが、花が咲くような声で言った。
「また会えて嬉しいわ、栞」
栞は、何も言わなかった。
オレは、隣に立つ栞を横目で見た。
彼女の顔には何も出ていなかった。
いつも通りの、感情を排した涼しい顔だった。
でも、違った。
今の栞は、限界突破レベルでブチギレている。
「栞」
オレは小声で囁いた。
「どうする」
栞はその問いには答えなかった。
代わりに、静かに、短く言った。
「背中を貸して」
「……え?」
「屈んで」
オレは言われるがまま、素直に屈んだ。
栞が、オレの背中にぴたりと乗った。まるでおんぶのような体勢だ。
「走って」
「走るって、どこに」
「まっすぐ。マリアに向かって」
オレは、弾かれたように走った。
アグネスが動いた。
『守り抜くが吉』——あの誠司と同じ、盾となるためのスキル。
彼女は、血統の要である娘・マリアを守るためだけに存在する、絶対の壁だった。
「溜めは?」
「溜めて」
オレは、マリアを目指してまっすぐ走った。
アグネスが、オレの前に立ちはだかり、盾を構えようとした。
カチカチカチカチカチ……。
「何をしているのですか、栞と。もう一人はぁ」
そして、踏み出した。
爆発的な加速。
オレと栞の二人の質量が、アグネスの真横を暴風のように通り抜けた。
アグネスがハッと振り返ったが、完全に間に合わなかった。
「……?」
マリアの完璧な笑顔が、一瞬だけ固まった。
オレの背中から身を乗り出した栞が、隠し持っていた短剣の刃を、マリアの腹部にピタリと当てた。
全てが、静止した。
明るい部屋が、死んだように静まり返った。
アグネスは、自分の背後に回り込まれたことに気づき、動けなかった。
「いつの間に……」
マリアが、笑顔を張り付けたまま呟いた。
「え……」
それは、オレが初めて見る彼女の顔だった。
あの完璧な笑顔の下に、初めて人間らしい恐怖と動揺が露わになっていた。
って。栞……さん?
マリアは戦闘スキルを持たない。
栞は彼女の母親なんて、1mmも見ていなかった。
オレは、膝をついて荒い息を整えた。
「栞……ちょっと怖」
「なに?」
栞が、マリアの腹部に剣を押し当てたまま、冷たい声で言った。
「勝ちは勝ちでしょ」
マリアが、長く、震える息を吐いた。
それから、彼女の顔に再びあの笑顔が戻った。
完全な、揺るぎない笑顔だった。
さっきまでの動揺は、嘘のように消え去っていた。
「そうね、見事だわ」
そして、キーワードを吐いた。
刃を突きつけられながら、余裕の笑顔のまま吐いた。
アグネスが、青ざめた顔で「マリア」と呼んだ。
マリアは振り返りもせず、「大丈夫よ、お母様」と優しく言った。
オレは、マリアのその不気味な笑顔をじっと見ていた。
余裕だった。彼女は、命を握られて負けてもなお、圧倒的に余裕だった。
栞が、スッと剣を引き、オレの隣に降り立った。
そして、マリアを真っ直ぐに見返した。
「『読み解くが吉』」
マリアが、穏やかな声で栞に語りかけた。
「本当に、素晴らしいスキルね。帝国はずっと探していたのよ」
オレには分かった。
栞には、余裕なんてなかった。
その対象に、マリア。
彼女が余裕な理由。キーワードを笑顔で吐ける理由。
帝国は、皇帝に一番近いとされる『読み解く力』を持つ栞のスキルを、絶対に手放さない。
この勝負に負けても、勝っても、関係ない。
栞という存在そのものが、帝国にとって何よりも欲する『血統のパズルのピース』なのだから。
それでも、栞は一歩も引かずに言い放った。
「……勝てばいいのよ」
これで、五個目が揃った。




