第107話 村田雄大の大冒険
帝国に入ってから、僕は、ずっと一人だった。
舞たちと別れて南へと向かう道すがら、正直なところ何度も後悔の念に襲われた。引き返そうかと、幾度も足を止めた。
でも、今更戻れない。
戻ったところで、また栞にあの冷たい論理で詰められるだけだ。
玲には虫けらを見るような冷たい目を向けられ、剛には呆れられるだろう。
そして何より——駆のことを、また考えてしまう。
『オレは、お前が何をしたって、お前を許してやるから』
ふざけるな。
あいつに許されるいわれなんてない。
僕はただ、舞の隣に立つために最善を尽くしただけだ。
だから、前に進むしかなかった。
選帝侯シグルドの砦は、北領と中央領の境界、乾いた風が吹き抜ける岩山の上に建っていた。
切り立った岩肌にへばりつくようにそびえる要塞は、近づくだけで肌が粟立つような威圧感を放っていた。
でも、僕は意を決して門番に頭を下げた。
「皇帝陛下に、お取り次ぎ願えますか。僕は異邦人です」
重武装の門番たちが、訝しげに顔を見合わせた。
しばらくして、重厚な鉄格子の奥から出てきたのは、銀色の髪をした若い男だった。
名乗られずとも、一目で分かった。
情報は知ってる。選帝侯の子、シグルド。
彼が纏う空気は、あのアラビアンな服を着た舞や、重装甲の剛たちとも全く違う。
この世界の人間じゃない種類の、剥き出しの刃のような『強さ』を持っている目をしていた。
「……異邦人か」
見下ろすような視線に、僕は唾を飲み込んだ。
「はい。僕は村田雄大。『唱えるが吉』のスキルを持っています。帝国は今、強力なスキル持ちを求めていると——」
「御託はいい。スキルを使ってみろ」
冷ややかな命令だった。
僕は息を吸い込み、詠唱を始めた。全力で。
左腕の袖口から、紫と黒が混ざった魔力痕がどくどくと脈動を始める。
痛みを堪え、魔力を練り上げる。
禍々しくも圧倒的な光が、砦の前の広場を照らし出した。
これなら、選帝侯相手でも不足はないはずだ。
だが、シグルドは退屈そうに、ただ片手を上げた。
それだけだった。
フッ、と。
僕が全力で練り上げたはずの魔法が、まるであたりの空気に溶けるように、音もなく消滅した。
反動すらなく、ただ『無かったこと』にされた。
「……レベル4か」
僕は目を剥いた。金獅子も同じことを言ったからだ。
シグルドが、心底つまらなそうに踵を返した。
「話にならん。帰れ」
重い扉が、無情にも閉ざされた。
僕は、虚空に消えた自分の魔法の残滓を見つめながら、乾いた広場に一人残された。
◇
とぼとぼと、重い足取りで歩き続けた。
帝国の農地は、異常なほど広かった。
地平線の彼方まで、ただただ緑と茶色の畑が続いている。
森がない。人が耕した土地だけが、パッチワークのように延々と広がっている。
かつて異邦人が農業革命をもたらした結果がこれだと、最近になってやっと聞いた。
フィニスのあの時間はなんだったのか。
これだけでも、情報になるかも
帰ろうか。
そんな考えが、また頭をもたげる。
でも、北には戻れない。
戻って、栞に何を言えばいい。駆に何を言えばいい。
あの夜、僕は確かに『そんな奴、知らない』と言ってしまった。
栞はそれに気づいていた。
でも、彼女はあえてそれを拾わなかった。
チーム全体を守るために、駆を切り捨てたのだ。
なら、駆に謝ろうか。
脳裏に、駆の飄々とした顔が浮かんだ。
……ふざけるな。
追放された後、駆はどうなっていた。
シオン、リーフ、フィオナ。三人とも金髪や色素の薄い、可憐な美少女じゃないか。他にも男が何人かいた気もするが、よく覚えていない。
苦労したみたいな顔をして恩赦を受けていたけど、あれのどこが苦労だ。
異世界チートで美少女に囲まれて、辺境の村でぬくぬくハーレム生活を送っていただけじゃないか。
僕だって、あんなふうになれるはずなのに。
その時だった。
農地の端に一本だけ残された、背の高い木。
その枝に、誰かの帽子が風で飛ばされて引っかかっていた。
木の下には、農作業着姿の村人たちが集まっていた。
背が届かず、誰も取れないで困っているようだった。
僕は、考えるより先に動いていた。
近くに転がっていた木箱の台を無言で引っ張ってきて、その上に乗る。
手を伸ばせば、ギリギリ届いた。
枝から帽子を取り外し、下で見ていた少年に差し出す。
「おおおおおっ!」
地鳴りのような歓声が上がった。
僕は固まった。
周りの人間たちが、まるで神でも見るかのような輝く目で、僕を見上げていた。
「す、すごい……!」
「あのお姿……まさか、噂に聞く……!」
……は?
帽子を取っただけだ。
そこら辺の台を使っただけだ。
魔法なんて一ミリも使っていない。
でも。
あれ?
これって——
◇
屋根の上から、村田雄大の姿を見下ろしていた。
台に乗って帽子を取る。
ただそれだけの物理的な動作で、農民たちが熱狂的に沸き立っている。
「面白いね」
奏は、背負ったリュートの弦を一本、静かに弾いた。
ぽろん、という音は風に溶けて消える。
村田雄大のステータスレベルは、シグルドの砦を出た時より、ほんの少しだけ上がっていた。
人々の歓声。畏敬の念。
それが『信仰』という形の交わりになっている。
本人は全く気づいていないだろうが。
(これが、前向き研究ってやつかな)
奏は内心で微笑んだ。
自分自身は、女王ルシアとの濃密な『交わり』によってレベル5へと至った。
だがそれは、権力者という限られた対象を用いた、後ろ向きの臨床研究に過ぎない。一つの特異な症例だ。
そして、今の村田雄大。
奏は、新しい詩の一節を口の中で転がした。
まだ誰にも聞かせていない、新しい旋律。
明日にはこの街に広まるであろう、英雄の詩。
村田雄大が台に乗って帽子を取ったという陳腐な出来事は、明日には『異邦人の英雄が、天に届く巨木から聖なる冠を取り戻した』という神話にすり替わっていることだろう。
奏はリュートを背負い直し、軽やかな足取りで次の街へと向かった。
◇
それから、僕のまわりで同じようなことが何度も起きた。
川に落ちた子供を助けようと水に飛び込んだら、僕より先に子供が自力で浅瀬に上がってきた。僕はただ水浸しになっただけだった。
だが周りの大人たちは「異邦人の英雄が、水の精霊を退けて子を救い出した!」と口々に叫び始めた。
泥濘で荷車が坂道で止まっていた。
僕が後ろから押したら、馬が踏ん張って動いた。
ただそれだけなのに、「英雄の無詠唱魔法で荷車が宙に浮いた!」と噂になった。
「い、異世界なのは分かってるけどさ」
僕は、どこまでも続く農地を歩きながら呟いた。
「なんで、なんか、こう——チョロいっていうか」
駆のやつ。
あいつは、ずっとこんな感じだったんだ。
なんだ。全然苦労なんかしてないじゃないか。
ちょっと動くだけで勝手に英雄扱いされて、美少女からチヤホヤされて。
北へ帰る気持ちが、あっという間に薄れていった。
駆に謝ろうという殊勝な気持ちも、一緒に跡形もなく消え去った。
◇
歩き続けて辿り着いたのは、南領の都市ベラードだった。
貴族の別邸が多いというその街は、帝国の豊かな南領の空気を象徴していた。
綺麗に整備された石畳。見上げるほど大きなロマネスク風の建物。
道を行き交う人々の服も、これまでの農村とは違ってやけに豪華だ。
僕は、すっかり英雄気取りでその中を堂々と歩いていた。
その時、ふと視線を感じた。
目が合った。
少女だった。
周りの貴族たちがフリルやレースをふんだんに使った中世風の豪華なドレスを着ている中で、その子だけが——どこか今風の、地味目でシックな服を着ていた。
僕が元いた世界の、ちょっとお洒落な女子大生のような雰囲気。
少女が、小走りでこちらへ近づいてきた。
「あの……勇者様、ですよね」
僕は、ピタリと固まった。
「僕を知って、るんですか」
「ええ。お噂は、かねがね聞いております」
少女が、悪戯っぽく微笑んだ。
ズッきゅん、と。
僕の頭の中から、北へ帰ることも、栞の論理も、駆への劣等感も、全部綺麗さっぱり吹き飛んだ。
「今、辺境が荒れていて、とても困っているんです。父も頭を抱えていて」
少女が上目遣いで言った。
「この程度なら」
僕は、左腕の魔力痕をチラリと見下ろし、余裕の笑みを浮かべた。
「短い詠唱で、楽勝ですよ」
◇
ベラードの赤い屋根の上から、二人を見下ろしていた。
村田雄大と、ランルフ・フォン・ズュートマルクの娘、イサベル。
「うん。うん。村田君、がんばれ」
奏は、リュートの弦を静かに弾いた。
イサベルは村田雄大を見つめ、「勇者様ですよね」と承認の言葉を投げかけた。
◇
イサベルに手を引かれるようにして、僕はズュートマルク領の奥深くへと足を踏み入れた。
彼女の言う通り、辺境は荒れていた。
野盗崩れの集団や、はぐれの魔物がうろつく、ほとんど無法地帯に近い場所。
でも——
「この程度なら」
僕の『唱えるが吉』の短い詠唱で、十分すぎるほどだった。
紫の雷光が走るたびに、敵は吹き飛び、灰になる。
鎮圧するたびに、領民たちの地鳴りのような歓声が上がった。
鎮圧するたびに、どこからともなく僕を讃える新しい詩が広まっていった。
鎮圧するたびに、イサベルが熱を帯びた瞳で「素敵です、勇者様」と僕の手を握った。
僕は——最高に、悪くない気分だった。
◇
「父に会ってください」
イサベルの唐突な提案に、僕は少し戸惑った。
「き、気持ちが早すぎませぬか!? まだ出会って数日ですし、ご挨拶の手土産とか——」
しかし、彼女にぐいぐいと手を引かれ、気づけば巨大な宮殿を思わせる、大広間の中央に立たされていた。
玉座のような椅子に、一人の巨大な男が座っていた。
まるで古代のファラオを思わせる、豪奢で威圧的な出で立ち。
「南領の覇者、ランルフ・フォン・ズュートマルク辺境伯。……って呼ばれてるけど、良い父なんです
眼光が鋭かった。
こちらの骨の髄まで値踏みするような、猛禽類の目だった。
僕はゴクリと唾を飲み込み、深呼吸した。
まずは礼儀正しく頭を下げようとした。
その瞬間、横にいたイサベルが明るい声で叫んだ。
「ね、お父様!」
つられて、僕の口から勝手に言葉が滑り出た。
「お、お、お父様!」
広間が、水を打ったように静まり返った。
護衛の兵士たちが一斉に槍を握り直し、殺気が膨れ上がる。
ランルフが、玉座からゆっくりと立ち上がった。
巨躯から発せられるプレッシャーに、僕は完全に死を覚悟した。
魔法を唱える隙さえない。
殺される。
「……気に入った」
ランルフが、豪快に腹の底から笑った。
◇
ランルフの屋敷の巨大な窓。
その外側の装飾に出窓のように座り、奏は広間の中を見ていた。
村田雄大が緊張のあまり「お、お、お父様!」と叫んだ瞬間、奏は思わず吹き出しそうになり、必死に口を抑えて堪えた。
ランルフ・フォン・ズュートマルクが何を考えているか、奏には手に取るように分かっていた。
この世界のおそらくは、原初の異邦人。
かつて大陸は、魔物が跋扈していて、そこに伝説の異邦人、田中まさるが現れた。
その田中まさるはどうでもいい。
今はグレート・マサルなんて呼ばれている。そこがいい。
村田雄大は田中まさるの再来。それがいい。
ランルフは、グレートまさるの血統を再び自領に根付かせ、カノープスのバラバラだった宗教を纏める。
そして、帝都でふんぞり返る選帝侯たちの権威を、宗教的な正当性から根底から揺さぶる。
巨大な政治の渦。
だが、渦の中心にいる村田雄大本人は、そんなことに微塵も気づいていない。
イサベルへの下心が本物だからこそ、余計に滑稽で、哀れだった。
奏は、満足げにリュートを背負い直した。
次の詩の題材は、もう決まった。
ランルフに認められた新たな勇者の武勇伝。
村田雄大のレベルは、そろそろ上がるだろう。
──レベルが上がれば、証明完了だ。




