第105話 小さな食事会と二人の決意
食事会が開かれたのは、セルノが見つけてきた宿の一室だった。
油の匂いと、微かにカビの混じった古い木の匂いがする狭い部屋だ。
部屋の中央には丸いテーブルが一つ置かれているが、どう数えても全員分の椅子が足りない。
結果として、自分よりでかい大盾を背負ったリーフが壁際に所在なげに立っていた。
それを見た蹴鞠が「そこに座りなさいな」と自分の椅子を勧めた。
リーフは慌てて「結構です」と断った。
しかし蹴鞠は引かず、ドレスを翻して自ら立ち上がってしまった。
貴族の矜持というやつだろう。
結局、二人とも壁際で並んで立つという奇妙な構図が出来上がっていた。
「なんで二人とも立ってるんだ」
エヴァンが、至極真っ当なツッコミを入れた。
リーフは困り果て、蹴鞠は扇を片手に涼しい顔をしている。
ふと見ると、イルマさんがテーブルの『上座』にどっかりと座っていた。
誰も何も言っていないし、席を決めたわけでもないのに、自然とそうなっていた。
歴戦の猛者のようなオーラがそうさせるのか、彼女の持つ独特の静かな威圧感がそうさせるのか。
フィオナがその隣で、甲斐甲斐しく大皿の煮込み料理を取り分けている。
ヴォルフはすでに、無言で黒パンをスープに浸してモソモソと食い始めていた。
「いただきます」
オレは出された木の器を前に、習慣で両手を合わせた。
ほぼ完全に同じタイミングで、対角線上に座っていたセルノが手を合わせた。
二人でバチッと目が合った。
「……ハモりましたね」
「ハモったな」
久しぶりな気がした。
オレたちが小さく笑うと、エヴァンが釣られて笑った。
シオンが色素の薄い目を細めて小さく笑い、フィオナが嬉しそうに口元を綻ばせる。
イルマの左の眉毛が、ピクリと二ミリ動いた。彼女なりの、極上の微笑みだ。
「ここで生きるのも悪くない……か」
ただ、和やかな空気は、しかし長くは続かなかった。
「帝国の動きが雑すぎるな」
ヴォルフが不意に低い声で言った。
スープの椀を置いたまま、視線はテーブルの木目の一点に突き刺さっている。
「エレイン教会のネットワークが復活し始めたのを、向こうも把握してる」
「ええ」
セルノが真剣な顔で頷いた。
「修道院への手紙で、道中に開封された痕跡があるものが増えています。全部ではないですが」
「つまり、内通者が絞りきれていない」
「はい。だから重要な情報は口伝を使っているんですが——」
「口伝は遅い」
「……遅いですね」
一拍、重い沈黙がテーブルに落ちた。
帝国の影は、オルエレア大陸のどこにいても必ず付き纏う。
「もう一つ」
ヴォルフが言った。声がわずかに、さらに低く、ざらついたものになった。
「教会のネットワークで、人を探せるか」
「人を、ですか」
「女だ。イルゼという。俺の妹だ」
セルノは少し驚いたようにヴォルフを見た。
ヴォルフは視線をテーブルに落としたまま、決して顔を上げようとしなかった。
「徴兵で生き別れた。帝国のどこかにいるはずだが、消息が途絶えている」
「……なるほど」
セルノは静かに、それだけ言った。
「事情は分かりました」
余計なことは一切聞かなかった。
同情も、哀れみも挟まない、司祭としての真摯な返答だった。
ヴォルフもそれ以上は何も言わなかった。
二人はそれきり黙り、難しい顔のまま、それぞれ飯を口に運び続けた。
そんなシリアスな会話が聞こえているのかいないのか、エヴァンは野生児のごとく骨付き肉を齧りながらぼんやりと天井を眺めている。
シオンはオレの袖を引き、「精霊が難しい顔してる」と小声で言った。
フィオナがとてとてと歩み寄り、オレの隣にちょこんと座った。
「あの、カペー様」
「駆でいいよ」
「駆様!」
「様もいらないって」
「駆……さん」
フィオナは少し考えてから、青い瞳を瞬かせてまた口を開いた。
「あの、ヴェルナに戻ってきたら、また来てくれますか。イルマ様がまた会いたいと言うと思うので」
「イルマさんが?」
「多分言わないですけど、思うと思うので」
オレは思わず苦笑いした。
あの表情筋が仕事をしていないお婆さんが「また会いたいわ」などと言う姿は想像できない。
「まあ、またその辺通ることがあればな」
「あの、それから」
フィオナが食い気味に続けた。
「あの靴、ちゃんと役に立ちましたか。イルマ様が随分と——」
「あら」
優雅な声が割り込んできた。
蹴鞠だった。
いつの間にかリーフを壁際にそっと置いたまま移動してきて、フィオナの隣に立っていた。
「あなた、可愛いわね」
フィオナが驚いて顔を上げた。
「え、あの」
「その金色の髪。南方の血ではないでしょう。どちらのご出身?」
「え、えっと、帝国の山の向こうから……両親が」
「まぁ」
蹴鞠は言った。
パチンと扇子を開き、口元を隠す。
「それは遠いところから。ご両親はお元気?」
フィオナの動きが少し止まった。
ほんのわずかな影が、幼い顔に落ちる。
「……いません」
「そう」
蹴鞠は、それ以上何も聞かなかった。
パチン、と静かに扇子を閉じる。
「なら、今夜のご飯は美味しかった?」
フィオナは一瞬きょとんとしたが、少し考えてから、ふわりと笑った。
「はい。とても」
「そうよね」
蹴鞠が柔らかな声で言った。
「美味しいご飯は大事だわ」
その見事な話題のすり替えに感心しながら、オレはその隙にスープの残りを一気に胃袋へ流し込んだ。
テーブルの向こうで、エヴァンが「器用だな」と小声で言った。
シオンが「精霊が感心してる」と答えた。
ヴォルフとセルノはまだ難しい顔で話し込んでいる。
イルマさんは何も言わずに、ただその光景を眺めていた。
ただ、彼女の眉毛が、一ミリだけ動いていた。
◇
食事が中盤に差し掛かった頃、誠司が背後からオレのパーカーの袖を引いた。
小声で呼ばれる。
「ちょっといいか」
オレが立ち上がると、美咲も一緒に席を外した。
蹴鞠がこちらにチラリと視線を送ってきたが、何も言わなかった。
三人で、少しひんやりとした薄暗い廊下に出た。
誠司はしばらく黙ったまま、床の木目を見つめていた。
美咲はその隣で、彼に寄り添うように静かに立っている。
「俺たち、正規軍と共に残ろうと思ってる」
絞り出すような誠司の言葉に、オレは瞬きをした。
「……フィニスの騎士団と、ってことか」
「ああ。帝国への遠征は——。俺の限界が、そこだと思った」
少しの間が空いた。
「お前には、ついていける気がしない。凄いとか凄くないとかじゃなくて。俺の限界が、そこだと思ったんだ」
オレは黙って聞いていた。
エインハラの闘技場で、誠司は重力魔法の嵐の中、必死に立ち回っていた。
でもそれは、帝国の中枢と渡り合うための力とは少し違った。
彼は普通のライトオタクで、普通の倫理観を持った『良いヤツ』だ。
「美咲も、同じ気持ちだ」
美咲が小さく頷いた。
それから、オレに向かって深々と頭を下げた。
「危険な任務なのに、ありがとうございました」
「いや……えっと。誠司は、エインハラで蹴鞠を助けるついでに逃げてきたっていうか……」
「駆?」
誠司が怪訝な顔をする。
「あ、なんでもない」
「と、とにかく。私は心配で、心配で。全然『清く守るが吉』じゃなくて……私、足引っ張っちゃうから……」
美咲の声が、わずかに震えていた。
異世界に放り出され、戦わされ、死の恐怖に怯え続けた等身大の恐怖がそこにあった。
「リア充……」
オレは、ポツリとこぼした。
「ちょ、それは」
誠司が慌てる。
美咲も口元に手を当てた。
「でもオレ、二人のリア充は好きだよ」
その言葉に、誰も何も言えなくなった。
美咲が、堪えきれずに泣き笑いのような表情になった。誠司が何か言おうとして、結局言葉にならずに口を噤む。
三人で食事会の部屋に戻る直前、誠司が小声で言った。
「蹴鞠には、話してるから」
「……そっか」
部屋に戻ると、蹴鞠は何事もなかったように、リーフの背負う大盾を扇子でツンツンと小突いていた。
「この新しい盾、どこで調達しましたの。ずいぶん頑丈そうですけれど」
「……イルマさんに、もらいました」
「まあ。イルマ様神様仏様ですわね」
上座のイルマさんの眉毛が、再び二ミリ動いた。
◇
食事がすっかり落ち着いた頃、イルマさんが唐突に口を開いた。
「駆、靴の調子は」
「さっきも言ったろ。さいっこうだって。足に馴染んでる」
「そうじゃったな。お主は勇者の権利を得た。その靴も、クローゼットで直すとよい」
「……え。マジッククローゼットって、異邦人の服を直すやつだろ? この靴、もともとそれ対応だったのか」
「そうじゃ」
「なんで? だってこれってさ」
「過去の異邦人のものじゃからの」
オレは目を剥いた。
足元を確認した。
海の色に光り輝く魔法石。
てっきり、異世界のモノだと思っていたからだ。
でも、言われて気付く。蹴鞠を見ても分かる。
部屋が、水を打ったように静まり返った。
他の誰か、名も知らぬ誰か、多分男の靴だった。
このオルエレアという歪な世界に召喚され、絶望し、足掻き
——結局、元の世界に帰れなかった、名もなき誰かの。
「異邦人の……」
テーブルの誰もが、言葉を失った。
フィオナが静かに俯いた。
セルノが痛ましそうに目を閉じた。
エヴァンが、助けを求めるようにヴォルフを見た。
ヴォルフは黙って、手にした杯をテーブルに置いた。
重く、冷たい空気が部屋に満ちる。
「そっか。そーか」
オレは、努めて明るい声を出した。
「エヴァン」
隣のエヴァンの肩をバンッと叩く。
「駆、なんだよ……」
「み……水虫とか、大丈夫かなって。誰かの靴だし」
「その為のマジッククローゼットでしょ!!」
エヴァンが食い気味にツッコミを入れた瞬間、反対側から蹴鞠がオレの肩を扇子でペチンと叩いた。
張り詰めていた空気が弾け、ドッと笑いが起きた。
イルマさんの眉毛が、これまでにないほど
——たぶん三ミリは動いた。
フィオナが笑う。
シオンが「精霊が大爆笑してます」と真顔で言った。
ヴォルフが呆れたように小さく鼻を鳴らした。
蹴鞠が、目を丸くしているリーフに小声で囁いた。
「速水殿は、ああいう方ですのよ。空気を読むのがお下手なのか、お上手なのか」
リーフは少し考えてから、小さく頷いた。
「そうみたいですね」
窓の外では、夜がすっかり更けていた。
オレはもう一度、足元を見た。
誰かの靴を履いて、オレはこの世界を走っている。
帰れなかった誰かが履いていたその靴で、まだまだ、逃げ続けなければならない。




